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第13話

 「ふ~。おなかいっぱい」

 月歌がイスにだらけて、お腹をさすりながらぼやいた。

 それは苦しそうというより満ち足りた幸せにくるまれているような顔だった。

 「デザート食べすぎだよ」

 「食べすぎだよねぇ。でも、あれもこれも美味しそうだったんだもん。陽依くんだってパフェ二杯いったじゃんか」

 「まぁまぁ。ご愛敬ということで」

 ふたりで顔を見合わせて、くすくすと笑い合う。

 「ねぇ、このあとどうする?」

 月歌が身を乗り出して訊いてくる。

 僕はロビーでもらったホテルの案内パレットを開いて、ページをめくった。

 カラオケルーム、ゲームコーナー、卓球ルーム、ビリヤード、ダーツ。

 それから、ちょっと大人びた、「バーラウンジ」の文字に目がとまる。

 「・・・バー行ってみる?」

 「バー?バーってあのカウンターで大人の人たちがしっとりしてるやつ?」

 「うん。でも、ソフトドリンクもあるって。たまにはそういうのもいいかなって」

 「いく!」

 彼女の返事が驚くほど早かったので、僕は思わず笑ってしまった。

 バーラウンジはレストランの喧騒とは打って変わって、静かで落ち着いた空間だった。

 低いジャズのBGMが流れ、カウンターには淡い光が灯っている。

 奥のテーブル席に案内され、細長い金メッキのメニューを渡された。

 「なにこれ?レゲエパンチ?歌?」

 「知らないよ」

 僕たちは声をひそめて、一つのメニュー表を睨みながら作戦会議をする。

 とりあえず美味しそうなカルーアミルクを注文することにした。

 「ミルクなら間違いないよね?」

 「おそらく」

 長めの髪の毛を後ろに束ねたバーテンダーが手際よく、グラスにカルーアとミルクを注いだ。

 僕も月歌もその様子に圧巻されていた。

 かっこいい。と素直に思ってしまった。

 「お待たせしました。カルーアミルクでございます」

 黒色のハートの形をしたコースターの上にグラスを置いた。

 月歌がグラスをかざすと、ミルク色の液体が、彼女の瞳の中で揺れた。

 「美味しい?」

 「うん。ちょっと大人になった気分」

 カウンターの向こうでは、バーテンダーが静かにグラスを拭いている。

 「ねぇ。こういう時って、どんな話をするもんなの?」

 「そんなの僕が知るわけないじゃん」

 「やっぱり仕事の愚痴とかは、ドレスコードに反するのかな」

 「そんなことないんじゃない?」

 「失恋をしたりするのがお決まりじゃない?」

 そういうと、彼女は脚を組んでグラスの下の方を持って、精一杯かっこつけながらグラスを傾けた。

 僕は白けた目を向けながら、唇をカルーアミルクで潤せた。

 ちなみにカルーアミルクの味は、ほろ苦さとミルクの甘さが重なり、なんだかコーヒー牛乳を飲んでいるようだった。

 バーでお酒を嗜んでいると、ゆっくり時間が流れていく感覚があった。

 いつもより、少しだけ未来のふたりになれたような気がする。

 「次、ゲーセン行こ!」

 一杯目を飲み干したところで月歌がいった。

 どうやら彼女にとっては流れる時間がゆっくりすぎて退屈らしい。

 僕はもう少し、この時間に寄りかかりたかったけれど仕方ない。

 おいとましよう。

 「このまま大人では終わらないんだね」

 「終わらせない!せっかく来たんだから、遊ぶ遊ぶ!」

 バーテンダーにお礼をいい、バーラウンジを後にする。

 ふたりとも、すこし赤くなった頬をたくわえ、エレベーターに乗ってゲーセンのある階へ向かった。

 ゲームセンターでは、ポップなBGMが流れ、光る筐体(きょうたい)がいくつか並んでいた。

 月歌は最初にUFOキャッチャーに向かっていった。

 「この変なクマほしい!」

