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第9話

 持参したマッチ棒は生きていたので、燃えそうな燃料を集めて火を起こした。

 すぐに燃え上がり、暗くなった周りを照らしはじめた。

 「これ、本当に食べられる草なんだよね?」

 「いける!いける!」

 月歌は何食わぬ顔でノビルを(あぶ)っている。

 木の枝にさした魚もうまく焼けているようで、皮が音を立てていた。

 なんとなく、内臓と血合いは洗い流していた。恐らく美味しく食べられるだろう。

 火を囲みながら、それぞれ焼けた魚を持ち、黙ってかじった。

 味は悪くなかった。塩なんてもちろんないし、油もない。それでも、目の前で焼いたというだけで、なんだかごちそうに思えてくる。

 普段の生活は恵まれていたのかもしれないと気まぐれに思った。

 「生きてるって感じがするね」

 ぽつりと月歌が言う。

 「ちゃんとお腹が鳴って、ちゃんと火で焼いて、ちゃんと笑えるってだけでさ。それだけでいいと思えちゃう。ふしぎだね」

 魚を食べ、メインディッシュであるロブスターにかぶりついた。月歌のかぶりつきは上品で控えめだった。

 「うっますぎ!ね!陽依くん!」

 「ほんとだね」

 なんだか彼女に似合わないなと勝手ながら思った。

 「これってさ、レストランとかだと一匹三千円くらいするよね?」

 「するねぇ。僕はそんな高価なレストランに行ったことないけど」

 「私も!でも自然ってすごいね」

空腹を満たし、なんとなく焚火が放つ旋律に耳を傾けた。

 彼女は頬で火を反射させるように笑った。

 炎の煌めきのせいか顔が少し赤く見える。

 「火を見ると落ち着くよね」と僕は言った。

 「だねぇ。本能的なことなのかな?」

 「そんな気がする」

 しばらく自然が奏でる音楽にうっとりしていると月歌が、「こんな生活もいいかもね」といった。

 「ボヘミアンだよね」

 「うん、いいじゃない、ボヘミアン的な生き方」

 その時、ふと雲が割れた。

 夜の空から零れるように月が現れて、辺りを照らした。

 はちみつの雨を降らせているようだった。

 顔を戻して彼女を見ると、先ほどとは打って変わって俯いて切ない顔をしていた。

 彼女の髪が揺れて、月の光をすべらせた。

 その輪郭が淡くにじむように浮かびあがっていた。

 そして打ち明けるように、そっと言葉を置くようにいった。

 「わたし、病気なの・・・」

 「・・・病気?」

 僕は少し当惑した。

 「うん、散灯病(さんとうびょう)っていう珍しい病気なの」

 月灯りに照らされたその瞳は、まっすぐこちらを見ている。

 微笑んでいるようで、どこか遠くにいるようだった。

 散灯病。

 聞いたことあるような、曖昧な記憶だった。

 僕が黙っていたので、彼女がつづけた。

 「散灯病はね、消えてしまう病気なの。最後は死ぬんじゃなくて消えてしまう。消えた瞬間、全ての人の記憶からも消えてしまう。私は誰の記憶にも残らない」

 月が強く照っている。

 まるでそれが証明のように、彼女を浮かび上がらせていた。

 「だんだんと薄くなっていくんだ。でも、こうして月灯りだけは照らしてくれる。それ以外の照明だと意味なくて・・・。月灯りだけなの。おかしな病気なんだよね」

 「だから月が嫌いって言ったの?」

 「うん、だって恥ずかしいじゃん。きっと最後は、月灯りの下だけでしか私を見ることができなくなる」

 彼女が置いていった言葉が風にさらわれていく。

 波の音が静かに絶え間なく寄せては引いてを繰り返す。

 「でも、美しいよ」

 言葉を探した結果、本音が転がった。

 「・・・えへへ。ありがとう。恥ずかしいな」

 その本音を拾いあげた彼女は、照れたように後頭部を搔いた。

 「陽依くん、やっぱり今が大事だと思うの。今の中にすべてがある気がする。だから過去を見ていたら何も進めないと思うんだ」

 目の前に彼女はいた。それは確かで、あとはどうだろう。

 大きな月灯りの下で、まるで夜の精のように。

 そして、確かに名前を持ってここに今を生きていた。

 「・・・陽依くん」

 「ん?」

 「もし私が消えたら、この海に私の記憶を流してくれない?」

 受け入れてしまったら、彼女が消えることも受け入れることになる気がして、僕は首を縦には振ることができなかった。

 「今がすべてなんでしょう?不確かな未来の話をするのはやめようよ」

 彼女は少し黙って、やがて「そうだね」とこぼした。

 

 帰りの電車はほとんど空っぽだった。

 夏の光は夕方になるとどこか疲れたような顔をする。

 黄金色に染まった海辺の町を電車はゆっくりと抜けていった。

 僕の自殺を止めた時の言葉、「死にたくなる時もあるけどさ、もう少し生きてみない?せっかく健康に生まれたんだしさ、もったいないよ」

 カラオケ屋で僕に放った言葉、「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん」

 そうか。そういうことだったのか。

 こんな形で伏線が回収されるとは。

 でも彼女は死ぬのではない。消えてしまうのだ。

 それは残酷なことなのだろうか。

 僕には、それがどうしても、そうとばかりに思えなかった。

 むしろ、かつての僕はそれを夢想のように美しく思っていた。

 夜ベッドに沈み込んで眠りに着いたら、何一つ残さずに世界から抜け出す。

 そういう終わりに憧れていた。

 それでも消えていく人を目の前にしてしまうと、それはそれで悲しい結末な気もする。

 記憶にも残らない、生きていたことすら残らない。

 散灯病とはそういうものだ。

 僕は少し焦った。

彼女がいなくなる日はそう遠くない。

 その現実が音もなく、じわりと胸の奥に染みてくる。

 僕だけは彼女を忘れない。

 そう願うばかりが精一杯だった。

 隣からは、気持ちよさそうな寝息が聞こえてくる。

 僕はただ、何もできずにいた。

 助けることも、止めることも、引き換えに消えることもできなかった。

 僕は生きている。

 それだけが、なぜかどうしようもなく痛ましかった。

 生きることは罪深い。

 ガタンゴトン。

 電車は否応なしに僕らを目的地まで運んだ。

 僕の目的地までは一体何が否応なしに運んでくれるのだろう。

 家までの帰り道は二人とも、やや俯き加減で歩いていた。自然に。

 「今度はさ、私の家に来てよ!」

 しばらくの沈黙のあと、彼女は笑顔を張り付けた。

 「私のおばあちゃんの料理もめっちゃ美味しんだよ!」

 僕はいつもの彼女に安心する。

 「うん、じゃお言葉に甘えて」

 僕の頬も自然と弛緩していた。

 川沿いの道を歩く。

 「海もいいけどさ、川もいいよね」

 「それはなんかわかる」

 「おれおれ、お主も秩父が好きなんじゃなかろうか?」

 「どうかな」

 「もう、素直じゃないな~」

 人を信じることも、生きることも、どこまでも厄介で滑稽だ。

 だけど、彼女との日常は、まるで僕の人生にささやかな肯定を与えるようだった。

 夕暮れの風が頬を撫でた。

 家の灯りが遠くに滲んで、夏の夕暮れはちょっとだけ涼しくなっていた。

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