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国の骨  作者: 清河逢真


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30/31

第三十章 通る改正、残る穴


 紙の厚みは、可決より先に、今夜も欄外へ残されるものの重さを教えた。


 公議院本会議棟の西側通路は、夜へ入りかけた冷えを白い灯りで押し返していた。窓の外はもう群青へ沈みはじめているのに、天井の照明だけが早く昼を捨てきれず、通る人間の顔色を薄くしている。久世澪は採決札配布卓の前で立ち止まり、差し出された札を受け取った。


 札そのものは軽かった。だが、指の腹に触れた瞬間、その軽さの下に、別の紙が一枚、きっちり挟まっているのが分かった。中央がわずかに膨らんでいる。通る条文の紙より、通らないものを残した留保紙の方が、皮膚にはよく分かる。


 表には短く印字されていた。


【危機時港湾運用調整改正】

【運用枝共同管理の時限的法認】

【内陸医療・物流補正枠新設】

【内陸物流予算増額】

【公議院危機調停権限の一部見直し】


 そこまではいい。そこまでは、澪もずっと押してきた。


 だが、親指でずらした薄い留保紙には、残される穴が静かに並んでいた。


【継承骨格関連は別法整理まで対象外】

【起動名簿欄は審査対象外】

【共同管理は期限付き特例に限る】

【公議院歴史代表枠の本体見直しは先送り】

【限定照合資料は一般審査へ拡張しない】


 澪は最後の一行で指を止めた。


 限定照合は限定照合のまま。

 起動名簿欄はなお外。

 継承骨格には、今夜も届かない。


 ここまで来れば、もう少しは本体へ手が入る。

 神港で名が出て、共同管理も戻らない形とはいえ公表線へ乗って、母も御厨もあそこまで譲ったのだから、今度こそ「正しい改正」に近づく。

 どこかでそう思っていたのだと、札の厚みで知らされた。


 若い党務担当が、机の上の札束を整えながら言った。


「附帯条件は別紙参照でお願いします」


 澪は札から目を離さずに答えた。


「別紙の方が本体みたい」


 男は表情を動かさなかった。


「通る形です」


「通すために、残す方が増えてる」


 それにも答えない。答えなくて済む位置の声だった。


 通路の先では、議場へ入る議員たちの靴音がゆっくり詰まり、傍聴席へ上がる階段の方では、抑えたざわめきだけが硬く降りてくる。可決の夜というより、誰も好きではない合意の夜だった。


 澪は札を閉じずに持ったまま、本会議場へ入った。


 議場は、いつものように重かった。古い木の匂い、絨毯に吸われきらない足音、咳払いの小さな波。ここはいつも遅い。遅く、古く、身内で持たせる。嫌われる理由はたくさんある。だが同時に、ここを折ればもっと荒いものが先に流れ込むことも、みんな知っている。だから嫌っていても、最後の最後でだけ、この場を壊しきれない。


 澪は自席へ着き、採決札を机に置いた。薄い紙のはずなのに、留保紙の段差だけがやけに目立った。


 前方では、会派ごとの最後の発言が短く続いていた。もう長くは語れない。神港の看板にも、差押え札にも、実名にも、暫定共同管理にも、世の中は先に触れてしまっている。ここで遅すぎる正義を演説しても、全部、議場の外で死ぬ。


 政海会側の発言者が、演台の端を指先で押さえたまま言う。


「本改正は、国家機能停止を避ける最低限の措置であります。十分な改組ではありません。しかし、ここで止めれば、被害の再拡大のみが確実になります」


 最低限。

 十分ではないと、自分から言う。


 東新会側の発言者は、それよりも少し若い声で続けた。


「足りない改正です。足りないことを承知で賛成します。いま止めれば、腐る範囲だけが広がるからです」


 足りない。

 それも、自分から言う。


 民生党側は露骨だった。


「内陸医療・物流補正枠と予算増額が乗る以上、本党は反対のための反対をいたしません。ただし、本体の責任整理先送りは、被害地域に説明困難なまま残ります」


 朝正会側の発言は、言葉を選びすぎるほど選んでいた。


「国家骨格に関わる整理を一挙に開くことは、秩序そのものの毀損を招きかねません。本件はあくまで、時限の処置として扱われるべきであります」


 誰も、自分の理想のために札を上げない。


 澪はそのことを、発言内容よりも議場の空気で悟った。みんな、自分の理を守るためではなく、もっと悪い崩れ方を避けるためだけに賛成している。勝ちに来ている顔が、一つもなかった。


