5
瓜生恵子は、そのとき、幸福を感じていた。
たとえ、それが眼の前にある現実から眼と意識を逸らした結果生じた幸福であったとしても、それでも、幸福を感じずにはいられなかった。
カーテンから洩れる朝の光で眼を覚ましたとき、すぐ隣で愛する男が眠っている。
彼女は、その男の腕を枕にして眠っていたのだ。そして、凝っと、眠りこける男の美貌を見ているときが、彼女を幸福にさせるのだった。
恵子は、子供のような寝顔で眠る男を起こさぬように、そっとベッドから這い出した。
全裸である。
二〇代の瑞々しい、張りのある綺麗な肢体つきをしていた。
小ぶりだが形の良い胸が、誇らしげにつんと上を向いている。
パンティをはき、ブラジャーを着けずに大きめのTシャツに袖を通す。
思わず欠伸が出た。
と、ベッドの中で、男――妖の寝言が聞こえてきた。何を言っているのかよくわからないが、むにゃむにゃと口を動かすと、また眠ってしまった。
そんな妖を見ていると、恵子は時折り不思議になる。
魔界貴族や妖魔を相手にしているときの妖と、ベッドの上で大の字になって眠りこける妖と、いったいどちらが本当の姿なのだろうか、と。
だが、そんなことはどうでもいいことなのだと気づいて、恵子は肩をすくめる。
そう、どちらの妖が本物だろうと関係のないことなのだ。
何故なら、妖はここにいる。
それで良い。
口許に笑みを浮かべて、恵子はかわいいお尻をこちらに向け、キッチンに向かった。
パンティとTシャツだけという少しはしたない格好だが、彼女はこれが気に入っていた。
何よりも楽な気分になれるのだ。
鼻歌を歌いながら朝食をつくる恵子は、もうそろそろ妖が起きる時間だな、と感じていた。しかし、時間が決まっているというわけではない。いつも先に恵子が起きて、朝食の準備を始める。すると、妖がベッドの上でむっくりと上体を起こすのだった。
今日もそうだった。
フライパンに卵を落としてハムエッグをつくっているとき、ジューッという焼けるいい音の向こうに、妖の欠伸を聞いた。
「おはよ、妖」
と、肩越しにニッコリ微笑むと、眠たげに眼をこする妖が、
「やあ」
と間の抜けた返事をした。
朝が遅くても良いということもまた、幸福なことかも知れない。
妖はベッドを抜け出し、寝室のカーテンを勢いよく開けた。
射し込んでくる光に、思わず端正な顔をしかめる。
すでに午前十時を十分ほどまわっていた。陽の光も徐々に鮮烈なものとなり、窓ガラスを通して室内を明るくさらけ出している。
その光を浴びながら、妖は、自分にもこんな生活が送れるようになったのだな、と照れ隠しに頭をかく。
そんな妖の後ろ姿を見て、恵子はくすくす笑っている。
とはいえ、思いは二人とも同じであった。
朝食が出来上がるまでの間、妖は洗顔を済ませると毎日の日課に向かった。
隣室には一台のパソコンが置かれてあった。これは、〝美槌〟のデータ・バンクであるスーパー・コンピュータに直結した端末の一つで、〝美槌〟の情報の全てが瞬時に呼び出せるようにセッティングされている。もちろん、やったのは妖だ。
〝美槌〟を脱退したとは言え、妖と恵子は魔界の勢力に対抗し得る力を持つ数少ない人間たちなのだ。〝美槌〟から完全につながりの糸が切れる筈がなく、また、妖たちも魔界のことを忘れられる筈がなかった。
魔界侯爵フェノメネウスは言った。
「お前は、魔界の裏切り者だ」
と。
人間として転生する際に、自分の記憶と本来の魔力を失ったというのだ。
そうなのかも知れない。
思い当たるふしはいくつもある。だから、なおのこと妖魔の動きが気になるのだ。
妖はキーボードを操作して、自分のパスワードを打ち込んだ。すると、〝美槌〟本部の決定事項が次々にモニターに表示されていく。
「――紀羅は、義親と一緒に会津か。それにしても、奴等、動き出すのが早すぎるな……」
妖がモニターを見つめながら、呟く。
近畿一円を破壊し尽くした、あの呪われた日から、まだ五日と経過していない。
それなのに、妖気異常渦動域が四つも認められ、刻々と育っているという。
