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怨念の異形神  作者: 神月裕二
第1章 胎動
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6

 血にまみれた顔を上げ、腫れて見えにくくなった眼で、裕介は声の主を捜した。

 すぐに見つかった。

 声の主であろうと思われる、少女のようにかわいらしい少年が、すぐ頭上の枝に、いつの間にか座っていたのである。

 裕介は、羞恥で顔が赤くなるのを感じた。

「返事ぐらいしたらどないやねん」

「お、おろしてくれよ」

 うつむいて、消え入りそうな声で言った。

 鞘鳴りを聞いた気がした。

 途端、裕介の身体は落下した。

「いてっ!?」

 と、固い地面に尻餅をつく裕介の前に、長い髪をした褐色の肌の美少年が舞い降りる。

 〝美槌〟八天部の一人にして、妖の愛弟子である少年――紀羅である。

 裕介は、吊られていたベルトが、ナイフか何かで切断されているのを見たあと、

「き、君は…?」

 と、怯えた口調で訊いた。

「誰でもいいやんか。それよりも風邪ひくで。これでも着ときぃな」

 とベージュ色のサマージャケットを投げてよこした。

「あ…ありがとう」

 裕介がそう小さな声で言ったのは、ジャケットに袖を通し終えてからであった。

 少しだが落ち着いたのか、裕介は、ふぅっと溜め息をついた。

 すると、新たな疑惑が持ち上がってくる。

 こいつは、いつから自分の醜態を見ていたのか。何故、今頃になって助けたのか。

「…いつから、あそこにいたんだ?」

「ずっとや。木の上で寝るんは気持ちいいもんやで」

「じゃあ、ずっと見ていたのか…」

「まぁな。下がえらい騒がしなったからなぁ。せやけど、やられっぱなしやったなぁ」

 と紀羅が軽く言った最後の一言が、裕介の耳には嘲笑の言葉に聞こえていた。

 紀羅が、ニッと笑っている。

 嘲笑いやがって…。

「何で、(なん)もやり返さへんかってん」

「う、うるさい!」

 突然、裕介が大声を張り上げたので、紀羅はびっくりしてしまった。

「何にも知らないくせに! 何も知らない人間に口を出される覚えなんかない!」

「ふん。弱い人間に出来る唯一の仕返し――やつあたり、やな」

「うるさい!」

 顔を真っ赤にして怒ると、裕介はぷいっと背中を紀羅に向けて、空き地の鉄条網に空いた穴をくぐって走り去っていった。

「なんやねん、あいつ」

 ぼやいて、紀羅は肩をすくめた。

 呆れ返ってしまったのだ。

 そのとき、紀羅は、前方からいくつもの気配がやってくるのを察知した。

 街灯のほのかな明かりの下にそいつらが姿を現した瞬間、凄まじい殺意の波動が膨れ上がった。

 だがその波動も、妖魔の放つそれに比べれば、赤子のそれに等しいものではあったが。

 しかし、普通の人間のレベルを遙かに超えて、それに近づきつつあったことも確かだ。

 あの少年――裕介にいわれなき暴行を加えていた少年たちが、再び戻ってきたのである。

「おい、てめえ」

 殺気のこもった声が先ずかけられるのもセオリー通りなら、少年たちの行動はいずれもそれに則っていた。

 紀羅は、平然として向かい合った。

 対妖魔戦闘訓練を受けて育った少年だ。相手が人間なら、ヤクザを数十人相手にしたところで、恐れなど毫も感じはしない。

「なんや?」

 そう聞き返す少年の眼が、不敵な光を帯びている。

 口許には、あるがなしかの笑みをたたえて。

「い、今…あいつを逃がしただろ?」

 武雄は凄みをきかせて言ったが、紀羅の平然とした態度にとまどい、その眼光に気圧されてしまったのか、やや落ち着きを失っていた。

「あいつ? ああ、逃がしたけど、それがどないしたんや?」

