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混乱

 弱っているのか、小さな蚊がふらふらと飛んで、机の上に降りていく。右腕を枕にして、その蚊をじっと見る。小さな手足をごそごそと動かしているのを見るに、死んだわけではないようだ。赤星は左の手をそっと伸ばして、親指と人差し指でその蚊を摘み、潰した。

 7月上旬、スーパーなんかには色とりどりの紙でお粧しをした笹が飾られているのを見かけるようになった。しかし、遅れてやってきた梅雨はまだ明けないでいる。

 朝8時、赤星は蚊取り線香のゆらゆらと揺れる細長い煙越しに、テレビの画面を見る。どこか惹かれる良い香りを感じながら、そろそろ家を出るかと考える。今日は待ちに待った仕上げの日だ。湯浅への復讐が遂げられる。

 寝ている間に刺された脇腹が痒くて、服の上から搔く。赤星は1ヶ所で済んだが、すみれは腹部と背中を3ヶ所も噛まれたらしい。よくそれで目が醒めないものだと感心した。

 「にゃあん。」

宅配便の荷物を受け取りに行ったすみれが、珍妙な声を上げて帰ってくる。

「ごみ箱ひっくり返しちゃった。」

「あらら、大丈夫?」

「うん。」

「そうそう、蚊、やっつけた。」

「え、ありがと。まだ痒いもん。」

そう言ってすみれは、服の隙間に手を差し込む。捲れた裾から僅かに見えた肌は白かった。


 朝7時半、湯浅は陽子と花音に見送られて家を出る。花音はまだ眠たそうな目をこすっていた。最近は雨のせいで、いつも以上に出社が憂鬱に感じられる。

 今日は、湯浅の勤める会社が買収されてから、そろそろ1年が経とうとしている頃だ。去年の買収騒ぎから1年、周りでは何の変化も無く、誰もがそのことを忘れかけていた。上の連中は一体何をしていたのかと呆れる。しかし、今日からようやく新体制とやらが始まるようで、一部ではリストラの噂も出ている。真偽は分からないが、うちの部署なら下村をクビにしてもらいたい。以前の新規プロジェクトであいつの無能っぷりが分かってからというもの、顔を見るのも不快だ。

 この日もいつものように雨に打たれながら駅へと向かい、生臭い満員電車に詰め込まれて、ストレスを募らせながら出社する。湯浅の前に立っている小太りの男は、頭髪がほとんど抜けかかってまだら模様になっている。それとは対照的に、濃い体毛が生えっぱなしになっているのが所々から見える。毛先には、汗とも雨粒とも分からない水滴がついていて、身長の差で、電車が揺れると湯浅の顔に当たりそうになる。

 ようやくの思いで出社した湯浅は、自らの席に着いた。そして、いつも通り仕事を始めようとすると、見知らぬ男に声をかけられる。これから定例会議もあるというのに、面倒だから後にしてもらいたいと思いながら、その男に言われるがまま後についていく。周囲の者が、何かあったのかと好奇の視線を注ぐ中、何故か下村だけがニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべているのが目に入った。


 そこには、信じられない光景があった。

「おはよう、湯浅君。私は、代表取締役社長の赤星、将一だ。」

状況が飲み込めず、言葉が出ない。困惑する湯浅を見兼ねて、赤星が次の行動を促す。

「まぁ、そこにかけたまえ。」

「なんでお前がここに。」

それが、やっとのことで湯浅が絞り出した言葉だった。

「社長に向かってお前とは、随分な礼儀じゃないか。以前君は、年齢よりも役職が大事だと言っていたじゃないか。私情で基準を改めるというのは、感心しないな。」

湯浅は徐々に冷静さを取り戻していった。その中で、先週赤星に会った時の、楽しみにしていろという言葉を思い出した。

「何故、自分はここに呼び出されているんですか?」

湯浅は、大層不満げな表情をしている。何の嫌がらせかと不審に思ったが、赤星が仕事として接してきている以上、湯浅も仕事を優先した。

「ふむ、主文は後回しにしようか。君も知っての通り、わが社は合併し、新たな体制が始まった。そこで、経営を見直し、改善を図ろうというわけだ。」

「はあ。」

「末端の君にとってはよく分からない話だろうが、君にも関係のある部分は、その一環として、人員の整理が必要になることだ。いわゆるリストラというものだ。」

「いや、ちょっと待ってくれ。」

話の雲行きが怪しくなってきたので、湯浅は反論しようとする。

「人の話は最後まで聞け。人員整理のために各社員の勤務態度や業績をまとめ、人事部では新たに社内のコンプライアンス遵守と、ハラスメント対策のための部署を設置した。するとどうだ、湯浅君。君はパワハラやモラハラをしているという報告が多く上がってきた。昇進したことを鼻にかけて、部下や同僚から随分と恨みを買ったみたいだな。」

「いや、それは部下に対する指導で。」

「指導ね。そもそも君は、自分が突然昇進したことに何の疑問も抱かなかったのか?自尊心が高いのは結構なことだが、まぁ君が私の予想した通りの性格で良かったよ。」

 赤星は湯浅の勤める会社を特定すると、そのライバル企業の株式を買い上げ、更にこの会社の買収を行った。この時赤星は、経営陣の入れ替えはしなかったが、その条件の1つが、湯浅の解雇だった。だから赤星は社長ではない。しかし、自分が社長だと言ったほうが分かりやすく、面白いだろうと本物の社長には席を外してもらった。

 赤星は手始めに、本来の人事に手を加えて、湯浅を昇進させた。そうすれば何らかのトラブルを引き起こすだろうと予想していた。予想通り湯浅は部下へのハラスメントを訴えられた。おまけに、彼に主導させたプロジェクトも失敗した。成功しないだろうとは思っていたが、予想外の材料が手に入った。筑紫理央を介して、湯浅の部下や同僚を味方につけ、彼を解雇する準備を着々と進めた。

「そういうわけで、湯浅君。君はクビだ。」

赤星は平然としてそう言い放ち、再就職のためのパンフレットをそっと机に差し出した。

「ちょっと待ってくれ、俺には妻も娘もいるんだぞ?」

「それで?」

「は?」

「それがどうした?わが社の利益と何の関係がある?」

湯浅は何かを言いかけたが、飲み込んで俯いてしまう。

「何で。」

「ん?」

「何の恨みがあってこんなことをする。」

赤星はしばらく黙って湯浅を見ていたが

「君は学生時代、私と同じアルバイトをしていただろう?」

「その時君は、私にタメ口を使った上に、逆に私には敬語を使えと言ったね。」

「それから、声が小さいだの、指示したことをやってないだのと事あるごとに私を叱責したね?」

「それが気に食わなかったからさ。」

湯浅は涙の溢れそうな目をピクピクと動かし、いつも以上に垂れ下がった眉を寄せていた。赤星の次の言葉を待った。しかし、赤星は全てを語り終えたといったふうに、椅子にゆったりと構えている。

「え、は?それだけ?」

「ああ。」

「そんな理由でここまでするのか?」

「君は本当に自尊心が高いんだな。自分をそんなに大層な人間だと思っているのか?」

「お前の人生が終わる理由なんて、これで十分だろ。」

一瞬の沈黙。

「ふざけるな!」

湯浅が激昂して赤星につかみかかる。しかし、赤星に両手を取られる。そしてすぐさま、近くに控えていた警備員に取り押さえられた。血走って涙で一杯になった目で赤星を睨みつける。

 赤星は、親指と人差し指で自分の顎を触って寛いでいる。

「ああ、そうそう、分かっているとは思うが、湯浅君。二度と、この業界で働けると思わないことだ。」

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