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国の骨  作者: 清河逢真


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第三十一章 残った骨


 新しい札は、古い糊の上にしか貼れなかった。


 福原官邸危機会議室の隣、全国運用盤前の照明は深夜になるほど白くなりすぎる。昼のあいだに何度も人の手で触られた盤面は、熱を失ったのに、剥がされた札の跡だけがまだ薄く湿って見えた。真下朔也は扉の手前で立ち止まり、盤の中央を見た。


 札は整っている。


【共同管理 暫定移行継続】

【運用枝共同 時限運用】

【内陸物流補正枠 執行】

【限定照合 継続】

【継承骨格 保全維持】


 どれも今夜の国が外へ出すには、整いすぎた言葉だった。

 その下に残る剥がし跡の方が、むしろ正直だった。


【局所障害】

【付随障害】

【一時保留】

【別管理】


 剥がされた札の角だけが盤面へ細く残り、糊の縁に沿って灰色の筋が光っている。数日のあいだに、この国が何度言い換え、何度切り直し、何度「まだそこではない」と後ろへ回してきたかは、新しい札よりその跡の方に出ていた。


 真下は盤へ近づき、【限定照合 継続】の札の下端を指で押した。まっすぐ貼られている。まっすぐだからこそ、その下に何枚も別の札があったと分かる。


「綺麗に貼り直しましたね」


 誰に向けるでもなく言うと、背後で声がした。


「綺麗に見せるしかないんです」


 九条尚央だった。


 振り返ると、九条は決裁文言確認卓の前に立っていた。いつもどおり資料は少ない。少ないが、その少なさが今夜は削ったものの量に見えた。黒い卓上灯の下に決裁文面が一枚、補注が一枚、別添確認票が一枚。たったそれだけで、この数日の人と物と死の順番が整理されたふりをしている。


 真下は盤から手を離した。


「綺麗に見せると、また消えます」


「消しません」


「札を貼り替えるたびに、ここでは消したことになってきた」


 九条はすぐには返さなかった。返さないあいだに、盤面の奥で更新実務者が一人、使い終えた旧札を透明袋へ入れていた。袋の中には、剥がされた【局所障害】や【一時保留】が雑に重なっている。捨ててはいない。だが、今の盤からは確かに消えている。


「だから残します」


 九条がようやく言った。


「残す形でしか、今夜は持てません」


「その“残す形”が、また言い換えでしょう」


 真下は卓へ歩いた。決裁文面の上段には、整った字で骨格が並んでいた。


【港湾OS共同管理は運用枝に限り暫定継続】

【1945文書限定照合は継続するが、一般公開へは拡張しない】

【内陸物流補正枠・医療物流補助枠は執行へ移す】

【継承骨格・起動名簿欄は保全維持のまま次段整理へ付す】


 そこまでは分かっていた。分かっていることばかりが並んでいる。

 その下、一番最後の行へ視線を落とす。


【危機時に救済し得なかった個別不利益は、別途記録保全対象とする】


 真下はその一行を見たまま言った。


「これで済ませるんですか」


「済ませません」


「済ませないなら、なぜその言葉にするんです」


 九条は卓に手を置いた。指先だけが、いつもより少しだけ白い。


「救済と書けば、救えなかったものをまた踏みにじります。公開と書けば、今夜ここでは持ちません。補償と書けば、ここに載らない線が先に崩れます」


「だから“不利益”で流すんですか」


 真下の声が低くなる。


「死んだ人間も、止まった治療も、切られた便も、全部それで括るんですか」


「括っているんじゃない」


「括ってるでしょう」


 真下は一歩、卓へ寄った。


「名は出た。追及も始まった。予算も付いた。共同管理も戻らない形で継いだ。けど、順番だけはまた外に残る。ここまで来てもまだ、死んだ側のことを平らな国家語へ押し込むんですか」


