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第5話

 月曜日の朝。駅のホームには、今日も変わらない人たちが並んでいる。

 みんなどこかへ向かうために、はたまた誰かに会うために歩いている。

 僕もその一人のはずなのに、ここにいることがどこか場違いに思えてくる。

 電車がホームに流れ込んで、風を作った。隣の女性が、風でふわりと崩れた前髪を慌てて直している。

 きっとこの人はこれから誰かに会うんだろう。

 吊革につかまりながら、窓から流れる景色を眺めた。

 緑や青や茶色ばかりが目に入ってくる。

 僕が頭を抱えて悩んでいることや、不安で眠れない夜の心情。

それらの全ては、僕が死ねば解決することだった。

 死というものは、ある人にとっては絶望かもしれないが、ある人にとっては救済なのだ。

 あの日、自殺しようとしていなかったら、彼女とパフェを食べに行くことも、彼女とカラオケ屋さんに行くことも、文房具屋さんに行くことも、彼女と連絡先を交換することも、映画館に行くこともなかったのだ。そう考えると、人生本当に何があるかわからない。何を引き金に人生が動くかわからない。

人間万事塞翁が馬。そんなことわざが頭に浮かんだ。これから生きていけば、それが悪い方向に動いてしまうことだってあるだろう。思いもよらない事故に巻き込まれたり、事件に巻き込まれることだってあるかもしれない。罹りたくもない病気に罹るかもしれない。そういった不安の積み重ねが自殺への衝動に繋がっていくのだ。

