第7話
世間の学生たちは昨日から夏休みを迎えていた。無論、僕たちも夏休みという果実を味わい始めているところだ。
電車の窓から流れる景色を眺める。地元と肩を並べるような田舎風景が目に入る。
窓ガラスにはうっすらと僕たちの姿が映っていた。
月歌は隣でずっと外を見ていて、僕はそれを盗み見ながら、目的地までの距離を測るように、ぼんやりとした思考の波に漂っていた。
あれから死にたい気持ちになる時はあるが、あの日のように行動に移すことはしていない。
波のようなものだ。死にたくなったり、もう少し生きてみようと思ったり。
そんなこと考えなかったり。
そんな日々の連続だ。
自殺は衝動的なものなんだと思う。
こういう風に波のようになっている人は、ある日突然何かを引き金に衝動的に自殺してしまう。
あの日、彼女が屋上に現れなかったら、僕は今ここにいないだろう。
あの日、死ななくてよかったかどうかはわからない。
死ぬことはいつでもできる。また死にたくなったら死ねばいい。
今は、何となく生きている。
小さな幸せと小さな不幸せを日々感じながら生きている。
このころになると、もう少し彼女との日常を過ごしたいと思い始めていた。音楽を聴いてや絵を描いているときに、もう少し生きてみるかと思うことはあったが、誰かのために生きようと思ったのはこれが初めてだ。
彼女が僕に付きまとわなくなるまで生きようと思った。
そんなことを思うのだから、少なからず彼女に対して特別な感情を抱きつつあったんだと思う。
「ねぇ、陽依くん」
不意に名前を呼ばれて隣を向くと、月歌がこちらを見ていた。
その視線は、僕の左頬のあたりに注がれていた。
「それ、どうしたの?」
一瞬何のことかわからなかった。けれど、彼女の目線を追って思い出す。
指先でそれに触れると、まだ鈍い痛みが走った。
「あざ?」
「あ、ああ。なんでもないよ。ちょっと転んだだけ」
「ふーん」
彼女は興味なさそうに、ふたたび窓の外に視線をやった。
僕は左頬をさすりながら、あざの経緯を一人で回想することにした。
一昨日のことだ。
グランドの裏の道。
ひとけのない場所で僕は胸ぐらを掴まれていた。
なんでそんな状況になったのかは、もう覚えていない。
夏の暑さか、殴られたときの衝撃かで記憶が吹っ飛んでしまったようだ。
蝉がやたらにうるさく鳴いていた。
まるで僕がこれから殴られることを悲しんでいるようだった。
ちょうど夕陽が斜めに差し込んでいて、赤い光の中で僕は壁際に追い詰められていた。
コンクリートの壁は堅く背中に痛みを覚えた。
痛い・・・
「調子に乗ってんじゃねぇよ、お前」
顔を歪めてながらそう言ったのは、噂のバスケ部の新井先輩様だ。
長身で肩幅が広い。でもひょろっとしていた。
顔をちらっと見ると、出目金のようだった。
脇には、見覚えのないバスケ部らしき二人の男子が立っていた。何も言わず、ただ出目金の後ろに立ってニヤニヤとこっちを見ていた。
「お前、花咲と付き合ってんのか?」
僕の胸ぐらをより高く持ち上げた。自然と背伸びする格好になる。
僕は何も言わなかった。こういう状況で命乞いをして助かったやつが今までにいたのだろうか。
考えてみればそうだ、後先考えず誰かと近づきすぎた結果だ。悪いのは僕。
人間万事塞翁が馬。
彼女の出会いを前向きに捉えていたのが馬鹿だったのだ。
なら、相手の好きにやらせてあげよう。
「俺の女といちゃいちゃしてんじゃねぇよ」
事実とは異なることを捲し立てる出目金の目には猛獣が宿っていた。金魚のくせに。
はあ。僕は心の中でため息をつく。
どうしてこうも人間関係というものは面倒で癪なんだ。
心底飽きれる。