「いちいち頭に来る野郎だな。ぶん殴られたいのか?」

「はあ?」

 紀羅は、何のことかさっぱりわからんという風なジェスチャーをした。

 それが気に障ったのか、とうとう武雄は、顔を真っ赤にして喚いた。

「てめえは! 俺たちの獲物を横奪()りしやがったんだよ!」

「それで?」

 紀羅の声が、氷のような冷たさで、少年たちの耳の中に流れ込んだ。

「だから、ひひ、お前がかわりに獲物になれ、といってるんだよ」

 ナイフを持った誠一が、狂った目つきで紀羅を見つめている。彼には、少年が、この上なく美しい獲物に見えているのかも知れない。

「言いたいことは、それだけか?」

 紀羅が、抑揚のない声で言う。

 目がすわりかけている。

 彼等が、あの少年のことを獲物と呼び、今また自分のことをそう呼んだ事実が許せないのだ。一人の人間の尊厳と誇りを傷つけ、奪い去った罪は大きい。

 紀羅は、常に妖から教えられていた。

 (ひと)人間(ひと)と思わぬ輩には、しかるべき罰を与える必要がある。そんな奴等に出会ったら、事情をよく理解した後で、容赦なく殴ってやるといい。そういった奴等は、自分が一番強く、偉いと勘違いしている馬鹿者どもだ。

 ただし、妖魔からはそいつらも救うんだぞ。

「――!?」

 少年たちが愕然となったのは、少しは怯えてもいい筈の紀羅が、ニッと笑ったからである。

 その瞬間、少年たちの怒りは心頭に達した。

 同時に、底知れぬ恐怖を感じていた。

 なんだ、こいつ!?

 その恐怖を認めたくないための怒りであった。

 完全に逆上していた。

「な、殴り殺されても、文句は言うなよ!」

 ヤクザ顔負けの怒号を放って、武雄が突っかけた。もし紀羅が、その殺気に気圧されて一歩下がっていたら、少年の綺麗な顔は間違いなく血に染まっていたろう。

 如何に技術のない喧嘩殺法といえども、相手を半殺しに出来るのは容易と思われた。

 しかし、勝負は一瞬だった。

 もの凄いスピードで繰り出されるブロウをたやすく躱して、紀羅は妖仕込みのコーク・スクリューを無意識に放っていた。

 腹に打ち込まれてうずくまる武雄を見て、紀羅は心の中で、しまったと叫んでいた。

 八天部は今なお星の命令を受けて行動している。今度も一般人とのトラブルは出来る限り避けるように言われていたのだった。

 それを、紀羅は今までコロッと忘れていたのである。しかし、同じ人間として、武雄たちの行為が許せなかったのも事実だ。

 とにかく、これ以上のトラブルは今は避けるべきだった。

 そう思ったから、地面に頽れた武雄を飛び越えて誠一らが突っかけてきたとき、紀羅は自慢の足を充分に活かして、少年らの頭上をさらに飛び越えて一目散に走り去ったのだった。

「武雄…大丈夫?」

 少女が、心配そうに駆け寄ってくる。

 このとき、二人の少年は鉄条網の外にまで飛び出して、紀羅の姿を探していた。

「あのガキ…ぶっ殺してやる…」

 少女の心配そうな視線を受けつつ起き上がった武雄は、鬼の如き形相で、唸るような声で怨念の塊を吐き出していた。

 ファレスは、それを自身の結界の中から、ほくそ笑みながら見ていた。

「おもしろいことになったな。〝美槌〟のガキが、こんな形で怨念のエネルギーを増してくれるとはな」

 ファレスは、醜怪な小鬼の屍が重なりあって出来た椅子に腰掛けて、地上の様子を霊視していた。

「怨念のエネルギーは、これで増加し続けるだろう。あとは人間どもが勝手にあの少年の蛇を育てていく。もはや、この街も終わりだな」

 ファレスが足を組みかえると、屍と思われていた小鬼たちが呻き声を上げた。

 この小鬼どもは、魔界の中で最も地上に近い第十層の住人だったが、三百年前にファレスに反抗したため、全身をズタズタに切り刻まれてしまったのである。だが、死してなお魂は身体から離れることがなく、生きた死体と化しているのだった。