それが何を意味しているか。
答えは簡単である。
魔空神王が、着実に目覚めつつあるのだ。
地球を包み込む妖気が増加しているからサタンが覚醒するのか、それとも、サタンが目覚めつつあるから、それに呼応して妖気が増すのか。
実際のところ、それは妖にも不明だ。しかし、これだけは言える。
人間が今のまま、暗黒の未来に怯え、他人を憎みながら生きていくのであれば、サタンの復活は近い。しかし、もし、自ら犯してきた永劫の罪を悔いるというのであれば、魔王の復活は遅らせることが出来る筈だ。
しかし、それでも決して大魔王復活がなくなることはないのだが。
如何に人類がそれを拒もうとしても、奴等が神との決戦を望んでいる限り、いつかは復活する。しかし、人々が自分たちの使命に覚醒し、他人を愛することの素晴らしさを知れば、魔王の復活を永遠に遅らせることが可能なのだ。
そのときこそ、悪魔は人類に敗北し、人は、神が己れとともに在ることを知るだろう。
神と悪魔の戦いは、本当は起こしてはならぬものなのだ。その勃発が、宇宙の破滅を導くことは明白だからである。
妖が、椅子の背もたれに背をあずけると、椅子が、ぎぃときしんだ。
今、妖が思うことは、そういうことなのだ。
あの一戦以来、妖は、自分の中で何かが動き始めていることに気づいていた。
自分本来の目的。
そういったものがあった――そこまでは思い出したのだ。しかし、それが何であったのか、今は霧がかかったかのように判然としないが、いずれはっきりと目の前に見えてくるだろう。
そう思っていた。
そのとき、ドアが三度、軽くノックされた。
「朝御飯、出来たよ」
ドアが開き、恵子が顔を覗かせる。
「ほーい。今、行くよ」
返事をして、立ち上がる。
パソコンのデータを保存して、シャットダウンさせる。そして、部屋を出た。
「――で、どうだったの?」
テーブルに向かい合わせに座り、遅い朝食、というか少し早い昼食を摂り始めるとすぐに、恵子がそう訊いて来た。
妖は、先程見ていたデータを大まかに話し始めた。
とある街で発見された、内臓だけの死体と首をねじ切られた男の死体。そして、近畿封魔陣に姿を現した不審な男――死人男爵ファレス。結界の破損と、日本の四つの異常霊気地帯についての報告。
「〝美槌〟では、その内臓の持ち主の肉体に、ファレスが宿っていると考えているらしい。ま、恐らくそうだろうけどね。それから、八天部を四つにわけて、異常霊気地帯にそれぞれ派遣することになったようだ。令維は北海道で、果宝は近畿だったかな」
妖がいま挙げた二つの名は、恵子が〝美槌〟にいた頃に訓練していた二人の少女の名だ。
令維は長い髪をした美少女で、果宝はショートカットのかわいい少女だったが、二人とも正反対の性格をしていた。令維が戦略的な戦いを好むのに対し、果宝はとにかく暴れるのが好きな性格であった。
「そう。――ねぇ、妖?」
うん? とみそ汁をすすりながら返事をする妖に、
「これから、私たち、どうなるのかしら」
と、恵子は問うた。
「わからんね。これだけは」
みそ汁のお椀を置いて、妖は話し始めた。
「魔王の復活が宿命となった今、魔界は徐々に大攻勢に出てくるだろう。そうなれば、世界中に無数にいるであろう、安田優子のような〝通廊〟、〝暗黒の塔〟を持った人々が覚醒を始めるだろう」
「〝美槌〟や世界の他の対妖魔組織では対抗できないのかしら?」
「出来るかも知れない。だが、もし、そういった人間を殺したとき、〝通廊〟や〝暗黒の塔〟が消えるかと言えば、そうじゃないと思う。逆に、その人の怨念までも吸い始めるだろう。それらを消滅させるには、その人を、人間の暖かいオーラで包む必要がある。しかし、問題は、それを出来る人が何人、この地球にいるかだ」
「ええ」
「だから、僕らのしなければならないことは、魔族復活の阻止は当然だけど、人を人として愛せる人を生み出すこと。それが、人の覚醒であり、地球を、宇宙を破滅から救えるただ一つの道だと思う」
「そうね。地球は、人間の手で守らなくっちゃね」
「そうだな」