 健康ならいいと彼女は言った。果たしてそれは真実だろうか。

 僕はそう思えずにいた。

 いつものように後ろの扉から教室に入り、席に座る。

 彼女はまだ来ていなかった。今日の授業で使う教科書を机にしまっていく。

 手持ち無沙汰になったので、ポケットからスマホを取り出し、ネットサーフィンをはじめようとした時、前の扉が開き彼女が教室に入ってきた。

 多方向から朝の挨拶を受けて、自分の席に着いた。

 席に着くなり、彼女といつも行動を共にしている二人のクラスメイトが彼女の席に近づき、三人は談笑を始めた。途中、彼女がこちらをちらりと見た。

 僕も彼女を見ていたので、目が合ってしまい、すぐにスマホに視線を落とす。

 彼女の周りには、いつだって人がいた。

 何気ない言葉、笑い声、髪を揺らす仕草。

 比べると彼女は物語の主人公で、僕はページの余白に書き忘れられた文字みたいだ。

 それでも彼女は時々、誰もいない方向をぼんやりと見つめていた。

 そこにだけ、本当のなにかがあるように。

 僕が見ている世界と彼女が見ている世界は、ほんの少し重なっているのかもしれない。

 そんな幻想を抱いてもいい気がした。

 だけど、それもただの思い込みなのだろう。

 たいていの優しさやまなざしは、すれ違ったあとすぐに消えてしまう。

 まるで僕の存在のように。

 揶揄(やゆ)じゃなくて、物理的にこの世から消えることができたらどれだけ楽だろうか。

 この世は苦悩に満ちている。

 それだけは確かだった。

 今日も一日の授業に耐え、あと何回学校に来ればいいのか、あと何回学校に来たら死のうかなどと考えながら、帰るため歩き出した。

 駅まで来て、改札を抜けようとしたタイミングで声を掛けられた。

 「よっ」

 辺りを確認すると、駅の柱にもたれかかって立っている金之助がいた。

 「あ、・・・うっす」

 なんともダサい挨拶をこぼす。

 「今日、退院したんだよ」

 金之助はまだ病み上がりのようで、右足を少し引きずりながら近づいてきた。

 「待ってたんだぜ。ほら行くぞ」

 そう言って、僕の肩を軽くたたいた。

 「どこに?」

 「ホルモン!秩父といえばホルモンだろ?退院祝いだ。付き合ってくれよ」

 彼はグッドサインをして、僕より先に足をかばいながら改札を抜けていった。

 僕は後を追い、控えめに彼の肩をささえた。

 決して、友情なんかじゃない。

 友達なんて脆い人間関係だ。

 最後は嘘をつかれ、裏切られて捨てられる。友情とはそういうものだ。

 中学の頃、「俺たち親友だな」と言ってきたやつがいた。家にも遊びに行くような仲になり、テストの点数を競い合ったり、時には恋の話で盛り上がることもあった。

 でも、ある日、僕の噂をでっちあげて笑っていたのだ。

 それは他の誰でもない、その親友だった。

 以来、僕は人を信用するのをやめた。

 手を差し伸べられても、それはいつか突き落とすための距離にしかならない。

 裏切りとは手を握ったあとにやってくるものだ。

 だから今のこれは、決して友情なんかじゃない。

 ただの反射で、ただの義務感。それ以上でもそれ以下でもない。

 「お、わりーな」

 そんな僕の内面を微塵も知らない金之助は、ニカっと健康的な白い歯を見せた。

 何年ぶりだろう。こんなに近くで人の笑顔を見たのは。

 懐かしくて、不器用で、やけに眩しい笑顔だった。

 少しだけ、何かが揺らいだような気がした。心のどこかがくすぐったくなった。

 それでも僕は、それを「あたたかさ」だなんて認めるわけにはいかなかった。

 だって、そうやって失望してきたのだから。


 細い路地の奥にあるホルモン屋。

 『ホルモン・いっちょうめ』という提灯(ちょうちん)が五月の風に淡く吹かれて揺れている。

 古い暖簾をくぐり抜けると、店内は煙と声で満たされていた。

 「ここ来たことある?」

 僕は首を左右に振る。

 「ここ、美味いんだぜ。だったら注文は俺に任せろ」

 そう言って、嬉しそうに案内された二人掛けの席に座った。

 鉄板の奥では、白い油の塊がじゅうじゅうと音を立てていた。

 「足は大丈夫なの?」

 狭い店内だったから念のため尋ねてみた。

 「せやねぇ。せやねぇ。引きずるクセがついちゃってるんよ。柔道やってた頃の方がもっと痛かったし」

 せやねぇ。とは秩父弁で大丈夫という意味。

 「柔道?」

 「ああ、中学の頃な。中学の頃は野球部じゃなかったんだよ」

 彼は元気よく手を上げて店員を呼んだ。

 「とりあえず、ホルモンの盛り合わせと、白飯の大を二つ。あと飲み物はコーラで。それも二つで」

 「はーい、かしこまりました!」

 元気のよい、看板娘っぽい女性は注文を取ると、そそくさと引っ込んだ。

