第15話
それからの数日は、まるで季節が優しく背中を押すように過ぎていった。
僕と月歌は、秩父の街を歩き回った。
朝早く起きて、鍾乳洞に向かい、冷たい地中の空気に触れて、ひんやりとした岩肌を指でなぞり、薄暗い中を奥へ奥へと進んだ。
「涼しくて気持ちいい~」
笑い声が洞窟の中で反響した。
次の日には滝を見に行った。
緑に囲まれた山道を歩きながら、蝉の声と川のせせらぎが鳴いていた。
落差のある滝壺の前に立つと、月歌は両手を広げた。
「やっぱり秩父はいいねぇ」
彼女の声は水音にかき消されそうだったけれど、その笑顔ははっきりと焼きついた。
川に足を入れて遊んだ帰り道は二人ともズボンの裾がびしょびしょになり、「風邪ひくー」などとぼやいた。
はたまた別の日には、月歌のおばあちゃん家の庭でバーベキューをした。
夏野菜を焼いた香ばしい匂いと冷えたサイダーの瓶。
縁側に座って、うちわを仰ぎながら、蚊取り線香の煙の中でゆっくりと時間を過ごした。
夜になると、草むらから虫の声や、田んぼからはカエルの合唱が聞こえてきた。
「いろんな声が聞こえるね」
「うん、たくさん鳴いてる」
「ね。夏って、夜のほうが賑やかな気がする」
そう言って月歌は、うっとりと庭を見つめていた。
そのとき。
ふと肩に何かがふわりと触れた感覚があった。
視線を落とすと、小さな蛍が僕の肩にとまっていた。
ほんのりと淡く、揺れるような緑の光。
まるで夜の中に息づく小さな心臓のようだった。
それに気づいた月歌が小さく声をあげる。
「・・・わぁ。きれい~」
蛍は何か伝えるわけでもなく、ただ静かに呼吸して、やがて肩から離れ、夜の空気に紛れるように飛び立っていった。
その光は、しばらくふわふわと宙を漂いながら、草むらの奥へと吸い込まれて見えなくなった。
僕らは無言でそれを見送る。
虫たちの声だけが変わらずにつづいていた。
月歌が上目遣いで、「私も蛍みたい?」と言った。
「肩なら貸しますよ?」と、うそぶいてみた。
「だっさー」と茶化すように笑う。
夜が更けていき、頃合いだと思い、腰を上げようとすると、肩に重さを感じた。
「まぁ。少しだけ。肩貸してよ」
小さい頭が僕の肩にのっかった。
蛍と違い、その光は、僕から離れていかなかった。
いつの間にか僕らは残された夏を貪るように遊び倒した。
けれど、そのたびに彼女の輪郭が淡くなっていくのも現実だった。
日差しの中で少し目を凝らすと、その姿が溶けてしまうんじゃないかと思う瞬間が日に日に増えていった。
写真を撮ろうとスマホを向けると、まるで逆光に飲まれるように、画面越しの彼女は不思議なほど透明だった。
そして、ある夜。
僕はスマートフォンでこれまで描いた絵や月歌との思い出の写真を見ていた。
紫陽花や夏の日々の断片が画面いっぱいに広がる。
海、縁側、星空、メリーゴーランド、かぼちゃの観覧車、ドーナツ、スイカ、線香花火、鍾乳洞、滝・・・。
どれもに、笑う彼女があった。
どの描写にも、確かに彼女はいる。
だけど、そのすべてが少しずつ霞んでいるように見えて胸が締めつけられた。
その時、スマホがバイブレーションし始めた。
画面には花咲月歌の名前が表示されている。
僕はすぐに携帯を耳にあてた。
「もしもし?どうした?」
『・・・いま、出られる?あの公園にいるんだけど』
彼女の声は、いかにも儚げだった。
「わかった。すぐに行く」
僕は電話を切ると自転車を飛ばした。
公園に着くと、葉桜の下に彼女はいた。
でもそれは、いる、とは少し違っているように思えた。
月歌はまるで、夜の中に紛れる淡い灯りのようで、輪郭がほんのりと光っていた。
近づくと、風と一緒に飛んでいってしまいそうなほど薄かった。
「来てくれてありがとう」
月歌は微笑んで隣に座るよう促した。
「なんかね。妙に寂しくなっちゃって」
「それは消えちゃうから?」
僕が尋ねると、彼女は首を横に振った。
「ううん。そうじゃないの。この世界からいくなることじゃなくて、陽依くんとくだらない話をしたり、旅行に行ったり、日常をすることができないって思ったらね。なんだか、すごい寂しくなっちゃって」
彼女の声はとても静かで、でも真理だった。
「こうして、陽依くんと夜を過ごすの、きっとあと少しなんだろうなぁ」
月歌がうつむき気味に言った。
僕は言葉を探した。
「来年の夏も蛍見られるといいな」
僕は楽しい会話に舵を切ってみる。
「え?」
「ほら、おばあちゃん家でまたバーベキューしてさ、月歌が肉ばっかり焼いて、僕が野菜を焦がしたりして。それに今度は北の方に旅行に行くのもいいじゃん」
僕は、慌てて言葉を紡いだ。
「うふ。うふふふふ」
月歌が笑った。
隣を見ると、やや涙ぐんでいるようにも見えた。
「・・・うれしい」
「え?」
「今の、なんか、すごくうれしかった」
「なんで?」
「だって、未来のこと話してくれたから」
月歌はまっすぐ僕を見つめて言った。
「・・・ありがとう」
か細い声で、絞り出すように彼女が言葉を置いた。
「なんだよ、それ」
「だってあの時、人生を終わらせようとしてた人がこんな前向きに私との日常を私との未来を描いてくれているんだよ?嬉しいに決まってるじゃん」
改めて口に出されると、なんだか背中が痒くなってくる。
「だから消えたりするなよ」力なく僕は言った。
「うん!」
やっぱり彼女は泣いているようだった。
そして二日後。
彼女は、この世から姿を消した。
音もなく、前触れもなく。
気がつけば、そこにはいなかった。
誰かに呼ばれるように。
あるいは、ずっとそう決まっていたみたいに。
そう、夏の終わりみたいに・・・




