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翌朝。
アリサはケリーが起こしに来るより早く起きた。クローゼットからカーディガンを取り出して羽織る。気持ち的には1秒でも早く部屋から出たかったが、寝間着姿のままでは母親に叱られるのが分かっていた。何もしないよりはマシなので上着を羽織っている。
余程焦っていたのか貴族令嬢らしからぬ行動をしてしまう。髪をとかしておらず、内靴を履くのも忘れ、裸足のまま小走りでリビングに向かっていた。
「アリサ、貴族令嬢としての自覚がなくてよ。明日から学校に行くのですからしっかりしなさい」
リビングのドアを開けるなり母親から叱られた。部屋まで来るときの足音に気が付いていたと思われる。
「お母さま、ごめんなさい。気を付けます」
出鼻を挫かれたアリサはシュンとしている。見かねたデュークはアリサの許にいき、軽くハグした後に彼女の額にキスをした。
「おはようアリサ。今日から新生活が始まるよ」
「おはようございます。お父さま、お母さま。昨夜も大きな音がしました。例え猫だとしてもわたくしは怖いのです。前の家に戻れませんか?」
アリサに言われてデュークは苦虫を嚙み潰したよう顔になる。
「すまないアリサ。ここには王命で来ている。貴族である私がそれに背くことは出来ない。仕事に行く前に商業ギルドに行くし、防音の魔術具を借りれないか職場でも聞いてみるよ。だから分かってくれるかい?」
アリサとて貴族だ。王命で引っ越してきたことも理解している。それでも娘の必死なお願いを優しい父親なら叶えてくれると思ってたから、かなり落胆してしまった。せめて商業ギルドが今日中に問題を解決してくれることを願うしかない。
「はい。お父さま。わがままを言ってごめんなさい」
アリサは泣きたくなる気持ちを必死に耐えた。
朝食の後、リビングにあるダイニングテーブルに家族全員が着席しており、お茶を飲んでまったりしていた。食べ終わった食器を片付けたケリーも自分で淹れたお茶を飲んで一息ついている。ケリーを見て思い出したかのようにミレイアが呟く。
「そうだわ、ケリー。頼んでおいたご近所さんの挨拶よろしくね。全部の階は要らないわ。商業ギルドからお手紙出すそうだから。そうねぇ、同じ階の住人と、この部屋の上と下の階の住人には挨拶しといてくださる?」
昨夜の夕食時にミレイアは全員に話をしていた。貴族が我が家だけなので商業ギルド経由で住民から挨拶に伺うようにすると言われたが断った。付き合いもない人達に何度も挨拶に来られるのは迷惑だから。だからミレイアは引っ越してきた事と挨拶は不要だという内容でギルドから手紙を出すように指示した。近所だけは最低限、こちらから挨拶はすることも伝えてある。
貴族として平民に対してこちらから挨拶するような事はしない。これは下級貴族でトラブル回避する際に身につけたミレイアの処世術である。
「あらお母さま。上の階は空き部屋だと聞いておりますけど?」
話を聞いていたアリサが間違いを指摘した。
「ああ、そうだったわね。私ったらうっかりしてました。そういう訳だから上の階は不要よ、ケリー」
「奥様、了解しました。お部屋の掃除が終わったら挨拶に出向きます」
「僕からもよろしく頼む。それと、時間が空いている時はなるべくアリサの側にいてやってほしい」
アリサを心配したデュークがついでとばかりに用事を頼んだ。
「はい。旦那様。承りました」
★★★
部屋の掃除を終えたケリーは近所の挨拶回りに出かけることにした。引っ越し早々、会った事もない平民への挨拶なんかより、家の事をしたいと考えているケリーも雇い主の命令には逆らえない。
玄関を出ると、自分で調理した焼き菓子片手に同じ階の住人から挨拶することにした。
空き部屋なのは聞いていたが、お隣の304号室の呼び鈴を鳴らす。1分程待ち、何も起こらない。このまま302号室に行こうと思っていたら、お嬢様の顔が頭に浮かび、思わずドアノブに手をまわした。
「鍵がかかってるわ。そうよね、空き部屋なんだから」
304号室を後にして302号室に向かおうとして歩き出す。
バタンッ!
「今のって……」
もう一度304号室のドアノブに手をまわしてみたが、やはり鍵がかかって開かない。
「上か下の階の方かしら? なんてタイミングが悪いのでしょう。ふふっ、お嬢様の怖がりが私にもうつったみたいね」
今度は戻ることなく302号室まで来たケリーは呼び鈴を鳴らした。しばらく待っても誰も出てこない。念のためにドアをノックしてみたが結果は一緒だった。ドアに貼り付いているメモを読んでみる。
『不在の場合は鍛治工房にいます。マロット』
「この部屋はマロットさんと言うのね。時間的にお仕事に行っててもおかしくないわね」
ケリーは挨拶する時間帯を間違えたかなと思いつつ、ドアノブに焼き菓子が入った袋を引っかけて、次に向かう。
301号室の呼び鈴を鳴らす。しばらく待つとドアが開き、眠そうで髪の毛がボサボサの若い男性の顔が見えた。
「あの、私はケリーと申します。旦那様の……」
バタンッ!
ケリーの呼びかけを最後まで聞いてくれず、ドアは大きな音を立て乱暴に閉められてしまった。キョトンとしたケリーには一瞬、何が起こったか理解できなかった。
話しかけている最中にドアを閉められるという行為自体が初めてのことだが、自分は貴族である旦那様の代理で来ている。それを平民があのような行いをしたことに腹を立てた。
「なんて嫌な人なんでしょう。あのような殿方はお嬢様の教育によくありません。これは商業ギルドに文句を言わなくてはいけないわ」
憤慨はしてたが、ドアノブに焼き菓子が入った袋をひっかけて、下の階へ降りる階段に向かう。
202号室の前に来たケリーは呼び鈴を鳴らす。暫く待つとドアが開き、人懐こい顔をした丸顔のお婆さんが見えた。
「あの、私はケリーと申します。昨日303号室に引っ越してきまして、旦那様の代理でご挨拶に伺いました。これはご挨拶代わりの焼き菓子です」
「あらこれはご丁寧に。私みたいな年寄りに挨拶してくれて、しかも焼き菓子までくれるなんて。アンタいい人だね。旦那様方にもよろしく言っといておくれよ」
言葉使いは平民だけど、悪い人では無さそうでケリーは安心する。
「はい。ところでつかぬことを尋ねたいのですが、この集合住宅では不可解なことが起きたりしませんか? もし知っている事があれば教えてもらいたいのですが……」
「すまないねぇ、用事を思い出したのでこれで失礼するよ」
お婆さんは言い終わるとドアを閉めた。急変した態度にケリーは、何か話したくない事があるんだと勘ぐってしまった。
上の階に戻って来たケリーは最後に304号室を確認しようと見にきたら、信じられない事が起きていた。
鍵が閉まっていたドアが、開いているのだ。
「なんでドアが開いているの? だってさっきは鍵がかかっていたのに」
怪しい。それは間違いない、さっきまで鍵がかかっていたのだから。ドアから見える景色は家具も何も置かれていない空っぽの部屋。
何も起きるはずないと安直に考えていたケリーは、好奇心を抑えることは出来ずに部屋に足を踏み入れた。




