第8話
「海なんて何年ぶりかな」
電車の窓から映る海をみて月歌がいった。
僕は毎年おじいちゃんに会っているため、一年ぶりだ。一年経っても海に変わりはない。今日も程よい波をたたせ、たくさんの魚たちを育てている。
電車を降りると風景がガラリと変わった。
閑散とした小さな駅。
改札は一つしかなくて、改札機なんてものはなく、古びた木の柵があるだけだった。
ホームの端にはベンチがぽつんとあって、誰かが置き忘れたスポーツ新聞が風にぱらぱらとめくれている。
蝉の声が、まるで山と海とに反響しているみたいに大きく響いていた。
ミーンミンミンミン。
「うっひゃー。秩父と張り合える田舎具合だ」
月歌は桃色のリュックサックを背負いなおす。
「とりあえず、おじいちゃん家に向かおうか」
月歌は頷いた。
改札を出ると、どこか懐かしい街の空気が出迎えた。
古本屋、和菓子屋、床屋。
そんなのが並ぶ商店街。風鈴の音が軒先で優しく鳴っている。
「私、お腹空いた~」
「おじいちゃんがお昼ご飯作ってくれてるらしいよ」
「え!そうなの!もう~はやく行ってよ!それでおじいちゃん家はどっち?」
「この商店街を抜けて、海の方に行けばすぐだよ」
「よし!張り切って行こう!」
月歌はすっかり元気を取り戻し、大股で商店街を歩いた。
かき氷屋の前を右に折れて、東へ進もうとした時、見覚えのある軽トラが八百屋の前で停まっていた。
「おじいちゃーん」
スイカ選びに忙しそうな、麦わら帽子を被った小柄な老人がこちらを向いた。
「おう。陽依じゃねぇか!よく来たな!・・・おや?お隣のべっぴんさんは誰だい?」
月歌が一歩前に出た。
「はじめまして!如月陽依くんのクラスメイトの花咲月歌です!」
彼女が丁寧に頭を下げると、おじいちゃんは破顔して「おお、可愛らしいお嬢ちゃんだ」と嬉しそうに笑った。
「ちょうど魚もいいものが手に入ってな。腹減ってるだろ?まずは家で腹ごしらえでもしてけ」
僕たちは軽トラの荷台に乗って、ガタガタ揺れる道をゆっくり走った。
「風が気持ちいい~」
潮風が頬を撫でていく。この風なら左頬のあざも治るような気がした。
おじいちゃんの家は、海の近くにある木造の平屋だ。
小さな庭には、トマトやきゅうりが育ててある。
「よし、あがってくつろいでてくれ。すぐに丼をこさえるわ」
おじいちゃんは台所へ急いだ。
靴を脱いで、風通しの良い居間の畳に腰をおろす。
「潮の匂いがする~」
「海が近いからね」
「涼しくていいね!」
月歌はリュックをおろし、足を崩した。
「お昼、海鮮丼だって。おじいちゃん、昔漁師だったから魚だけは今でも新鮮なものをもらえるんだ」
「うえーい!さいこう!海鮮丼大好き」
しばらくすると、おじいちゃんが香ばしい醤油の匂いと共に大きな漆塗りの器を両手にかかえてきた。
「どーん!」
丼の中には、まぐろに鯵、甘海老、釜揚げ、しらす、そしてとろけるような鯛の切り身が贅沢に盛られていた。
真ん中にはうず高く盛られた、わさびと大葉、その上に海苔がふわりとかぶさっている。
「うわー!すごい!お店みたい!」
月歌は拍手をしてしばらく「すごい!すごい!」と連呼していた。
「さ、新鮮なうちに食べな」
「はーい!いっただきまーす」
僕もしっかり手を合わせて「いただきます」といい、ひとくち口に運んだ。
「・・・うまい」
「うー。うまーい!うまい、うますぎる!」
「風が語りかけるって?」
「そう!うまい、うますぎる。十万石まんじゅうぅ」
言葉が歯の裏でとけていく。身がぷりぷりしていて、米と醤油と上に潰した卵の黄身が口の中で広がる。
彼女の言う通り、うまい、うますぎる。
「朝、とれたやつだからな。まだ生きてるみたいだろう?」
おじいちゃんは笑いながら麦茶を片手に窓の風にあたるように腰をおろした。
扇風機の回る音と、海の気配と、どこまでも澄んだ夏の青空。
僕と月歌はしばらく無言で丼を味わいながら、ゆっくりと午後の始まりを迎えた。
「どこで絵を描くのがいいかなぁ」
丼を平らげた月歌が箸を置きながら呟いた。
「んー、どうだろう。海もあるし、山もあるし」
「せっかく来たんだから島にでも行ってこいな。俺の船を貸してやるよ」
おじいちゃんが首だけを振り返らせて言う。
