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国の骨  作者: 清河逢真


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第二十九章 港に出た名


 未来図の上に貼られた差押え札は、思ったより小さかった。


 神港再開発地区の岸壁寄り、仮囲いの手前に立てられた大型看板には、青い水面と高層の物流棟と、遊歩道めいた白い線が描かれていた。神港圏中枢再編計画、次世代港湾統合基盤、海と都市の新しい接続。そういう言葉が角ばった書体で並び、下段には笑っている家族の小さな絵まで入っている。その右上から左下へ、白い差押え札が一本、斜めに貼られていた。


【関係資料保全】

【立入・移設制限】

【神港再開発機構関連】


 札の幅は細い。だが、未来の絵を止めるには十分だった。


 海から上がってくる風は湿っていた。塩気の中に、工事を止められた現場特有の、動きそこねた機械油の匂いが混じる。仮囲いの向こうでは重機が止まり、まだ片づけきれていない資材だけが不揃いに積まれていた。止まったのは計画であって、港そのものではない。だから余計に、差押え札の白さだけが浮いて見えた。


 梶原省吾は看板の真正面には立たなかった。少しずらした位置から、札と未来図と、その下の規制線が同時に入る角度を探した。写真を撮るためではない。どこに何が載っていて、どこに何が載っていないかを見るためだった。


 出ている名はある。出ていない順番もある。


 報道待機線の内側で、臨時の配布机が畳まれかけていた。すでにぶら下がりは終わったらしい。だが、紙だけは残っている。腕章を巻いた若い実務者が、まだ数部残っていた配布文を持ち直し、遅れてきた記者へ無言で渡していた。


 梶原も一部を受け取った。


 紙は薄く、まだ端が湿っていた。印字は粗い。急いで出した文書の顔だった。


【神港再開発・港湾OS再編過程における違法関与の疑い】

【関係先差押え】

【港湾OS設計過程の歴史的非透明性確認】

【官財接着の実態調査開始】


 その下に、対象先として短く並ぶ。


【神港再開発機構】

【兵庫商事】

【関係役員等】


 別紙には、ようやく名が出ていた。


【早瀬隆文】

【椎名冴子】


 ここまでだ、と梶原は思った。


 ここまでなら出せる。ここまでしか出さない。そういう紙だ。違法関与、非透明性、官財接着。どれも間違ってはいない。だが、ここへ載る言葉は、具体の順番を知らないままでも言えるようにできている。


 港湾OSの設計過程に歴史的な非透明性があった。

 その通りだ。

 では、その非透明性の下で、誰の治療が一時間遅れ、誰の便が半日押され、誰がそのまま戻らなかったか。

 それは、この紙にはない。


 待機線の端で、他社の若手が声を潜めていた。


「椎名まで出るんやな」


「早瀬だけで切るかと思った」


「ここまで出したら十分やろ」


 十分。梶原はその語を頭の中で転がした。十分であるわけがない。だが、十分と呼ばれるには足る幅なのだろう、とも思う。この国はいつも、十分ではないものを、持つために十分と呼ぶ。


 端末が震えた。安住慶介からだった。回線を開く。


『着いたか』


「今、紙を見てます」


『出た名は』


「早瀬、椎名、神港再開発機構、兵庫商事。そこまでは乗ってます」


『それ以上は』


 梶原は配布文から目を上げ、差押え札の貼られた看板を見た。


「切られてます」


『どの切り方や』


「違法関与と非透明性までは出す。でも順番は出さない切り方です」


 安住は電話の向こうで短く息を吐いた。驚きでも失望でもない。そうだろうな、と分かった時の息だった。


『お前の線、どこまで立てる』


「出る文に合わせます」


『削るんか』


「削らないと通りません」


『……分かった。見出しだけ先に寄越せ』


「立てます」


 通話を切ったあと、梶原は配布文を折らなかった。折ると、ただの会見紙に見えてしまう。まだそうしたくなかった。


 規制線の外に、見覚えのある男が立っていた。


 北沿線の地方病院で会った男だった。妻を失ったあと、院内の廊下でただ一度、梶原の問いに答えた。長い話はしなかった。補液線が遅れた。診療が押された。医者は責めなかった。誰も怒鳴らなかった。そのまま、妻が戻らなかった。それだけを、平らな声で言った男だ。