 机上の採決札へ指を置く。留保紙の段差が、まだそこにある。


 この札を上げることは、自分の望んだ改革に賛成することではない。

 母の継続論理へ膝をつくことでもない。

 それでも、この足りない改正を通る側で見届けるしかない。

 その位置へ、自分が押し出されている。


 議長が採決の準備に入ると告げた。場内の椅子が一度だけ揃って鳴り、すぐまた沈黙へ戻る。


 そのとき、前列で綾乃がわずかに身体を引いたのが見えた。振り返らないまま、横の細い通路へ出る気配だった。澪は採決札を握り、その気配を追った。


 議場の外へ出る直前、綾乃は立ち止まっていた。照明の白さのせいで顔色は薄く見えるが、肩だけは薄く強張っている。落ち着いて見せる時の母の肩だと、澪は昔から知っていた。


「母さん」


 澪は呼んだ。

 綾乃はすぐには振り返らず、ひと呼吸遅れてこちらを見た。


「どうしました」


 母娘の声ではなかった。議場外で交わすべき声の高さだった。


 澪は札を持ち上げた。


「これ、通すの」


「通します」


「こんな穴だらけのまま」


「ええ」


 綾乃は目を逸らさない。


「今夜は、それしか通りません」


「それ、さっきからみんな言ってる」


 澪の声がわずかに硬くなる。


「通らないから残す。持たないから残す。壊れるから残す。残す側はいつもそう言う」


「残さずに通せるなら、そうしています」


「でも、残される側には、いつもその説明だけが届く」


 綾乃の表情は変わらない。変わらないことが、今は澪をいちばん苛立たせた。


「神港で名前は出た。でも、北沿線で奥さんを失った人の順番はまだ紙に載らなかった」


 澪は言った。


「この留保条項は、その続きでしょう。限定照合は広げない。名簿欄も外。継承骨格も外。結局また、誰かが『今はここまで』の外に置かれる」


「ええ」


 綾乃は、その一言だけは迷わず認めた。


「置かれます」


 澪は一瞬、言葉を失った。

 否定されると思っていた。あるいは、もっと長い制度語で包まれると思っていた。

 だが、綾乃は置かれることそのものを認めた。


「それでも通すの」


「通します」


「母さんは、また外へ置く側に立つの」


 今度は少しだけ間があった。


「ええ」


 綾乃は答えた。


「今夜は、立ちます」


 澪の指が札の端を強く折りかける。紙がかすかに鳴った。


「そんなの、何の勝ちでもない」


「勝ちではありません」


「じゃあ何なの」


 そこで綾乃は、ようやく声の芯を少しだけ露出した。


「国が割れる時に、最初に死ぬのは名のある人ではありません」


 澪は黙った。


「わたくしは、それを見てきました。見てきて、それでも何も残さずに開ける方が正しいとは、今夜は言えません」


「だからって」


「だから、止められるところまで止めるんです」


 綾乃の声は上がらない。上がらないまま、逃がさない。


「止めきれない分が残るのも知っています。あなたが嫌う通り、また欄外は残る。けれど、今夜ここで全部を開いたら、欄外そのものがもっと増えます」


「それ、いつまで言うの」


 澪は低く言った。


「いつまで『今夜は』で押し切るの」


「あなたたちが、本体を取りに来るまでです」


 綾乃は言った。


「今夜ここで全部は通りません。だから、あなたたちが次を取りに来る。そのために、今夜は国を折らないところまでで止める」


 その言葉は綺麗ではなかった。励ましでもなかった。責任の押しつけに近かった。だからこそ、澪は余計に腹が立った。


「そんなもの、母さんたちが残した穴を、私たちに抱えさせるだけじゃない」


「ええ」


 綾乃は答えた。


「抱えさせます」


 それ以上、澪はすぐには返せなかった。

 母の理を赦せない。

 けれど、その理が今夜の議場で通る幅を正しく読んでいることも分かる。

 その両方が同時に立つ時、人は綺麗に怒れない。


 議場内から採決準備を告げるベルが短く鳴った。


 綾乃は視線を外さずに言う。


「戻りましょう」


