第6話
窓の外で雨が降っていた。
梅雨の季節はなんでも曖昧にしてくれる。
だから僕は六月が嫌いじゃない。
授業中。
黒板の文字が、黒に溶けていくようにゆっくり薄れていった。
先生の声は一定のリズムで続いているけれど、その意味はもう頭に届いてこない。
手元のノートには、地理の言葉がいくつか並んでいる。その下にもいくつかの文字が並んでいた。
「美大」「私大」「学費」「就職率」・・・・
書いたのは自分なのに、どこか他人事みたいだ。
今朝、進路調査票が配られた。
絵を描くのは好きだ。でも「好き」というだけで進んでしまって、その先で立ち止まる自分がもう見えている気がして、こわかった。
好きなことで生きていける人は、たぶん、ほんの一握りで。その中に自分が入れるかどうかなんて、考えれば考えるほど自信がなくなっていく。
普通の大学に行って、そこそこの仕事に就いて、そこそこの暮らしをして・・・
それがきっと正解なんだ。
でもそれって自分じゃなくてもよくないか?
ふと、そんな声が頭の中に浮かんだ。
カーテンが風に揺れて、陽の光が斜めに差し込む。
美大か。私大か。
正解はどこにも書かれていない。
やっぱり正解は死ぬことなのだろうか。
今日もそんなとりとめのないことを考えていると一日が過ぎていった。
こんな日常に一体なんの意味があるのだろうか?
放課後、誰もいない美術室の窓辺で、一人スケッチブックを広げた。
僕以外、みんな幽霊部員だ。
それもそうだ。
学校から解放されて自由に青春を謳歌できるのに、わざわざ学校に残って絵を描きたいやつなんていない。
そんな奴はきっと変人だ。
変人な僕は、真っ白な紙に鉛筆で線を引いていく。
線を引きながら将来のことをぼんやり考えた。
画家になりたい。
それは心の奥で、ずっと密かに息をしているものだった。
だけどこの家でこの環境で、それを言葉にする勇気も技量もなかった。
でも、やりたいこともできない人生なんて一体なんの意味があるんだろう。
楽しくなければ生きている意味はない。
思考はいつも堂々巡りだ。
薄暗い美術室で、僕は絵を描き進めた。
白い紙の上に何かを残すことでしか、自分の存在を信じられなかった。
その静けさを破ったのは足音と、あの声だった。
「やっぱりいた!」
振り向くと、月歌が立っていた。
「探したよ~」
僕は手を止めず「なにか用?」と言った。
「よーよー。絵を描いてほしい!」
「あー、あの約束ね」
「そうだよ!結局一度も描いてもらってないからね!」
「それで?どうすればいいの?」
軽快に会話が進んでいく。
僕も会話のキャッチボールがいくらか上達したみたいだ。
「とりあえず、羊山に行こう!」
僕は半ば強引に美術室を後にした。
雨はしとしとと降っていた。
それでも彼女は躊躇なく歩き出し、僕もその後を追った。
羊山公園の登り口は二つあり、僕らは南側から登り始めた。
北側を正門とすればこちらは裏門で、道は狭く人通りは少ない。まして、平日の夕方なので人影はなかった。やがて人道がなくなり、さらに歩きにくくなった。
「いてっ」
少し先を進んでいる彼女が足を踏みはずしたようだ。
歩いていくと山頂にたどり着き、羊山の紫陽花が雨に濡れて鮮やかに咲いていた。
青に藤色に濃淡のある花たちが雨粒を乗せてゆるやかに揺れている。
ぽつぽつと傘にあたる雨音が、まるで遠いピアノの旋律のように心に降りそそぐ。
あずまやの屋根の下で僕は先ほど彼女から渡されたクレヨンとスケッチブックをテーブルの上に置いた。
「ねぇ、ここで描いて」
彼女は、傘をさしたままその場にしゃがみ込んで、花に顔を寄せていた。
細い指が小さな花びらにそっと触れる。
そこだけ切り取ると、まるで映画のワンシーンのようだ。
僕は指示通り、その光景をスケッチブックに写し取ることにした。
「なんかいいなぁ。雨の中で咲く花って」
僕はあずまやの屋根の下から、その姿を見つめていた。