「小さい船があるんだ。陽依、昔よく釣りをしに行っただろう?」
「ああ、あそこか。うん。覚えてるよ」
「え!島!」
月歌が案の定食いついてきた。魚みたいだ。
「ああ、島だ。あそこなら絵も描けるし、空気も綺麗だし。しかも誰もいないしな」
「えーいくいく!陽依くん早く食べて!」
そういうと月歌は立ち上がり、台所で洗い物を始めた。
僕は残った甘海老を一気に口に放り込んで月歌の横に並んだ。
好きなものは最後までとっておくタイプだ。
「操縦の仕方はわかるかい?」
「エンジンかけて、車の運転の要領でしょう?」
「ああ、そうだ。あそこは圏外だからトランシーバーを持っていけ。何かあったら連絡するんだぞ。くれぐれも気を付けてな」
「うん、ありがとう」
簡単な荷物を二人乗りの小型船に乗せる。先に僕が船に乗り、そのあと月歌が乗った。
おもちゃのような可愛い船に二人で乗りこみ、エンジンをかけた。
メルヘンな音を立ててエンジンがかかる。
「よーし!陽依くん号しゅっぱーつ」
おじいちゃんが手を振って見送る。
その姿がだんだんと小さくなり、やがて米粒サイズになった。
「その、島まではどれくらいかかるの?」
「三十分くらいだよ」
「へ~!楽しみ~!」
二人乗りの白い船は、円滑に水面を滑っていく。
午後の陽ざしがまぶしくて、海はきらきらと銀のうろこを撒き散らしている。
頬杖をついて海を見ていた彼女が振り返って笑う。
風で髪がふわりと揺れて、陽を受けて光っている。
「ねぇ、夢みたいじゃない?」
僕も笑って頷いた。
モーターの音は控えめで、時々カモメの鳴き声がそれを追い越していく。
しばらく波に揺られていると、小さな島が見えてきた。
「あれ?」指をさして彼女がいった。
「うん、あれ」
「本当に小さいね」
嬉しそうだ。
僕はスピードを緩めた。
先に僕がロープを持って降り、近くの木に括りつける。降りる月歌を手伝い、そのあと荷物を下ろした。
島の形は三日月のようになっており、縦の長さは百メートルほどだ。
地元では猫背島と呼ばれているらしい。地図には載らないような、ひっそりとした無人島。
降り立つと、潮の匂いと草の匂いがまじり合って空気が少し青く感じられた。木々が覆い茂り、空には鷹が旋回して僕たちに挨拶をしていた。
島の中心には緩やかな丘があり、その上には大きなアカマツが一本、風に揺れていた。
ふたりは無言のまま丘を目指して歩く。途中、小さな鳥が枝から枝へ跳ね、草がすれ合う音だけが聞こえていた。
この島には、喧騒というものが存在しない。
草のざわめきも、木漏れ日の濃淡も、誰かに話しかけるような優しさをまとっていた。
「ここ、いいかも」
月歌が指さしたのは丘の中腹、海が見渡せる少し開けた場所だった。
潮風が二人の間を吹きぬけて、髪を揺らす。
僕はスケッチブックを開いて、クレヨンを走らせ始めた。
彼女は木陰に座って、じっとこちらを見つめていた。
頬杖をついたまま、何も言わず「絵のモデル」として、その時間をすべて任せてくれているようだった。
僕は完成まで手を止めなかった。
空の色が変わるまで僕は絵を描きつづけた。
「終わったよ」
近づきながら言うと、彼女は顔を上げて笑顔で僕に駆け寄ってきた。
「みせて、みせて」
スケッチブックを彼女に渡す。
「うわー!めっちゃいいじゃん!すごい!私もすごい似てる!こりゃ、陽依くん画家になれるよ!」
「褒めすぎだよ。モデルがよかったのかな?」
「うわ!なにいまの!ださー」
彼女に茶化され少しムっとしたが、彼女がうはははっと笑うので僕もだんだんおかしくなりつられて笑った。
「一生大事にするね!」
「大げさだって」
彼女は恭しく絵を受け取り日記帳に貼った。
「素敵な島だね。なんか秘密基地みたい」
僕らは砂浜に腰をおろして海を眺めた。
「いいところでしょう?僕も久しぶりにきたけど、やっぱりいい」
「なんか海を見ていると、この世の嫌なことを忘れられる」
月歌はうっとりとした声色で言った。
「厭なことは海に流せばいい。昔おじいちゃんが言ってた」
「海は広いもんね。私たちの悩みなんて海からすればちっぽけなものなのかもしれないね」
しばらく二人とも黙って水平線を眺めていた。
遠くに目をやると逞しい入道雲が近づき始めていた。下の方は真っ黒で、雷がゴロゴロと鳴っている。