 「変なクマって・・・ああこういうやつに限って取りにくいやつ」

 「そうそう。やつやつ」

 彼女は両替機に千円を突っ込んで百玉を握りしめて戻ってきた。

 何度か失敗したあと、ようやくぬいぐるみが景品口に落ちたとき、月歌は小さな声で「やった・・・」と呟いて、僕の腕をぎゅっと抱きしめた。

 その後も、レースゲームで息を切らし、エアホッケーで真剣勝負をし、卓球台ではなぜかお互い変なフォームで戦い、笑い声が絶えなかった。

 部屋に戻ると、月歌は靴を脱ぐのもそこそこにベッドにダイブした。

 窓の外には月が浮かんでいて、今日という一日がやさしく終わろうといていた。

 はしゃぎすぎた身体が、心地よい疲れを帯びていた。

 「ふー、しあわせー!陽依くん、今日は百点満点あげます」

 「採点してたのね」

 「もち!はなまるもつけておきましょう」

 僕は笑いながら冷蔵庫を開けて水を一口飲んだ。

 「私も水―!」

 僕は冷蔵庫の中からもう一本取ろうとする。

 「それでいいー」

 月歌は僕が手に持つ水を指さした。

 僕は水を彼女に手渡す。

 よほど喉が渇いていたのか、喉を鳴らす音が静かな部屋に響いた。

 「今日は楽しかったね~」

 「うん、そうだね」

 「こういう日が続いていけばいいのにね」

 「・・・そうだね」

 真理だと思った。

 僕は選択によっては日々を続けることができる。

 でも彼女はどうだろう。

 彼女はもうすぐ消えてしまう。その恐怖は僕なんかでは計り知れない。

 「ねぇ。陽依くん」

 「ん?」

 「もし、あと少ししか一緒にいられなかったら、今日みたいな一日が最後だとしたら、ちゃんと楽しかったって思ってくれる?」

 冗談のような夢の続きのような、そんな口調だった。

 僕の胸の奥が小さく鳴った。

 「どうしたんだい?急に」

 「ううん。なんとなく。今日楽しかったから。これくらいで終われたら、きっと綺麗だなぁって」

 彼女は笑って見せた。

 その横顔には、どこか(もや)がかかったような寂しさがあった。

 「でもね、私はまだ終わりたくない。だから明日も明後日も、陽依くんといられたら嬉しいな」

 言い終わると、僕の返事なんて最初から聞く気がないといった足取りで、バスルームに消えていった。

 取り残された僕は、ただ小さく、「うん」と呟くことしかできなかった。

 部屋に静けさが降りた。

 テレビも消えていて、空調の音だけが静かに響いている。

 僕はなんとなく立ちあがり、カーテンを開けて、ベランダのガラス戸を引いた。

 夜風がひんやりと肌をなでる。

 目の前には遠くまで灯りが続いていた。

 街灯。車のテールランプ。コンビニの看板。マンションの窓。

 それぞれが、それぞれの事情で灯っている。

 そう思った。

 誰かが待っている灯り。

 誰かが帰るための灯り。

 誰かが明日も生きるための灯り。

 どれも大事な灯りだ。

 かつて僕は、この灯りのどれにも意味を見出せなかった。

 自分だけが世界から取り残されたような気がしていた。

 でも今は、ほんの少し違って見えた。

 月歌が隣にいてくれること。

 今日という一日が、何もかも無駄じゃなかったと思えること。

 無駄で意味のないことが好きだと言った彼女の言葉がわかったような気がした。

 つまり、意味のないことでも意味があり、意味のないことに意味を見出すことが大事ということなのかもしれない。

 それが、僕の中の夜をちょっとだけ明るくしていた。

 はじめてのことだ。

 生きるって、思っていたよりも複雑で、でも案外やわらかいのかもしれない。

 ベランダの手すりにもたれて、深呼吸してみる。

 吸って、吐く。吸って、吐く。

 人工的な匂いと夜風が混ざり合う。

 高層階から見下ろす世界は、まるで遠い夢のように静かだった。

 なんだか悪い気はしなかった。

 「陽依くーん」

