第3話
翌日。
朝早くアラームの音で目が覚めた。
朝は好きじゃない。
朝が健康だなんてあれは嘘だ。
今日も起きてしまったと思う。
だけど今日はいつもの「起きたくない」がなかった。
それはたぶん、今日誰かと会う日だから。
僕はなんと単純な人間なのだろう。
カーテンの隙間から光がさしていた。空はちゃんと晴れていたし、なんとなくそれが嬉しかった。
人間の感情には天候が親密に関連している気がする。
晴れの日は嬉しいし、曇りや雨の日はなんだか気分が落ち込む。
かといって、暑すぎるとそれはそれで鬱陶しい。
そよ風は気持ちがいいが、強風はただ腹が立つだけ。
天候は人間関係に酷似していると僕は思う。
リビングで支度をしていると、妹がアイスを食べながら「へぇ、珍しく外出?友達?」と訊いてきた。
「まぁ。そんな感じ」
「ふーん」
興味あるのかないのかわからない反応のまま、妹はアイスをくるくると舐めていた。
のんきな奴だ。
簡単な支度を終えて、僕は玄関のドアを開けた。
四月の風が昨日よりあたたかくて、僕はちょっとだけ深呼吸してみる。
慣れ親しんだ空気が胸の中にすっと入ってきて、僕の足を軽くする。
僕は時間通りに集合場所に向かった。集合場所に着くと彼女はすでにおり、僕に気が付くと手を振った。
僕も軽く手をあげて応える。
「おっはよー!今日も死んでないね!」
「前代未聞のあいさつだね」
彼女の私服姿を見るのは初めてだった。黒のミニスカートに白のシャツ。
女子にしては高めの身長の彼女には実に似合うコーデだった。
彼女はドリンク片手に「今日は歌い倒すぞー!」と張り切った。
どこか小さな戦士みたいだと思った。
僕らは地元で唯一のカラオケ屋にやってきた。
ちなみに、僕は片手で数えられる程度しか来たことがない。
カラオケという場所はどうも好きになれない。
狭い個室に閉じ込められて、数人の人間たちがお互いの空気を読んで笑い、盛り上がり、順番を気にして選曲し、無言の圧力の中で楽しむことが求められる。
その不自然な空間がどうにも耐えがたかった。
息苦しい他ない。
「さぁ歌うぞ~」
そんな宣言と共に、彼女はドアを開けた。
受付を済ませ、部屋に入ると、彼女は一目散にリモコンを手に取って「はい、一曲目~!」と叫びながら歌い出した。
それは昭和っぽいラブソングだった。
世代とか関係ない。ただ歌いたいから歌う選曲。
彼女は上手かったわけじゃない。けれど、声はまっすぐで、自由さがあった。
一曲目を歌い終えると、彼女がマイク越しに「歌わないの?」と訊いてきた。
僕はどうぞ、どうぞとジェスチャーを返す。
ほんとうは歌いたくないだけなのだが素直にそう言うこともできず、かといって歌うこともできず、結局ただ空気に流されるように身を任せていた。
こういう馴れ合いがどうしても苦手だ。
順番に歌う、遠慮し合う、譲り合う。
譲った側は「気を遣った」ことになり、譲られた側は「気を遣わせた」と感じる。
そんな見えない帳尻を、いちいち心の中で計算しなければならない。
たいして歌いたくもない歌を探し、盛り上がりそうな空気に合わせて取り繕い、自分がそこにいる意味を無理やり捻りだそうとする。
彼女は楽しそうに次々と曲を入れていく。
迷いがないというより、ただ歌いたいから歌う。
そのことに疑問を抱く様子はまるでなかった。
選んだのは流行りのJ-POPばかりで、特に意味のある歌なんかじゃない。
声は裏返るばかりだし、リズムもずれてばっかりだ。
でも、彼女はそんなことを一切気にせず、ただただ楽しそうに歌っていた。
彼女はただ歌いたいから歌っている。
ただ楽しいから楽しんでいる。
当たり前のことだった。
でも、そんな当たり前のことが僕にはどうしてもできなかった。
どうしてこんなにも違うのか。
一人っ子だからか。
僕はあらゆる場面で嫌われないことを最優先してきた。
