嫌悪
赤星は、今日買ったばかりの着物をまた理央に着せてもらった。着物を着るのはこれが初めてのことだったが、女物と違って浴衣と大差はない。これならあと2,3回も着れば、自分で着られるようになるだろうと安心した。
加賀友禅の小紋は、正絹でできており、滑らかな肌触りが心地良く、少しひんやりとした爽やかさは、夏場に着ても問題なさそうだった。むしろ、そうでなければ困る。赤星は、この小紋を部屋着にして、日常的に着るために購入したのだから。値段相応の高級感のある仕上がりで、格式の高さを醸し出しているが、同じくフォーマルな場で着用するスーツに比べて動きやすいのが良い。
「そういえばこの着物、理央が持ってきてくれたスーツと同じ色の組み合わせだよな。」
着付けが終わった赤星は、肩を回したり、少し動き回ったりして感触を確かめる。そうしているうちにふと、肌触りや動きやすさとは別の、馴染みのある快さを感じた。頭の中をかき回してその正体を思案する。そうすると、この着物の色が、優人たちとのディナーに着ていったスーツと同じだったことに気が付いた。その時着ていたのが、濃紺のスーツに赤いベストのコーデだった。
「将一くんに似合う色のを持ってきたから、きっとそれが正解なのよ。やっぱりセンスがいいのね。」
少し低音ながら、透き通るような甘い声で突然褒められた赤星は、面映い心持ちがしたが、褒めても何も出ないぞと、ひと言だけそっけなく返した。
この後は、理央から湯浅に関する報告を聞く予定だ。彼女を呼びつけたのもそのためだ。だが、その前に妻のすみれに電話をするため、赤星は庭先まで出てきた。理央にはしばらく待っているようにと言っておいた。
夕方まで降り続いた雨は、止んでなお未練がましく分厚い雲で空を覆っていた。そのせいで夜は一段と暗く、眼下に広がる街の明かりが、雨粒の結晶に反射して煌めいていた。
どのくらい話したか分からない。スマホの画面を見ると、37分と表示されている。その時間を見ている間にも、数字は増え続けている。赤星は、はじめは今日行った店や食べたものの話をしたが、その後は何を話したのか覚えていない。赤星自身はあまり喋るタイプではないが、その分すみれがよく喋るので、取り留めもない話が次々と展開していったような気がする。
ただ一つ覚えているのは、すみれは今日時間がたっぷりあったので、手間のかかる料理を作ってみたということだった。明日は、一晩寝かせたラムチョップのローストとビーフシチューが待っているらしい。楽しみだ。よく分からなくて苦戦したことや、こだわったポイントを話す声を、赤星は可愛いと思った。
通話時間の桁が1つ上がった時、不意に視界が明るくなった。その明かりは徐々に広がっていく。スマホを手に持ったまま空を見上げると、僅かに雲が途切れた間から月が見えていた。それまで雲に遮られていた月の光が届くようになったのだ。
「こっちだと、今ちょうど月が見えるようになったんだけど、そっちはどう?見える?」
「月?ちょっと待って。」
ごそごそと小さな音がして、
「ほんとだ、こっちでも見えるよ。」
一段と落ち着いた声がした。
「もし俺が、夜を渡るあの月なら、家にいる君に会いに行くのにな。」
赤星は『万葉集』にある有名な月の歌を呟いた。一瞬の静寂。
「ふふ、ロマンチックだね。何かの歌詞?」
「うん、そんなところ。」
「おやすみ。」
「うん、おやすみ。」
赤星は、再び月が隠れるまですみれと通話を続けた。
「悪い、随分待たせた。」
「いいのよ。」
「今宵の月を君見ざらめやって感じだね。」
「あら、信明と中務?同じ心じゃなかったの?」
赤星は目を見張った。「まぁ、こればかりは仕方ない。生きてきた世界が違いすぎる。しかしよく分かったな。」
「三十六歌仙でしょ?有名なのは高校生の時に覚えたもの。」
「すご、俺より早いじゃん。俺覚えたの大学院に行ってからだわ。」
「フフ、私の勝ち。それより、そろそろ本題に入りましょうか。」
「ああ。」
2人は部屋の中央に設えられている小さな机に、向かい合って座った。
「何度か報告した通り、労務部で社内のハラスメント調査を行なったの。そうしたら、あなたの狙い通り、湯浅の周りでいくつか報告があったわ。それで、今日持ってきたのは、あなたが聞きたいって言っていたヒアリングの録音データよ。」
理央がレコーダーを取り出して、机の上に置いた。ボタンが押されて再生される音声を、赤星は落ち着いた様子で聴いていた。録音の中の男は次のように語った。