なぜ人は好きな人を自分の所有物にしたがるのだろう。
僕には理解しがたい価値観だった。
彼女は誰のものでもないのに。
僕は黙って、気が済むのを待った。
けれど、胸ぐらを掴んで高く持ち上げるだけでは、どうやら溜飲が下がらなかったらしい。
ドッ。
硬い音とともに視界がぐにゃりと揺れる。
次の瞬間、衝撃が頬から頭全体へと波紋のように広がった。
左の頬骨になにか固いものがぶつかる感触があった。
目の前がチカチカして、視界に白いノイズのような光が走る。
殴られたのだ、と思った。
喉の奥から息が漏れて膝が折れて、背中が壁に滑って地面に情けなく崩れていく。
コンクリートの地面がやけに冷たくて、現実的だった。
「ったくなんか喋れよ」
出目金は舌打ちをしながら僕に文句を垂れる。
僕は、早くこの痛みが消えればいいな、と意外にも冷静でいた。
後ろにいた二人のうちの一人が笑い声をあげる。もう一人も肩をすくめて苦笑していた。
まるで珍しい見世物でも眺めるような目だった。
目の奥がジンジンして左の頬には鈍く焼けつくような痛みが残っていた。
一発殴っただけでは気が済まなかった連中は、倒れている僕の胸ぐらを掴んで再度立たせた。
僕はぎゅっと目を閉じて、反対側の頬を殴ってくれと言わんばかりに右頬を前に突き出した。
もう一発同じところを殴られたら気絶してしまうんではないか、と思ったところで誰かの声が僕らのいざこざを仲裁した。
「おい、手、放せよ」
乾いた声が空気を裂いた。
ゆっくりと歩いてくるのは金之助だった。
いつもの気の抜けた笑みはなく、その目は鋭く光っているように見えた。
出目金は血の気が引いていない様子で、「なんだよ、お前。関係ねぇだろ。消えろ」と威嚇した。
金之助はすっと僕の横に立った。
「関係あんだよ。こいつ俺の友達なんだ」
「ほう?」
出目金は、僕をおもむろに放すと、今度は金之助の胸ぐらを掴んだ。
「いいんだな、おまいさん。後悔するぜ?」
出目金の目が細くなった。
「てめぇ、何様のつもりだよ」
言葉を吐き捨てて、こぶしを振りあげた瞬間、金之助の体が沈んだ。
重心を低くして、片足を軸に素早く半回転。
出目金の腕を取って、腰をぐっと当てたかと思うと、相手の体が宙に浮いた。
「おりゃっ!」
気合いの入った金之助の声が夕焼けの空に響いた。
一拍遅れて、ドンと鈍い音が鳴った。
「っ!」
取り巻きの二人が一歩後退る。
金之助はふうっと息を吐いて、背中を軽く伸ばした。
「いや、久しぶりに人投げたわ」
悪戯っぽく笑う。
出目金は歯を食いしばりながら立ち上がると、何も言わずに睨みつけるだけで、そのまま踵を返した。取り巻きの二人も顔を見合わせ、そそくさと後につづいた。
「大丈夫か?」
腰を抜かした僕に金之助が手を差し伸べる。
太陽の逆光で、その輪郭がぼんやりして見えた。
僕はしばらくその手を見つめた。
たった今、僕を殴ったやつを投げ飛ばしたばかりの手。
「うん」
声にならない声で応えながら、その手を取った。
ぐいっと引き上げられる感覚があった。
「いたそう・・・頬、真っ赤だで」
僕の頬を見て金之助が心配する。
「僕が入院したらお見舞い頼むな」
冗談を言うと、小さく鼻で笑って、「課題たくさんもっていくぜ!」と張り切った。
「そういうのはしてくれなくてもいいんだけど」
二人で吹き出した。
僕らの笑い声が蝉しぐれと重なる。
誰かがペットボトルを投げたみたいな音がして、木の葉が揺れた。
「けぇろうぜ。冷てぇもんでも飲もうぜ」
金之助が僕の肩を支えてくれた。
その声は、日常に溶け込んでいて、特別じゃないのに、なぜか妙に安心した。
ふたりの影が陽炎に揺れる。
僕は心の中でありがとうとお礼を言った。