頼みごとをされたら断れないし、やむを得ず断ると後悔するし、結局承諾しても後悔している。
誰かの機嫌を損ねないように常に頭の中で他人の感情のシミュレーションを走らせつづけて、そのうち自分の本音なんてどこにあったのかわからなくなる。
これらのことも、僕が友達を作らなくなった要因の一つであった。
でも、彼女にはそれがない。
気を遣わないというのではない。ただ気を遣うことを目的にして生きていない。
彼女の楽しさは、演技でも媚でもなかった。
それが僕には眩しかった。
そんな彼女を見ていたら僕もだんだんマイクを持つのが恥ずかしくなくなってきて、気がつけば二人で交互に歌い合っていた。
僕は本当に単純だ。
途中ジュースをこぼしたり、歌詞を間違えて笑い合ったり、画面の映像の古臭さに突っ込んだり。
時間は経過し、残り一時間になったところで、彼女はマイクをおいた。
「おつかれ」
僕は労いの言葉を送る。彼女はだらりとソファーに腰掛け、先ほど注文していたクリームソーダを一口飲み、「おいしい」と全身をバタつかせた。
それしきりのことでそこまで喜べる。やっぱり理解できない。
全身で喜びを表現した後、彼女は可愛いウサギ柄のショルダーバックから日記帳の様なものを取り出しペンを走らせた。
「なに書いてるの?」
「ん~?べーつにー」
彼女はそれから数分間、真剣な眼差しで日記帳にペンを走らせた。
「そういえばさ、なんで死のうとしてたの?」
きょとんとした顔で純粋な疑問として彼女が訊いた。
例えるなら、幼稚園児が大人に、「空は何で青いの?」と尋ねるような感じで。
伝わるかどうかはわからないが僕は胸の内を素直に話してみることにした。
「特にこれといった理由はないよ」
「ん~。例えば、シリアスな感じになるけど、いじめられてるとか、どこか体の調子が悪いとか・・・・」
彼女にしては珍しく歯切れが悪かった。
それもそうだろう。
自殺しようとしていた奴の前で、自殺の話をするのだから。
僕は、なるべくシリアスにならないよう気を付けながら、普段考えている自殺論を語った。
「僕にとって自殺っていうものはマイナスなことじゃないんだ。この世界で前向きに生きていることの方がおかしいと思う」
彼女は僕の持論を良いとも、悪いとも言わなかった。ただ「それはどうして?」と先を促した。
「毎日同じ時間に起きて学校に行く。顔面が整って生まれてきたわけでもないし、お金持ちの家に生まれてきたわけでもない。これから数十年働かされて、国に税金を納めて、ある日ぽっくり死んでいく。それだったら早く終わらせて楽になりたい。死ぬってことは、楽になれるってことなんだ。それってマイナスなことじゃない」
カラオケの黒いテーブルを見つめながら、普段心の中で思っていることを彼女にさらす。
僕は彼女を見るとはなしに見る。
彼女はわかりやすく顔をしかめて、静かな声で「違う」と言った。
笑顔しか知らない彼女の顔が少し歪んだ。
「違うって?」
訊き返す。
「そんなの違うよ!今、健康なんでしょ?」
「体は健康だよ」
彼女の声のボリュームが上がった。
どうやらマイクのせいではないらしかった。
「十分じゃん!なんで未来のことを勝手に決めつけてマイナスに考えてるの?甘いよ!甘い!健康ならいいじゃん。勝手に不自由にしてるだけじゃん。健康なら自由に好きなように生きればいいじゃん!健康だけで・・・じゅうぶんじゃん・・・」
熱が入ったように急にしゃべりだし、最後は萎むような声を残しうつむいてしまった。
僕は冷静さを失っていなかったし、僕も昔はそう思っていた。健康ならいいと。健康でいられるのだから幸せだと。
ただ今は、それをも飛び越えた境地にいるのだ。
だから彼女の方が甘いと、心の中で呟いた。
仕方なく食い下がらなかった。
食い下がったところでオチは見えている。
「た、確かに、君の言う通りかもしれない。僕は甘いのかも」