 彼女は煙たい店内を笑顔で走り回っていた。

 お金を稼ぐのも大変そうだ。

 僕は店内をキョロキョロ見渡した。

 特に意味のある行動ではない。

 久しぶりのサシなので落ち着かないのだ。

 やがて飲み物と七輪が運ばれてきた。

 先ほどより、顔に熱さを感じる。

 「じゃ、退院にかんぱーい」

 ビンとビンが重なる音が小さく響く。

 それはすぐにタバコと肉の煙が舞う、店内に溶けていった。

 彼は喉を鳴らして、勢いよくコーラを流し込んでいる。

 「ぷはぁ。しみるぜ~」

 束の間、ホルモンの盛り合わせも到着した。

 彼は順番にお肉を網の上にのせていく。

 「いやぁ、俺ホルモン大好きなんだよなぁ」

 「僕はあんまり食べたことないな」

 「おう?まじか。だったら今日はたらふく食え!今日は俺のおごりだ!」

 七輪の上で、色とりどりの肉が躍るように並んでいる。

 タレの焦げる匂いが鼻を刺激し、空腹を誘発した。

 「ほれほれ、これ焼けたぞ」

 彼は割りばしで僕のタレ皿に肉を置いた。

 「それ、ハツ」

 割りばしで僕の肉を指しながら言った。

 僕は初、ハツを口にいれる。

 「うん、美味しい」

 「だろ?だろ?」

 こりこりとした触感がくせになる。

 彼も色んなお肉と白米を口いっぱいに頬張っていた。

 「うーん、やっぱりここのホルモンは美味いなぁ」

 満足そうに笑う。

 その頬には、えくぼができており、どこか少年のように見えた。

 僕は頷きながら鉄板の上のホルモンをそっと裏返す。

 「それよりさ」

 しばらく無言でホルモンに舌鼓を打っていると、金之助が白米をかきこみながらそんな前置きをした。

 「如月くん、花咲と付き合ってるん?」

 「え?」

 驚きで間の抜けた声が出てしまった。

 「いや、別に変な意味じゃなくて。なんか映画館に行ったとか噂で聞いたから」

 「付き合ってないよ」

 僕は静かに言葉を置いた。

 肉を焼く手が止まる。

 「そうなん?まぁ、違うならいいんだけどさ」

 金之助の声が少しだけ迷ったように揺れた。

 「え、なに?」

 「いや・・・」

 箸の先で焦げたホルモンをいじる。少し焦げた肉片がくるりと裏返った。

 「この前、俺の知り合いが映画館で二人を見たって」

 「ああ」

 「あいつさ、結構口軽いやつでさ。すぐに誰かに話して、それが割と広まってて」

 金之助はつづけた。

 「それで思い出したんだけど・・・・」

 彼は顔を曇らせて、コーラを煽った。

 「花咲って、一年の頃バスケ部だったんだよ。知ってた?短かったけど」

 「ううん、知らない。そうなんだ」

 「うん。で、今の三年の部長、新井っているだろう?でかいやつ」

 「まぁ、なんとなく」

 と言ったものの、新井なんてやつこれっぽっちも知らない。

 誰だ?バスケ部の部長?

 「そいつ、ずっと花咲のこと狙ってるらしいんよ。なんか去年も花咲がやめた後だったかな?飲み物とか渡したり、その他にもちょっかい出してたらしいんだ」

 これだから人間関係というのは面倒だ。

 「まぁ、直接どうこうってわけじゃないけど結構噂になってたし。今回の如月くんの件もそれなりに噂になってるっぽいからさ。一応な、気をつけとけよって話」

 僕は、鉄板の上のホルモンを見つめた。弾ける脂の音が遠く聞こえた。

 「ありがとう。でも大丈夫。僕なんか誰の目にも留まらないから」

 金之助は言葉を飲み込んだように短く笑った。

 「でも、お前みたいなやつ、案外モテるんだぜ?」

 「それはないよ」

 箸でホルモンをつまみながら、目を伏せた。

 否定したものの、僕はその言葉を肉と一緒に胃に入れた。

 その後は、普通の話に戻った。

 主に彼の入院時の話。可愛い看護師がいたとか、病院飯が不味くて苦痛だったとか。

 馬鹿な話をして、くだらないことで笑うことは意外にも楽しいものだった。

 誰も僕らを気にしていなかった。

 一時間を過ぎたところで、お茶漬けを頼み、たらふくになったお腹を抱えながら店を出た。

 外には、やっぱり今日も星が光っていた。

 「また来ようぜ!俺がバリバリに歩けるようになったら」

 会計を済ませた彼が出てきてそんなことを言った。

 僕は知らぬ間に頷いていた。

 生ぬるい風に吹かれながら、程よい距離間で、焼き肉の匂いを洋服に忍ばせながら金之助と並んで歩いた。

 別れ道で、「ぜったいまたいこうな」と念を押すように彼は笑った。

 僕は躊躇うことなく、「うん!」と頷いた。

 それは、久しぶりの約束だった。

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