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「ごきげんよう」
「………………」
アリサも人見知りだけに、知らない人に声を掛けられて直ぐには返事が出来ない気持ちがわかる。それに、相手はまだ小さい子供。知らない人を警戒するのはしょうがない。自分だってそうなのだから。
それでもアリサはこの少女と交流を持ちたいと思い、もう一度話しかけた。
「それって何の絵ですの?」
「………………」
返事はなく、黙って小さな木の枝を手に持ち、地面に絵を描いている。
「いきなり話かけてごめんなさい。わたくしはアリサっていいます。あなたのお名前を聞いてもよろしくて?」
「……フィラー」
今日は無視されて走り去られることはなく、名前を教えてもらえたのがアリサには殊の外嬉しかった。この地に越してきて、家族以外の住人と言葉を交わしたのは、フィラーが初めてだった。
「フィラーちゃんね。お母さまは?」
「………………」
まだ心を許してくれないのか答えてくれなかった。目線を地面に戻し、絵の続きを描き始めている。
フィラーちゃんは4歳くらいかしら?
前も見たから集合住宅に住む住人で間違いないと思うけど、お母さまはどこにいるの?
アリサは辺りを見回したが、それらしき姿の女性はいない。杖を持って散歩している片足が不自由なおじいさんはいたが、関係ないだろう。
「それは何の絵ですの?」
「……魔方陣」
「ま、魔方陣ですって!」
アリサは驚いた。こんな幼い少女が魔方陣を知っているなんて。アリサは魔術が大好きだけど、魔方陣は専門知識を理解していないと無理なのだ。だから余計に少女に言った事が信じられなかった。
直径10cmほどの丸い円の中に描かれている記号を興味深く眺める。
フィラーに親近感を覚えたアリサは、彼女と仲良くなりたくて一緒に遊ぶ事を提案する。
「わたくしも隣で絵を描いてよろしくて?」
フィラーは少し考えた後に、こくりと小さく頷いた。
「よろしいの? ではご一緒させてくださいませ」
アリサは嬉しくてしょうがなかった。今朝から憂鬱な気分だったけど、どこかに吹き飛びフィラーと遊ぶことだけに意識を向けた。通学用の鞄を置き、すぐさまフィラーの隣にしゃがみこんだ。
「わたくしは何を描こうかしら」
「人描いて。男の人がいい」
「分かった。ちょっと描いてみるわね」
「この枝使っていいよ」
「ありがと」
フィラーから絵を描くために小さい枝をもらった。
自分を貴族扱いしないフィラーとの会話は楽しく、地面にお絵描きするのは初体験で心が躍るようだ。
アリサはますますフィラーの事が好きになっていく。一人っ子のアリサにとってフィラーが妹のように思えたからだろう。
一緒に過ごすうちに少しずつ慣れてきたフィラーは、子供らしいハツラツとした声で、「出来たよ!」と、魔方陣の完成を伝えた。
知識のないアリサには魔方陣が完成したのか確認する術がない。フィラーが言うならそうなのだろう。
「おめでとう。フィラーちゃんはすごいね」と、祝福の言葉を告げた。
「うん」と、フィラーは笑顔で答えた後に、「お姉ちゃんは描き終わった?」と聞いてくる。
「もうちょっと」と答えて続きを描く。
絵が不得手なアリサは、子供が描くような簡単な人の姿を描いていた。顔だけじゃなく、全身像まで描き終えると、「出来たよ」と、フィラーに笑顔で伝えた。
「名前を付けるね」とフィラーが言うと、アリサが描いた男の人の横に『アルベール』と書いた。
聞いた事がない知らない名前にアリサは「これは誰なの?」と尋ねる。
「おじさんだよ」
「おじさんって? フィラーちゃんのご家族?」
「ううん。魔方陣を教えてくれた人」
アリサはフィラーに魔方陣を教える人物が気になった。自分にも教授してくれないか期待を込めて所在を確認する。
「おじさんはこの近くに住んでいるのかしら?」
「うん、あそこの部屋にいるよ」と、アリサの部屋を指さした。
そんな馬鹿な。そんな筈はないと、立ち上がって指の先をもう一度確認すると、その隣の304号室だ。現在アリサを悩ませている部屋で、商業ギルドの人が空き部屋と言っていた部屋。驚いてフィラーに尋ねた。
「それは本当なの? あそこの部屋におじさんがいるの?」
「うん。おじさんがそう言ってた」
「入ったことはあるの?」
「ううん。いつもお外で会ってたから部屋に入ってない」
304号室を見つめたままのアリサにフィラーは言った。
「また一緒にお絵描きしてくれる?」
フィラーの言葉でハッと我に返り、何事も無かったように「うん……いいよ」と答えた。
アリサはフィラーよりもおじさんの事が気になって仕方がない。フィラーに魔方陣の知識を与えれて、自分を悩ませている部屋にいる。でもそこは空き部屋のはず。意味が分からなくて、ぜんぜん考えがまとまらない。
思考を止めたのはフィラーからの言葉だった。
「……お姉ちゃん、魔方陣に触れてみて」
断りたかったけど、イヤとは言えず、言われた通りにするためにしゃがみこんだ。
魔方陣に触れると、体内の魔力が減った感じがして、「ひえっ」と短く悲鳴を零す。特になにか起こることはなくアリサはホッとしていた。もしこれが良くない魔方陣なら、どんな恐ろしい事があるのか分からない。
フィラーはアリサの様子を気にもせず、「もう行くね」とアリサに別れ言葉を言って、その場を走り去った。
自分の中で魔方陣に触れたことの気持ちが消化できずにいたが、フィラーに「またね」と返して彼女の後姿を見送った。
さて自分も帰ろうかと振り返った時に、アリサは目を見開き、口を大きくあける。目の前で見える光景に言葉を失う。
魔方陣を描いた場所には、黒いローブを着た顔色の悪い男の人が立っていた。声も出さずに血走った目でアリサを見ている。アリサは驚きのあまり手に持っていた小枝を落としてしまう。
「きゃ……、きゃあああああああああああっ!」
アリサは悲鳴を上げながら、逃げるように駆け出す。脇目も振らずケリーが待っている家を目指して全速力で階段を上っていった。
アリサは知らなかったが、黒いローブの男の姿はすでに消えていた。その場に残っていたのは、アリサの通学鞄だけだ。二人で描いたお絵描きの後は何もなく、少しの痕跡すらも無かった。
アリサから頼まれたケリーが、鞄を回収に行った後でそこには何も無かったと報告していた。