答えながら、妖は思った。
悪魔が、人間を悪魔の侵攻から守る。
良いではないか。
俺は、恵子を愛している。ただ、それだけのために、闇の絶対覇者であるサタンを敵にまわす覚悟でいるのだ。
いや、すでに敵にまわしたのだ。
必ず、成し遂げてみせる。
「――なぁ、恵子」
妖が、食べ終わった食器を片づけ始めた恵子に声をかけた。
「ん、なあに?」
と、恵子が皿を洗いながら答える。
「いい天気だしさ、何処か出かけようか?」
「そうね。お買い物もしたいしね。――でも、召還命令が出るかもよ」
「それは、まだ無いだろうよ」
「どうして?」
「四天王の指揮権を無くしたとは言え、戦闘集団の実権を握っているのは、まだ星だ。奴がそう簡単に俺たちの召還に応じると思うかい? ぎりぎりまで八天部と獅天・光炎でがんばるだろうぜ」
「それもそうね」
恵子が、タオルで手を拭いながら答えた。
エプロンを外し、妖のそばに戻ってくる。
「それで、何処に行くの?」
新聞に眼をやる妖の顔を覗き込む。
「さて。あてもなくブラブラと」
「はいはい」
と笑うと、恵子は寝室に戻って着替えを始めた。そして三〇分後、二人は冬が経営する豪奢なマンションの七階にある一室をあとにしたのである。
時間は、前日の夕刻にまで遡行する。
場所は、例の空き地である。公園というわけではなく、住宅地の一角に取り残されたかのように存在する、鉄条網に囲まれた土地だ。
鉄条網には、一枚の汚い板がかかっていて、薄くなって見えにくいが、どうやら字が書かれているようだ。そして、その字は「立入禁止」と読めた。
その場所――こここそ、ファレスが見つけた「地上に出た魔界の一部」である呪われた土地。小林裕介の父親が死に、母親が床に伏す原因となった空き地である。
今、その空き地に何人かの少年少女が入り込んでいた。彼等にとって、大人たちの恐れる呪いと災いなど、とるに足らぬものだったのである。だから、何のためらいもなく入ることが出来た。
ちょうど、悪意の蛇がいたあたり――住宅のブロック塀のそばに、今、一人の少年が立っていた。見るからにひ弱そうな体つきをして少年である。
その少年を囲むようにして三人の少年と一人の少女が立っている。
四人はいずれも髪を茶色に染め、ピアスをいくつもつけている。
薬でもやっているのか、目つきが何処かおかしかった。
そして、囲まれている少年よりも、囲んでいる四人の方が頭一つ分くらい高い。
少年が、子犬のように怯えきった眼で、自分を取り囲む少年たちを見上げている。
どうやら、追いつめられているらしい。
「裕介よぉ」
一番大柄な少年が、ガムをくちゃくちゃやりながら嗤う。
裕介、と呼ばれた少年の身体が、びくっと奮える。
「何で、逃げるんだぁ?」
「あたしたちが、恐いのかい?」
少女が煙草を口から離すと、紫煙を少年の顔に吐きかけた。
少年が思わず咳き込む。
「そんなこたぁ、ねえよなぁ」
ひょろりと背の高い少年が、く、くと笑う。
その眼はナイフのように鋭い光を宿している。危険な、狂犬のような眼光だ。
「まあいいや。恐かろうと恐くなかろうと一緒さ。あんなに露骨に逃げりゃあよ」
少し太った少年が、飛び出しナイフを構えて裕介を威嚇する。
「そ、そんな――」
と裕介が震える声で言い返そうとしたとき、陽が沈み暗くなりかけた草の上を、ひょろりと背の高い少年がいきなり動いた。
拳は少年の左の頬に当たり、裕介の後頭部がブロック塀に激突し、ごつんと音を立てた。
次に、腹に鈍い音を立てて拳がめり込む。
「げっ」
と、踏み潰された蛙のような声を上げて、裕介が前のめりになる。中学生の力とはいえ、憎しみにも似た念を帯びたパンチは、大学生か大人のそれと同等の力があった。
それを顔や腹だけでなく、身体の至る所に受ける側にとっては、それはたまらない衝撃であった。しかも男だけでなく、女にも殴られるのだ。それに伴う精神的ショックは、身体のそれを遙かに上回っていた。
くの字に折れ曲がった少年の顔目がけ、白い足が浮かび上がってくる。
少女の膝が裕介の鼻の軟骨を潰す。