 今日は病院ではなく、港にいる。どういう経路でここへ来たのかは分からない。手には折れた配布文がある。差押え札の看板と、自分の手元の紙を交互に見ていた。


 梶原は規制線の端まで寄った。男は気づいても会釈しない。ただ、紙の上の名を一度だけ指でなぞった。


「名は出た」


 その声は、怒鳴るほど高くなかった。


「でも、うちの順番は入ってへん」


 梶原は返す言葉を探さなかった。探したところで、今この場で渡せるものはない。紙に載った名は確かに前進だ。だが、順番の外へ押し出された死は、この文言の中へまだ戻っていない。


 男はそれだけ言って、看板の方を見た。未来図の上に貼られた札と、自分の紙に載った実名と、そのどちらにも入っていない妻の死を、同じ目で見ているようだった。


「これで終わりやないんでしょう」


 男が言う。


 問いではなく、確認だった。


「終わりではありません」


 梶原は言った。


「そうでないと困ります」


 男はそれ以上なにも言わなかった。期待を預ける顔ではない。終わりではないと言われても、それで戻るものはないと知っている人間の顔だった。


 梶原はそこで初めて、配布文を二つ折りにした。看板はまだ見える。札も見える。だが、折った紙の中に消えるものの方が多い。


 待機線の内側で、短い囲みがまた始まった。港湾管理庁の実務者が出てきて、定型の言葉だけを繰り返す。


「現時点では関係先差押えと資料保全です」


「歴史的非透明性の詳細は」


「確認中です」


「死者との接続は」


「個別事案への言及は控えます」


「兵庫商事の関与範囲は」


「調査中です」


 短い言い換えで逃げる。逃げているからこそ、今日出す幅もまた固定される。


 梶原は待機線から一歩だけ離れ、仮設の欄干に端末を置いた。記事入力画面を開く。見出し欄はまだ空欄。本文のメモ欄には、今朝まで積み上げてきた断片が残っている。


【発火側】

【早瀬/椎名】

【神港再開発差押え】

【港湾OS再編】

【歴史的非透明性】

【遅延死】

【戦時末期優先順位接続――】


 最後の行で、指が止まった。


 そこから先を書けば、梶原の持つ線には近づける。だが、そのまま出せる段ではない。今ここでその語を見出し側へ残せば、紙そのものが落ちる。あるいは、落ちずにもっと鈍い形へ削られる。


 削るのは相手だけではない。出す側もまた、自分の線を切る。


 梶原はその行の後半を選び、消した。

【戦時末期優先順位接続――】

の文字列が、画面から静かに消える。消えたからといって、無かったことにはならない。ただ、今日の社会へは出ないというだけだ。


 残る行は短くなる。


【神港再開発差押え】

【早瀬・椎名】

【港湾OS設計の非透明性】


 それで見出しを立てる。


【神港再開発差押え 早瀬・椎名ら追及へ】

【港湾OS設計の非透明性調査】


 端末がもう一度震えた。安住からだ。梶原は見出しだけを送る。すぐに既読がつき、短く返る。


『それで出す』


 梶原は返した。


「お願いします」


 梶原から安住へは、こういう時でも一段立てる。癖ではなく、距離の取り方だった。


 神港の風が少し強くなった。差押え札の端がわずかに浮きかけ、すぐまた看板へ張りついた。未来図の上に貼られた白い札は、小さいまま、よく目立った。


 少し離れた場所の大型表示に、速報線が流れる。梶原の見出しと、ほぼ同じ幅の語が公共表示に乗った。


【神港再開発差押え 早瀬・椎名ら追及へ】

【港湾OS設計の非透明性調査】


 それを見て、待機線の若い記者が小さく言った。


「そこまでか」


 誰に向けた言葉でもない。だが、その一言で十分だった。社会は、何か大きいものが隠れているかもしれない、という曖昧な気配ではなく、**今回出るのはここまでだ**という幅の方を受け取る。


 梶原は表示を見たまま、さっきの男の言葉を思い出した。


 名は出た。

 でも、うちの順番は入ってへん。


 その一言は、たぶん今夜の紙面には載らない。載せれば、この紙ごと落ちる。だからこそ、梶原の中には残る。残ったまま、次の線を追うしかない。


 囲みが終わり、実務者が戻る。規制線の向こうで、工事用フェンスが風に鳴った。港はまだ動いている。差押え札が貼られても、全部が止まるわけではない。止まった未来図の横で、今日も別の順番が組み替えられ、別の言い換えが走る。


 梶原は端末を閉じなかった。閉じると、削った一行まで終わったことになりそうだった。


 看板の上の差押え札はまだ白い。

 その白さの下で、ようやく社会に出た名がある。

 それでも、最後まで港へ出ない真実がある。


 追及は始まった。

 全部は出ない。

 その両方が、同じ夕方の神港で、もう社会の形になっていた。



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