 室内の空気が少し痩せた。更新実務者が盤の前で手を止めたが、顔は上げない。聞こえていないふりをするしかない立場の背中だった。


 九条は真下から目を逸らさなかった。


「平らにしない言葉を、今夜この札へ載せたら」


「載せたら何です」


「札そのものが持ちません」


「持つかどうかの話ばっかりだ」


 真下は言った。


「この国で一番よく残るのは、その言い方です。持たない、通らない、広がる、割れる。分かってる。そんなこと、もう分かってる」


 そこで真下は初めて、自分の声の底が少し荒れているのを聞いた。怒鳴ってはいない。怒鳴るより先に、胸の奥で長く擦れてきたものが、ようやく言葉の形を取りかけていた。


「でも、分かってても赦せないことがある」


 九条の眉がほんのわずかに動く。


「また、ここでも欄外へやるんですか」


 真下は続けた。


「神港でも、京都でも、公議院でも、全部そうだった。名は出す。幅は出す。最低限は通す。そのたびに、順番だけが外に残る。ここが最後でしょう。ここでも同じことをしたら、この国は何を守ったことになるんです」


 九条はその問いに、すぐには答えなかった。代わりに卓の端を押さえ、息を一度だけ整えた。整えてから言う声だった。


「割れないことです」


 短かった。


「この国が、ここで割れないことです」


 真下は笑わなかった。


「その言葉で、何人切ったと思ってるんです」


「数えています」


 九条の声もまた低い。平板ではあったが、今夜は平板であること自体が無理をしているのが分かった。


「あなたが思っている以上に」


「数えたなら、書いてください」


「何を」


「救えなかったと」


 真下は言った。


「救済し得なかったとか、個別不利益とか、そういう逃げでなく。救えなかったものがあると、ここに残してください」


 九条は決裁文へ視線を落とした。落としたまま動かない。

 真下はその沈黙に、初めて別のものを見た。拒否ではない。恐れに近いものだった。


「……書けば、残ります」


 九条が言った。


「残るものを、次が使います」


「使わせればいいでしょう」


「きれいな意味で使うとは限らない」


 そこで、九条の声が少しだけ掠れた。


「今ここで全部を剥がせば、今まだ助かっている線まで巻き込みます」


 真下は黙った。


「あなたは、そこをまだ信じていない」


「信じたくないだけです」


「同じです」


 九条は答えた。だがその言い方に、教える側の余裕はなかった。むしろ、自分に言い聞かせている声だった。


「じゃあ、また伏せるんですか」


「全部は出しません」


「全部じゃなくていい」


 真下の指が決裁文の最後の行を叩く。


「せめて、“無かったことにはしない”と言ってください」


 室内の奥で、更新実務者の端末が小さく鳴った。盤面更新の確認通知らしい。だが誰も見ない。いまは盤より卓の上の一行の方が重かった。


 九条はようやく椅子へ浅く腰を下ろした。座ってしまうと疲れが見える年齢ではないはずなのに、今夜は座る動作そのものに疲れが出た。


「真下さん」


「はい」


「あなたは、外へ出る人間にもなれた」


「なりません」


「なれたんです」


 九条は言った。


「いまここで席を蹴って、全部持って外へ出ることもできた。あなたはそれをしない」


「だから何です」


「だから、あなたはもう“怒るだけの人間”ではいられない」


 真下はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。


「そんなもの、なりたくてなったわけじゃない」


「知っています」


「国家の内側に残ったからって、赦したことにはならない」


「ええ」


「だったらせめて、傷が傷のまま残る言葉にしてくれ」


 九条は卓上の決裁文へ手を伸ばし、最後の一行の上に置かれた確認ペンを取った。取ったまま、書かない。


「どう変えれば、あなたは引きます」


「引きません」


 真下は即答した。


「引かない。でも、消されるよりはましな線にしたい」


 九条の口元がわずかに硬くなる。笑ったのではない。限界の近い人間が、皮肉を使う余裕もなくなった時のわずかな歪みだった。


「厄介ですね」


「今さらです」


 数秒だけ、誰も喋らなかった。

 その沈黙のあいだに、真下は自分がどこに立っているのかを嫌でも知る。ここで決裁文の最後の一行を押し込もうとしている自分は、もはやただ外から国家を憎んでいるだけの人間ではない。国家の中で、傷をどう残すかを交渉している。怒りは消えていない。だが、その怒りを文言へ変えようとしている時点で、自分もまたこの傷を次へ渡す側へ足を入れている。