月曜日の朝、その日はいつものようにミーティングがあった。内容もほとんどいつも通りで、今月の目標、今部が進めている仕事、その具体的な課題なんかを部長が話した。ただ、いつもと少し違ったのは、会社の売上が停滞し始めていることが告げられたことだ。それから、1番いつもと違ったことは、売上を回復させるために、開発部の方でも新しいプロジェクトを立ち上げるということだった。
自分もメンバーの1人に選ばれて、プロジェクトリーダーには湯浅さんが選ばれた。ただ、湯浅さんは前の月に課長になったばかりだったから、本人はスピード出世だと喜んでいたが、他の社員は多かれ少なかれ不審に思っていたし、湯浅さんの同期は特に不満を抱いていた。湯浅さんは特に優秀というわけでもなく、むしろ同期の世良さんの方が仕事ができて、管理職にも向いていたと思う。
その証拠に、このプロジェクトのメンバーは、自分も含め散々な目にあった。だが、このときの自分は、会議に参加していた人は、リーダーの人選を少し不思議に思っただけだった。だが、それが甘かった。
何回目かの、確か3回目のミーティングは、各々で先例や市場を調査してきて、それを報告するというものだった。
前の人の報告が終わり、最後に自分の番が回ってきた。
「グラフに示したように、近年はドローン市場が拡大しており、多数のドローンを用いたドローンショーや、花火大会とのコラボレーションなども行われるようになってきています。中国では、オリンピックなどの国際的な行事でもドローンショーが行われ、市場規模がますます拡大しています。
日本でも徐々に実施回数が増加し、その規模も大きくなりつつあることから、いずれはより大きな市場になることが見込まれます。
現在わが社では、こうしたドローンのプログラムに関する業務は行なっていません。なので、今の段階で、将来性のあるドローン市場に参入できれば、売上の向上が図れると思われます。」
自分が話し始めてから、湯浅さんは机を指先で叩いたり、首をかしげるようになり、明らかに機嫌を損ね始めた。
「具体的な数値を算出すると、」
「ちょっと待って。」
「はい。」
「もう報告やめ。何コレ?」
室内に険悪な空気が流れ始める。他の社員は気まずさからか、下を向いたり、資料に見入っていたりしていた。
「はい、えっと、どこがでしょうか。」
「いやまぁ言いたいことは色々あるけどさ、まずお前先例調べてきたか?」
「いえ。」
「なんで?」
確かに、自分以外の報告には、全て部の先例があったが、それは偶然だった。いや、むしろ自分で考えるのが面倒だからやりやすいものを持ってきたというやつもいた。それに、先例を踏まえなければいけないという条件は無かったはずだ。
「あの、えー前回までのミーティングで、内容は実現可能かどうかは問わないので、自由にしてくれていいと言われたので。」
「いや実現できるかはまだ分からんからいいけど、うちで請け負ってるかどうかは別だろ普通に考えて。」
「はい。」
「何で調べてこなかった?」
「いえ、あの、資料にも示した通り、新規事業に展開できればと。」
少しずつ自分の語尾が弱くなってきているのを感じる。
「いやお前エンジニアだろ?現場の負担考えろよ。」
「はい、すみません。」
「まぁいいや、いやよくないけど、一旦置いといて、そもそもこの時点で前提から崩れたからこの報告は意味がないけど、あと何?中国の話?いらないでしょ。」
「あの、中国の話に関しては、日本ではまだ市場が小さいので、参考として入れました。」
「あ、そう、でもそもそもここ日本だろ?中国の話してないじゃん。日本の話してくれよ。で、しかも日本の市場小さいの?なおさら何でこの話した?」
「すみません、あの、将来性が、」
「さっきから将来性とか言ってるが、それお前に分かんの?分かってる?このプロジェクトの趣旨。」
「はい。」
「会社の売上伸ばすためにしてんだろ?ならもっといいのがあるだろうよ、売れるのがよ。北条のとか、絶対あっちのがいいじゃん。お前が好きなことしたいんなら、自分の会社作ってしてくれよ、え?」
「はい、すみません。」
自分の報告を中断されてからは、その日の報告内容の検討が行われた。しかし、ここなら係長の機嫌が直ることはなく、終始沈鬱なムードが続いた。
この頃から、係長の自分に対する高圧的な態度や人格を否定するような発言が増え始めた。そして、自分がそういう目に遭っているせいか、他の社員に対する厳しい叱責も目につくようになった。




