第16話
白く濁った息が、空に溶けていく。
舗道の隅にうっすらと霜が降り、落ち葉は凍えたように音もなく地に伏していた。
遠くの山々は、鈍色の空を背に、じっと黙っている。
古びた建物の前には、黒い服を着た人たちがいる。
線香の匂いが漂った式場は、季節の空気とは違う冷たさで満ちていた。
白い花々に囲まれた棺の前に立ち、僕は深く息を吸う。
穏やかな表情でその人は眠っている。軽くゆすったら今にも目を開けて優しく微笑んでくれそうだ。
でも、そんなことはありえない。
死んでしまった人間は二度と目覚めることがないからだ。
手を合わせて、目を閉じる。
死ぬとは、いったい何なのだろう。
人が消えてしまう。それだけのことなのだろうか。
声が、笑顔が、体温が、すべてが失われることを『死』と呼ぶのだろうか。
なぜ人は生きるのだろう。
もし、死ぬためにだけ生きるのだとしたら、その営みはあまりに儚く、残酷すらある。
それでも人は、朝になれば目を覚まし、食事をし、笑い、泣き、誰かを好きになる。
生とは、死に抗うための灯なのかもしれない。
いつか消えると知りながらも、今だけは燃やしつづける小さな火。それを絶やさないためにも人は生きるのかもしれない。
彼女と出会い過ごしていったことで僕は死生をそんなふうに考えるようになった。
目を開けた僕は、ふと思い出して制服の腰ポケットから文庫本サイズの日記帳を取り出した。
無論、それは彼女が残したものだった。
すこし考えてから、日記帳をその人の手のそばにそっと置いた。
それはまるで、手紙を届けるようだった。
少しだけ、その人の表情が明るくなったような気がした。
やがて焼香が始まった。
僕は作法通りに香を焚き、遺影の前で手を合わせた。
永遠につづくと思われた読経が終わり、火葬場に移動することになった。普段は曲がらない交差点を右に曲がり山の方へ進んでいく。
窓の外から見える冬の空は、どこまでも白く、凍てつくように高かった。
その空の色を眺めているうちに、あの夜のことを思い出した。
あの夜だ。
今とは違い、夏の余韻が吹いていて、最後の力を振り絞るように、夏が秋にバトンタッチをするような、そんな夜だった。
今でも彼女の声が頭の中で鳴っている。
「はい、これとこれ」
そう言って月歌は、小さな瓶と見慣れた日記帳を差しだしてきた。
「ん?なにこれ?」
「私の日記帳と、この桜の木からとった花びらだよ」
瓶の中にはたしかに、乾いた桜の花びらが二枚入っていた。
「いつの日か、陽依くんが鼻歌について尋ねたことがあったでしょう?」
僕は頷いた。
「実は、お母さんも私と同じ病気だったの。この病気はね、物理的に残っているものがあると忘れないでいられる。私もお母さんが消えてしまう前に、お母さんから手紙を渡された。だから、これまでお母さんのことを忘れたことは一秒だってないのよ」
「忘れないよ。月歌のこと忘れない」
「だから受け取ってほしい。でも、一つだけ約束してほしいことがあるの」
彼女は一拍いて、何かを抑えるような顔をした。
「その時が来たら、日記は燃やして、瓶は海に流してほしいの」
「どうして?」
「映画で見たでしょう?瓶を海に流すの。私もそうしてほしい」
「そうじゃなくて、なんでそんなことしなくちゃいけないの?これがなかったら月歌を忘れちゃうんだろう?僕はそんなことしたくない」
怒る僕を彼女は優しく見つめて、首を左右にゆっくりと振った。
「言ったでしょ?今がすべてだって。今の中にすべてがあるの。過去でも未来でもない。今なんだよ。私たちの日常もそうしてきたでしょう?だから大丈夫になったらそうして。過去を見つめていても前には進めない」
「・・・そんな」
やがて、「こんな気持ちになるなら出会わなければよかった」と呟いた。
「陽依くん。それは違うよ」
彼女は優しい口調で僕に語りかけた。
「私はね、ずっと月が嫌いだった。けど、今は好き。なぜかわかる?」
僕は首を横に振る。
「それはね、月灯りで光る私を美しいって言ってくれた人がいたから・・・それは他でもなく陽依くんだよ。陽依くんのお陰で私は月を好きになることができた」
一拍置いて、「でもね、手紙なんかなくても私はお母さんを忘れなかったと思うよ。思い出すために、物理的なものって本当は必要ないんだよ。わかるでしょ?ほら鼻歌。私には鼻歌で十分だった。だから私たちの間にも物理的なものじゃなくて、そういうものがあるはずだよ。それは陽依くんがこれから生きて確かめてよ!それでいつか教えてよ。ここじゃない遠くの場所で。私、待ってるからさ。その時は、すぐに私を見つけてね」
「すぐに見つけるよ」
隣をみると、彼女は大粒の涙を流していた。
「ありがとう、陽依くん」
僕は震える声で、「今も美しいよ」と言った。
彼女は、腕で涙を拭いて、にっこりと笑った。けれど、すぐに耐えきれなくなり再び涙を流した。
僕は歯を食いしばり、こみ上げるものを必死で抑えた。
「いやだ。私泣いてる」強がるように涙声で言う。
僕は、「流れ星みたいだよ」と言った。
彼女は大胆に右腕で目をこすって涙を止めようと必死だ。
「ねぇ、私喉が渇いちゃったな。陽依くん自販機で飲み物買ってきてよ。二人で分けよ?」
彼女はまだ泣き止まず、声を震わせながら無理して笑顔を作っている。
「うん、わかった。すぐ戻るよ」
僕は立ち上がり、自販機を探した。
すぐに見つかり、サイダーを買って公園へ戻る。
ほんの数分だったし日常だった。
けれど、桜の木の下には誰もいなかった。
「・・・つ・き・か?」
僕は走り出して、その場に近づく。
葉桜の木が風に揺れて葉がさらさらと擦れると、蚊取り線香のようにふっと煙が舞った。
その煙はゆっくりと夜空に吸い込まれていく。
「つきかっ、つきかっ。かくれんぼか?」
声が震える。名前を呼ぶことで、何かが戻ってくるような気がした。
「つきかー!つきかー!もういいから出てきてくれ!なぁ、かくれんぼなんだろう?」
震える声が叫び声に変わった。
「いい加減出てこいよ。つまんねぇよ。・・・つきかー!」
夜の公園は、さっきまでと何ひとつ変わっていない。
ただ彼女の姿だけが、すっぽりと抜け落ちていた。
「つきか・・・つきか・・・」
息が喉の奥に詰まって、名前はしぼんでいくばかりになった。
ひとりでに漏れるみたいに、震えながら、何度も繰り返した。
それを言い続けなければ自分が崩れてしまいそうだったから。
「・・・月歌・・・こんなのってないだろう・・・」
無情の夜に、名前を言い続けるたび彼女がそこにいないことが少しずつ身体の中に沁み込んでくる。
風が吹いて、満月が揺れている。
日常はいつも不条理だった。
さようならの挨拶もなしに、月歌はこの世から消えてしまった。永遠に。