 それが何より気に入らなかった。


 九条が、ようやく書いた。


 元の一行に、わずかな修正を加える。


【危機時に救済し得なかった個別不利益は、別途記録保全対象として継続確認に付す】


 真下はその文を読んだ。

 救済し得なかった。

 継続確認に付す。

 綺麗な言葉ではない。救済にも公開にもならない。だが、消えてはいない。


「弱いですね」


 真下は言った。


「ええ」


 九条が答える。


「弱いです」


「弱いまま残すんですか」


「今夜は、それしか残りません」


 真下はその紙から目を離さなかった。勝ったとは思わない。負けたとも言い切れない。だが、この一行が入ることで、少なくともこの国は「何も無かったこと」にまでは戻れない。


「確認に入ります」


 九条が言った。


 真下は返事をしなかった。

 返事をしないまま、確認卓の端末へ歩き、認証欄を開いた。


 画面に出る。


【最終判断文言確認】

【確認者 真下朔也】


 指が一瞬だけ止まる。

 ここで退けば、まだ外にいる顔でいられる。

 押せば、自分はもう、国家の傷を外から糾弾するだけの人間ではなく、その傷を残したまま次へ渡す側になる。


 嫌悪は、その瞬間がいちばん強かった。九条に対してではない。自分に対してだった。


 それでも、押した。


【確認】


 小さな音がして、決裁文言が確定欄へ移る。

 その瞬間、真下ははっきりと分かった。

 自分はもう、国の外でだけ怒る人間ではいられない。怒りを持ったまま、内側で傷を残す側へ固定されたのだ。


 盤の前で更新実務者が最後の札を貼り替える。

 新しい札は整っている。


【共同管理 暫定移行継続】

【限定照合 継続】

【継承骨格 保全維持】


 だが、下の剥がし跡は消えない。

 消えないまま、新しい札だけが増える。


 九条が立ち上がる。

 その顔は、勝った人間の顔ではなかった。ようやく座るのをやめられた人間の顔に近い。


「決裁に回します」


「はい」


 真下の返事は短かった。


 数分後、官邸内の短い確認回線が開いた。


『最終判断、確定』


 声はそれだけで切れた。

 万感を入れないための言い方だった。


 盤面下の更新欄に、新しい表示が出る。


【最終判断 確定】

【港湾OS共同管理 運用枝暫定継続】

【1945文書限定照合 継続】

【内陸物流補正枠・医療物流補助枠 執行移行】

【継承骨格・起動名簿欄 次段整理】

【危機時に救済し得なかった個別不利益 記録保全継続確認】


 更新実務者が透明袋に入った旧札を抱え直した。その袋の角から、剥がされた【局所障害】の札が少しだけ覗く。まだ捨てられていない。捨てられないまま、奥へ運ばれていく。


 真下が盤の前を離れようとした時、背後で小さな声がした。

 更新を見ていた若い政策実務者だった。誰に向けたのでもなく、だが隠しきれない声音で言う。


「これで終わりやない」


 別の実務者が低く返した。


「残ったもんは、また次で取りに来る」


 さらに、もう一人。


「次は、そこを伏せたままにはさせん」


 真下は振り返らなかった。

 振り返らなくても分かった。

 骨は残った。

 無傷では残らなかった。

 だから、終わりにはならない。


 盤面の新しい札の下に、剥がし跡がまだ残っている。

 その跡ごと、次へ渡される。


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