草枕
金沢の旨い寿司を堪能して店を出た。こんなに良いお店は初めてだと言っていた2人は、非常に満足しているように見えた。
「じゃあまた。」と2人に別れを告げた赤星は、あまりにもあっけらかんとしていた。毎日顔を合わせる学生のような身振りだった。勿論、心の内には名残惜しさもあるがこれが赤星の別れの美学だった。それに、2人の式で近々また会えるだろうという思いもそれを手伝った。
優人も瑠璃も酒を飲まない。アルコール濃度3%の缶でも、一口で真っ赤に酩酊し、ひとしきり狂乱してすぐに倒れ臥す。だから、2人との食事は、だらだらと長引くことはない。夕食を終えてなお、空は明るく、ちょうど空を覆う雲が茜色に染められていた。その空の色を見ていると、どこからか「新世界より」の第二楽章の音が聞こえてくるような気がした。
赤星は、理央との約束通り、旅館の夕食が始まる前に帰ってきた。
「出かけるときにも思ったけど、ほんとに今から食べるの?」
優人と瑠璃と夕食に行ってきた赤星が、帰ってきてまた食べようとしているのを見て、瑠璃は頗る怪訝な表情をしている。
「ん?うん。」
理央の問に対して、赤星は別段大したことではないだろうという様子で答える。
「お寿司食べてきたんだよね?」
「うん。いや逆にお寿司だよ?全然余裕だって。」
「ほんと将一くん見た目の割によく食べるよね。すごいと思う。」
赤星は、幼い頃から小柄な割に健啖家で、その分よく動く質だった。ただ、決して食べても太らない体質というわけではない。新型感染症の流行で、全世界が外出を控える風潮になった時期があった。その時赤星は、ほとんど自宅に引きこもっていたが、運動不足になり、そのせいでそれまで履いていたズボンが入らなくなるほど太ってしまったのだった。自らの体型の変化に恐怖した赤星は、早朝のランニングや運動を続け、肥満を解消した。そして、その時の副次的な恩恵として、体力がつき、それが今でも仕事や私生活の役に立っている。アーティストとしてのパフォーマンスにも、企業の経営にも、強靭な体力が要求された。
「燃費が悪いんだろうね。」
しばらく2人で談笑していると、夕食の時間が告げられた。蟹料理や焼き物、お造りといった贅を尽くした品々が提供され、それぞれに合うお酒も楽しむことができた。
理央の心配に反して、赤星は言った通り綽々と夕食を平らげた。その様子を見ていた理央は、なぜだか笑いがこみ上げてきて、思わず吹き出してしまう。赤星もそれに釣られて笑みをこぼす。お酒が入って気分が昂揚してきたんだなと思う。
食事を済ませて、部屋に戻ってきたので、備え付けの浴衣に着替える。買ってきた浴衣を着ようかとも思ったが、どうせすぐ風呂に入るために脱ぐことになるからとやめておいた。帯はまごつきながらも何とか締められたと思ったのだが、理央に違うと言われて、結局締めてもらった。
風呂場は板敷きの檜風呂だ。全体に心地良い香りが漂っている。湯船に浸かっていると、全身の筋肉が緩んでいくのを感じる。それに釣られて、意識もぼんやりとしてくる。脚を伸ばし切って、腕は湯の中に浮かばせる。脱力してゆったりと寛ぐ。元々風呂は、熱くて息苦しくなるのであまり好きではなかったが、時折こういう当たりに巡り合うことがある。
浴槽の縁に頭を乗せてぼんやりしていると、入り口の方から物音がしたので、頭を乗せたまま視線だけを入り口に向ける。扉が開いて、血色の良い、陶器のような艶のある脚が差し込まれる。続けてもう片方の脚が床についたかと思うと、ホホホホと鋭く笑う女の声を響かせて、外に出て行った。かと思うと、間を置かずに、すぐに戻ってきた。
理央の珍妙な行動を眺めていた赤星は、ああ『草枕』かと気がついて、わざわざこんなことをする彼女の茶目っ気を可愛らしく思った。
「那美さんの真似だね?」
「うん。」
自分の意図に気づいてもらえたことは嬉しかったが、少々恥ずかしかったのか、はにかんでいる。
「つまりそれは体を見てほしいってことか?」
赤星は理央の柔肌を眺めながら言葉を継ぐ。
「頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩のほうへなだれ落ちたる線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの…」
「もう、恥ずかしい。」
余の語りに従って目線を動かす赤星に合わせて、初めのうちは理央もわずかに体を動かしていたが、途中で恥ずかしくなってしまった。ぴちゃぴちゃと音を立てて駆け寄り、湯桶のそばにしゃがみ込む。何だか拗ねた子どものような表情で赤星の目を見る。