「なんか怪しい雲だね」
月歌が言ったその時、空からぽつりぽつりと割と大粒目の雨が降ってきた。
それは明確なリズムを持ちはじめ、勢いが増していき、すぐに視界不良となった。
「とりあえず、荷物を運ぼう」
月歌は頷き、二人で荷物を木々の下に移動させる。多少雨漏りするが、たくさんの木々はシェルターになった。そのまま雨宿りをする形になった。
「夕立っぽいね」彼女が不安そうに言った。
「みたいだね」
どしゃぶりの中、雷が至近距離で鳴り始めた。なんだか空が怒っているようだ。時折、すさまじい光を見せ、怒りを爆発させるような怒声が海に響いた。それは僕らに近づいているように思えた。
「今の近いね」隣に座る、月歌がいった。
すると先ほどよりも強い光が視界を襲い、もの凄い音が鼓膜を叩いた。雷は僕らの目の前に落ちた。
「うわあ」
二人は同時に声を上げる。
「船大丈夫かなぁ?」
「ちょっと心配」
夕立のため、すぐに雷雨は過ぎ去った。僕はあわてて船を確認しに行く。
「やっぱりか」
「どうしたの?やっぱり雷にやれた?」歩いてくる月歌が心配そうに尋ねた。
僕は何回かエンジンをかけてみるが舌打ちのような音を立てるばかりで全くかかる気配がない。
落雷のせいで電装系がやられてしまいエンジンがかからなくなってしまったのだ。
「エンジンがかからない」
「うえー!あっ!トランシーバーは?おじいちゃんに連絡しよ!」
僕は、その場に落ちていたトランシーバーを拾う。船から降り、電源を入れてみるが反応がなかった。こちらも雨か落雷の影響で壊れてしまったようだ。
僕が首を横に振ると彼女は顔を曇らせた。
「やばいじゃん!」
「たぶん、おじいちゃんが迎えに来てくれるよ」
慌てずに言った。
「まぁそっか。焦っても仕方ないね」
彼女は得意の切り替えの早さですぐに笑顔になった。
「あ!」
月歌がいきなり声を出した。
「私じゃなくて、あっち、虹!」
「ほんとだ」
彼女が指さす方向に綺麗な虹が水平線にトンネルを作っていた。
「きれい~。虹って猫みたい」
「どうして?」
「触れようとしたら逃げてしまうし、気がついたらいなくなっている。でも、いつだって美しい」
ロマンチックなことをいう月歌の目はうっとり虹に見惚れているようだった。
そこで二人のお腹が、ぐぅと鳴った。
「うははははは」
僕らは、虹まで届くような笑い声をあげた。
「じゃ、食料を調達しに行こうか」
「うん!いこう!いこう!陽依隊長!」
彼女は調子よく敬礼をした。
僕らは崩れかけた堤防に回って、島の緑に沿うように歩いた。随所で海に向かって釣り糸を垂らしながら草むらを散策した。
海と緑と風の音と。
そこには、完全な二人きりの空間が広がっていた。
「これはノビル!たぶん」
「絶対じゃないのかい」
「だいじょーぶ!もし違ってたら毒見してあげるから」
彼女はひょいとそれを僕の鼻先に突き出す。
「おい、やめろって」
「お!男らしい言葉遣いもするんじゃん」
笑いながら、またひとつ草をつまむ。
足元にはどこからか流れてきた貝殻やちぎれた海藻が引っかかってくる。
波が少し高くなって、足元をさらっていった。
「なんか冒険している気分だね」
月歌はやっぱり嬉しそうだった。
「うん、ちょっとだけ原始人の気分」
やがて船の場所まで戻ってきた。
収穫は、魚三匹と月歌が判別した草がいくつか。それと、船に戻るまでの道中でなんと僥倖なことに浅瀬にロブスターを発見したのだ。
「ねぇ、見て」
彼女が足を止め、指さす。
そこは腰ほどの深さの潮だまり。岩陰のような小さな水たまりの中で、何かかがのそのそと動いていた。
暗い海藻の間から、つややかな殻が覗いている。
目を凝らすと、それが小さなロブスターだった。
はさみをゆっくりと持ち上げて、警戒するようにこちらを睨んでいる。
「陽依くん!ロブスターじゃない?」
「ほんとだ。初めて見る」
ふたりはしゃがみ込み、そっと水に手を入れる。
ロブスターはひょっいと後ろに跳ねて逃げた。
けれど、浅瀬だったため、僕の手がすっと伸びて、胴体をつかむ。
「つかまえた」
「うそ!ほんとうに?みせてみせて!」
手の中でじたばたと暴れるロブスターを、ふたりはまるで宝物のように見つめた。