濡れた緑に囲まれ、微笑む彼女の輪郭が、雨に溶けていく。
風に揺れる傘のふち。淡く色づいた紫陽花。
そして、その花に触れる彼女の横顔。
すべてを描きこぼすことなく、小さなスケッチブックに納めた。
描けた絵を彼女に渡すと、何度も頷き僕の絵を認めているようだった。
「やっぱり上手!さすが如月くん」
「その絵、どうするつもりなの?」
「日記に貼るよ!私たちの思い出!」
彼女は折れないように気をつけながらクリアファイルにそれをしまった。
帰り道は、行儀よく正門から降ることにした。
しっかり補正された歩道は、裏門とは違い、驚くほど歩きやすかった。
無事下山して、山を背に歩き出す途中、彼女は靴紐を結び直して、つま先をならして猫のように伸びをした。
「私さ、最近ちょっと薄くなってきた気がする」
「ダイエット?」
「ちがう。存在感的なやつ」
僕はちょっと笑って、「それって大丈夫なやつ?」と尋ねた。
彼女はいたずらっぽく笑って、「うーん、まぁ八割がた冗談」と答えた。
「じゃあ残りの二割は?」
「それは、ひみつ」
彼女はニコニコ笑いながらいつもの鼻歌を歌った。
「その歌は誰の曲なの?」
「わかんない。お母さんが歌ってくれたの。むかーし」
「お母さん?」
「そっ。お母さん。私が夜泣きした時よく歌ってくれたみたい。まだ小さいときにいなくなっちゃったからよく思い出せないんだけど。でも鼻が覚えてるの」
「鼻?」
「なんか香りと一緒に思い出すの。お母さんの髪の匂いとか。そういうのない?」
僕はすこし考えてみたけれど、いまいちピンと来るものがなかった。
「いい?誰かを忘れないために必要なのは写真なんかじゃなくて、いつでも口ずさめる鼻歌なのよ」
彼女は得意げにそう言ってまた鼻歌を歌う。
しばらく歩くと、通学路の公園の前に差しかかった。
彼女は足を止めて、もう葉桜になった桜の木を指さした。
「その時が来たら、あの下で私を描いてよ。私の大好きな花の下で」
「その時まで、僕が死ななかったらね」
先ほどの彼女の冗談に倣って僕はそんなことを口にしてみた。
隣の彼女は少し困ったような笑顔を見せた。
家に帰って、リビングの食卓についた。
母親と食材に、「いただきます」と言って味噌汁に口をつける。
しばらく、夕飯を味わっていると兄と父親が帰宅した。
スーツ姿でリビングを通り過ぎる二人に、「おかえり」という。
兄と父は親子そろって弁護士事務所を営んでいる。
リビングに戻ってきた二人は、今日も食卓で書類を広げ仕事の話を始めた。疎ましいと思った僕は、残りのコロッケを急いで胃に入れてその場から立ち去ろうとした。
「進路は決まったのか?」
父の声が僕の足を否応なしに止めた。
「べつに」
「少しは兄を見習え。お前もしっかり勉強して地に足つけるんだぞ」
言葉が降ってくる。
その声の正体は心配なんかじゃない。
世間体だ。
決して、僕のためではない。
この子はしっかりしています、と誰かに言わせたいだけの冷たい期待。
僕が何を思っているかなんて興味がないんだ。
「うん」
僕は背中越しに応えて、自分の部屋に戻った。
画家になりたい、だなんて口が裂けても言えない。そんな時、彼女の顔が浮かんだ。
溌剌と笑顔を浮かべ、自由に生きている彼女。生きているのが楽しそうな彼女。
きっと彼女は悩みを知らない。それが心の底から羨ましく思った。
僕も彼女のように風の吹くまま気の向くまま生きることができたらどんなに楽か。僕はイヤホンを耳に突っ込み、机に向かって絵を描いた。絵に浸っている時だけは自由だった。
それはきっと現実世界を忘れられるからだ。
やっぱり死にたい。死にたいというより、生きたくない。
消えてなくなりたかった。
ふと脳裏に浮かぶ。
傘をさして、紫陽花に触れながら笑っている彼女の姿が。
僕もあんなふうに自由にいられたらな。
僕は、スケッチブックを一枚めくる。
そこには満開の桜が舞っていた。
彼女は今、何を思っているんだろう。