僕は素直に胸の内を話したことを心底後悔した。
やっぱり本音は心の中で埃をかぶっているべきだ。
結局人と人は、分かり合うことなんてできない。
改めて肝に銘じる。
「い、いや。こっちこそごめん。急に熱くなっちゃって」
彼女は反省したように熱くなった顔を引っ込め、また一口クリームソーダを飲んだ。
僕は、特に気にしないという顔をした。
考えてみればあんな論に共感する人の方が少ないのだから彼女が反論するのは無理もない。
ただもう一度言う、彼女は甘い。
「ラスト一曲、なに歌う?」
彼女はくるくると表情を変化させ、再びマイクを持った。
この切り替え能力の高さが人気者の所以なんだろう。
僕は目の前で人間力の差を実感した。
「君が決めてよ」
そういうと彼女は少し考えて、子ども向けのアニメの主題歌を入れた。
「うん。意味ない曲って、最後に残るんだよ!」
彼女の声がスピーカーに響いて、僕はただそれを聞いていた。
生きる意味。それは瞬間の連続。
意味のないことが心をあたためるのかもしなれいと彼女の歌声を聞きながらぼんやり思った。
自分の単純さがよく理解できた。
みっちり歌いつくし、すこし声を枯らしながら外に出た。
外には、もう夕焼けの姿はなかった。
代わりに、彼女が好きだと主張する綺麗な星たちが、空に張り付いていた。
空に張り付く、なんて言い方をすると彼女はまた不機嫌になるかもしれない。
「はあ。楽しかった~。これでパフェのカロリー消費されたかな~」
「え、もしかしてダイエットのためにきたの?」
僕の問いに彼女は曖昧に笑って誤魔化した。
春の風が肌をなでて、街灯の灯りが歩く道にゆらゆら落ちている。
「如月くんは、未来って信じる?」
「急だね。みらい?信じるとか信じないとかそういう概念なの?」
「わかんないけど、私は今が大事だと思うの。だから未来のことを想像なくてもいいんだよ。人生は今を楽しむ!それがすべてだよ!」
僕は黙っていた。
僕の自殺論へのアンサーなのか。
今この瞬間、彼女はたしかに生きていた。
彼女にはそれ以上、なにも足す必要はないと思った。
「あ、ちょっと寄っていい?」
見ると、閉店間際の文房具屋が柔らかい光を灯していた。
「なにかいるの?」
「うん、ちょっとだけ」
そう言うと、彼女はドアを押して、僕を置いて先に入っていった。
背中越しに、彼女の「今」がふわっと零れたようにみえた。
僕はそれを落とさないように慌てるように彼女の後を追う。
店の中は紙の匂いがした。
彼女はまっすぐクレヨンの棚へ歩き、しばらくの間しゃがみ込んで選び始めた。
「スケッチブックはこれでいいかなぁ。クレヨンは・・・・」
「何か描くの?」
「ううん、如月くんが描くんだよ!わたしを」
僕はこの前の約束を思い出す。
「この前言ったじゃん。しかも知ってるよ~。如月くんが美術部だってことも~?」
いたずらっぽく笑って、買い物かごに小さなスケッチブックとクレヨンを入れる。
その場で小さなため息が出てしまった。
僕は彼女に生かされているのだろうか。
レジで会計を済ませたあと、僕らはまた並んで歩きだした。
文房具屋の外には、さっきより濃い夜が降りている。
「なんか不思議じゃない?」
彼女は突然立ち止まり、空を見上げて言った。
「昼よりも夜の方が世界って広く感じるの」
僕は空と彼女を交互に見た。
ぽっかりと白く、輪郭のぼやけた月が浮かんでいた。
そのとき、ほんの一瞬。
彼女の髪の端が、月灯りを吸い込んで、そっと滲むように光った気がした。
光るというより輪郭だけが柔らかく透けたような、そんな印象だった。
「さ、帰ろっか」
彼女はちらりとこちらを見て、笑った。
その笑顔には、月も星も入り込めないほどの地上のぬくもりがあった。
僕が一瞬覚えた違和感は、すぐにアイスクリームのように溶けた。
彼女の笑顔が温かかったからだろうか。
今のは一体なんなのだろう。