 澪はその場を動かなかった。


「あなたが札を引っ込めるなら、止めません」


 綾乃は続けた。


「ただ、その場合に増えるものも、あなたは見届けなさい」


 脅しではない。逃げ道を塞ぐ現実の言い方だった。


 澪は札を握り直した。親指の下で留保紙の段差がなおさらはっきりした。勝つ札ではない。削った札だ。その札を、それでも自分は戻って上げるのだと、指先だけが先に知った。


「……最低」


 澪は言った。


「ええ」


 綾乃は応じた。


「最低です」


 それで会話は終わった。和解にはならない。赦しにもならない。ただ、互いの正しさが互いの傷であることだけが、短い通路に残った。


 議場へ戻ると、採決はすぐだった。白い札が一斉に持ち上がる。誰も晴れやかな顔をしていない。あまりに多くの人間が、嫌なまま札を上げているからだった。


 澪も札を上げた。

 留保紙の厚みが、指の内側へ当たる。

 自分が今持ち上げているのは、改革の紙ではない。穴つきの改正だ。

 それでも、引っ込めなかった。


 議長の確認声は短く、乾いていた。


「可決」


 その二字で、救われた顔をした人間は一人もいなかった。


 拍手も起きない。代わりに、机へ札を置く音だけがあちこちで重なった。薄い紙の音なのに、妙に鈍かった。留保紙が挟まっているせいだと澪は思った。


 採決後の通路は、議場よりもさらに狭く感じられた。人が滞り、札が引かれ、名札と腕章と通行証がぶつかりそうになりながら流れていく。可決した直後なのに、祝意より先に確認と不満の声が立つ。


 扉の向こう、記者待機線へ抜ける側で、若い政策スタッフたちがもう次の言葉を口にし始めていた。


「これで終わりやない」


「次は本体や」


「そこから先は通さん」


 別の声が被る。


「共同管理を時限で止めたままやったら、また同じや」


「歴史代表枠の本体見直し、先送りで済む思うなよ」


 誰も声を張っていない。張らなくても、もう次の争点が外へ漏れているからだ。可決した瞬間に、次代の対立が公然化する。その速さに、澪は少しだけ気分が悪くなった。遅い制度のくせに、次の亀裂だけは早く表へ出る。


 通路の端で、党務の若手が回収箱を持っていた。使い終えた採決札を受け取る箱だ。何人かが札だけを抜き、間の留保紙は別に挟み直して戻している。形式上は一体の紙でも、実務ではもう本体と留保が分かれている。可決したあとですらそうなのだと見て、澪は喉の奥で何かを押しとどめた。


 自分の番が来る。


 澪は回収箱の前で手を止めた。採決札本体と留保紙の段差に、もう一度だけ触れる。通ったのは確かだ。だが、通ったものは最初から穴つきだった。その穴ごと担う側へ、自分が押し出されたのだということだけは、返す前に確かめておきたかった。


「お願いします」


 若い党務担当が言う。


 澪は札を箱へ入れた。紙が紙に触れる音が、思ったより乾いていた。


 扉の向こうでは、まだ次の争点の声が続いている。


「限定照合の拡張、絶対に要る」


「起動名簿欄はいつまで外に置く気や」


「予算だけ付けても骨は残るやろ」


 その通りだった。今夜通ったのは、腐敗を全部直す改正ではない。今すぐ崩れるところだけを支えるための、一部改正と予算増額だ。継承骨格も、起動名簿欄も、限定照合の拡張も、歴史代表枠の本体見直しも、全部そのまま残っている。


 澪は通路の小窓から外を見た。京都の夜は静かだった。だが、この建物の内側では、可決で終わらない綱引きが、もう次の言葉になっている。


 勝ったのではない。

 通しただけでもない。

 穴を残したまま、通るところまでを通した。

 そして、その穴をこれからも持たされる側へ、自分も入った。


 可決の夜なのに、澪の手の中にはなにも残っていない。残っているのは、紙の厚みを覚えた指先だけだった。


 通った改正は、議場の記録へ残る。

 残した穴は、次の対立の口火として残る。

 その両方が、今夜の公議院で同時に成立していた。


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