めぢっという音がして、鼻血が少女の足に散った。
「汚いわねぇ」
嗤いながら、少女が、膝についた血を少年の顔になすりつける。
裕介の顔が、血で真っ赤になった。
裕介は、視界がぐるぐる回り、やがて暗転するのを感じた
少年の身体が、支えを失ったように倒れていく。ほとんど気を失いかけていた。
「まだ、眠らせねぇよ!」
ナイフを持った少年の爪先が、裕介の脇腹に吸い込まれる。その激痛が、失いかけていた少年の精神を引き戻し、再び痛みにのたうち回らせたのである。
「ぐはっ!?」
昼に食った給食の残滓が、胃液とともに逆流し、鼻孔と口腔よりあふれ出た。
せせら笑う声が、谺のように耳に聞こえてくる。涙が、いつしか流れていることに、ようやく気がついた。何故、こんな目に遭うのか。自分は何者なのか……。
「ど…どうして、こんなめに――」
地面に横たわり、腹を抱え、身体を丸めながら泣き声で少年が言う。
「どうしてだと? 理由はねえよ。ただ殴りたいから殴る。それだけさ」
「そんな――ゲッ!?」
すかさず、リーダーらしき大柄な少年の蹴りが脇腹に入った。蹴るたびに裕介が上げる声がおもしろいのか、何度も上げさせようと蹴り続けた。
しかし、それでももう上げることがないとわかると、少年たちはようやく蹴るのをやめた。
裕介が、地面に生えた雑草を握りしめ、歯を食いしばっているのを見たからだ。
「ちっ。おもしろくねぇな。――さて、どうする?」
「武雄、脱がしてみようか?」
と、ナイフを弄びながら少年が言う。
「やだな」
少女が顔を赤らめて言うが、口許には邪悪な笑みが浮かんでいた。
「それいいね。誠一、やれよ」
「あいよ」
そう答えて、誠一がナイフをちらつかせながら、地に伏せる裕介に近づいていった。
「や、やめろ!」
手足を鳥のようにばたつかせて、必死に抵抗する裕介を、ひょろりと背の高い少年と二人で仰向けにして、誠一は裕介を押さえつけた。
「やめろ!」
「おっ。こいつ、俺たちに命令しやがったぜ」
「生意気な野郎だな」
くく、とリーダー格の少年、武雄が嗤いながら、裕介の頬を殴りつけた。すると、止まりかけていた鼻血が再び流れ出し、頬を伝って地面に滴り落ちた。
口の中にも、錆びた味が広がって、裕介は吐きそうになった。どうやら、粘膜を傷つけたらしい。
「もう、あきらめなよ」
少女が煙草の煙を吐きかけてくる。
裕介が咳き込む間にも、少年の衣服はナイフに切り刻まれ、また、脱がされていく。
少女の手がベルトを外し、慣れた手つきでズボンを下げていく。
そして、美しい少女の手によって、自分の下半身がさらけ出されたとき、裕介は羞恥のあまり気が遠くなった。
少年たちの下卑た声が遠くに聞こえる。
少女の、好奇心をむき出しにした嘲笑が、それに混じって聞こえてくる。
何故、狂わぬのか。
こんな、地獄のような目に遭って、何故、正気でいられるのか。
狂ってしまえれば、楽になれるのに…。
狂え、狂ってしまえ!
そして、気を失った。
悪夢のような現実にはもう戻りたくはなかった。
しかし、覚醒はやって来た。
眼を開けたとき、足は地についていなかった。空き地の隅にひっそりと立つ広葉樹の枝に、両手首をベルトで縛られて吊されていたのである。無論、一糸まとわぬ裸のままだ。
すでに、とっぷりと陽は暮れていた。
少年の性器が、恥ずかしさのあまり、ようやく生え始めた陰毛の中に埋もれそうになっている。
少年は、不意にくやしくなった。
服が、下着もろとも足許で燃やされたことを知ったからだ。
涙が出てきた。
怒りと憎悪とが激しい炎となって、裕介の心の裡で燃え上がろうとしている。
全てが憎かった。
何もかもが許せなかった。
どうして自分だけが……!
神よ! 何故、僕だけをこんな目に遭わせるのか!
何故、誰一人助けてくれないのか。
住宅地の中にあるのだから、誰も通らぬ筈がない。
このまま、朝まで吊られているのだろうか。
「ちくしょう…」
涙まじりに裕介が洩らしたとき、すぐそばから少年の声がした。
「なあ、下に降ろしたろか?」
関西弁だった。