 振り返る。

 月歌がふわふわのバスローブ姿で部屋に戻っていた。

 「お風呂、すごかったよ。スイッチ押したら天井からアロマの蒸気が出てくるの。貴族かと思った」

 「なにそれ。それ使いこなせる人間、貴族しかいないじゃん」

 「うん。案の定わかんなかった。でも気持ちよかったよ!」

 彼女がタオルで髪をくしゅくしゅと拭きながら、僕の方にニッと笑いかける。

 「陽依くんも入ってきなよ!今ならアロマ残ってるかもよ~」

 僕は、「うん、そうするよ」と言いながらベランダの戸をそっと閉めた。

 すこしだけ。

 ほんの少しだけ。

 明日のことを前向きに考えてもいい気がした。

 バスルームのドアを開けると、ほんのりと柑橘系の香りが空気に溶けていた。

 床は大理石で、湯船は緑が緩やかに波打つような形をしている。

 壁にはミストとバブルの切り替えスイッチ。天井には星空のようなLEDのライト。

 湯に身体を沈めると、じんわりと疲れがほどけていくのを感じた。

 ここが日常のどこにも属していない場所だということを肌が先に理解した。

 湯上りの僕が部屋に戻ると、ベッドの上には月歌が仰向けに寝転んでいた。

 ドライヤーの音が止み、代わりにテレビのBGMがゆるく流れている。

 「あっ、おかえり~。どうだった?」

 「ただいま。うん。いまだかつてないほどのお風呂体験だったよ。僕、もう庶民に戻れないかも」

 「それは困るねぇ。陽依くんはちゃんと地上にいてくれないと」

 彼女がぽんぽんと隣のベッドスペースを叩く。

 僕もバスローブのまま隣に寝転がった。

 天井には間接照明の柔らかい灯りが揺れていた。

 「ねぇ。ゲームしよ」

 「え、今から?」

 「うん。さっきお風呂で思いついたの。灯すゲーム」

 「灯すゲーム?」

 月歌は仰向けのまま天井を見たまま言った。

 「まず、ちょっとだけ暗い言葉を言うの。それを相手が明るい言葉に言いかえる。灯すみたいに」

 「なるほど」

 「じゃ私からいくね。それじゃ孤独」

 「孤独かぁ。んー。笑顔」

 「いいね。じゃ、陽依くんの番」

 「えーと、嘘」

 「やさしさ。死はどう?」

 「難しいね・・・目覚め」

 「いいね。ほら陽依くん」

 「あっえーと。真っ暗闇」

 「そうだなぁ。線香花火」

 「どうして?普通の花火の方が明るくなって良くない?」

 「欲張りだね、陽依くん。それは灯すことにならないの。節制こそが本当の優しさで、本当の灯りなんだよ」

 しばらくの間、暗い言葉を灯すたび、部屋が少しずつあたたかくなっていくのを感じた。

 まるで彼女の声がろうそくの火みたいに、僕の胸の奥を照らしているようだった。

 「じゃ、「終わり」って言ったら、陽依くんなんて返す?」

 僕はちょっと考えて、それから答えた。

 「つづき」

 月歌は少し驚いたように目を見開いて、でもすぐに、にこりと笑った。

 やがてゆっくり瞬きをすると、「ここまでにしようか。あんまり言いすぎると、灯りって溶けちゃう気がするから。今がちょうどいい」と言った。

 「うん、そうしようか」

 カーテンが開けっ放しだったので、僕はベッドから降りて閉めようとした。

 「そのままでいいよ。それより明かり消して」 

 僕はカーテンから手を放し、言われた通りに間接照明を消した。

 すると、部屋には柔らかな光が灯った。

 「これで明かりを一つにしたみたいでしょう?」

 淡く光った彼女がいたずら笑みで言った。

 「おやすみ、陽依くん」

 僕はその光に背を向けず、向かい合って眠ることにした。

 満月が街に蜂蜜雨を降らせる頃になると、部屋からは気持ちよさそうな寝息が響いていた。

 僕は夢の中でも彼女と会っていたような、気がした。

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