「人間どもは、まだ我等の存在を認識していない。そればかりか、時が経つにつれて怨念と憎悪を増しつつある。貴様等のその愚行が魔空神王サタンの覚醒につながることを知るがいい。もはや、人間どもに滅亡以外の路はないのだ」

 ファレスの、それは黒き予言であった。


 会津盆地の妖気渦動量は、徐々に増加の傾向をたどっている。

 すでに、会津の地に入っている紀羅と義親の報告からでも、それはわかる。

 霊道を抜けて街に入った途端、冷気ともとれる凄まじい妖気が二人の背筋に疾ったという。それからあとの義親からの報告では、住民たちにすでに妖気を浴びた影響が現れている事実があるらしい。

 簡単に言えば、誰もがピリピリしているという。それは神経質といえる程度のものから、すぐにケンカ腰になり、ほんの些細なことから殺人が起こることもあった。この数日で、この街は会津一の犯罪都市になりつつあったのである。

 小林裕介がその敏感すぎる感受性で感じ取っていた、人々の心の底にある悪意もこれに関係しているのかも知れないが、このことにはまだ誰も気がついていない。そう、死人男爵以外は。

「――ふむ」

 星が、溜め息をついてソファの背もたれに背を預けた。

 紀羅が、一般人に手を出したという報告を受けて、呆れてしまっているのだ。

「まったく、妖といい紀羅といい、どうもあの二人は問題を起こしたがる性格のようだな」

 そうぼやくように言ったのは、〝美槌〟本部に設けられた彼専用の部屋の中であった。

 ブランデーの入ったグラスを揺らしている。

 眼の高さにグラスをかかげ、琥珀色の液体を見つめる星のそばに、美しい女性が立っている。

 その報告を伝えにきた希である。

「――それと、天たちが石板の間へ集合するように、と」

「酒を飲む暇もないか」

 薄笑いを浮かべて言う。

「そう言わないで下さい、星。あなたらしくありませんよ」

「ふ。わかっている。今はまだ雌伏の時だ。必ず野望を実現してみせる」

 後半部分は独言に近かったので、希には聞こえなかったようだ。

 星はブランデーを飲まずにグラスをテーブルに置き、立ち上がった。

「――行こう」

 星は、希を伴って部屋を出た。

 そして、虚空に開けた霊道を抜けて、石板の間に足を踏み入れたのである。

 そこには、すでに彼等以外の八導師が集合していた。全員、すでに希からの報告を聞いており、それに対する次の行動を話し合おうというのだ。

「――では、死人男爵ファレスの、いや、魔界の次の標的地は会津と見て良いのだな?」

「はい、天。この妖気上昇率は異常です。先ず間違いなく、会津が狙われています」

「ふむ。――しかし、何故会津なのぢゃ?」

 冬が呟くように言う。

 それは、人間たちがいくら考えても答えの見つからない疑問だった。

 魔界の意思なのか?

 それとも、罪深き人間どもを滅ぼさんとする「大いなる計画」なのか?

「まぁ良いわ。――それより、紀羅たちがファレスと遭遇したという報告は?」

「まだ、そういう報告は入っておりませんが」

「――では、結界でも張って、紀羅たちの行動を見ているということも考えられるな」

 恵が、ふむと頷いてそう言った。

「恐らく、そうじゃろうな。――で、諸君、どうする?」

 天が、皺だらけの顔で八導師を見まわす。

「八天部を集結させるか?」

 星に向かって言う。

 しかし、星から返ってきた答えは、八導師にとって意外なものであった。

「それは、しばし待っていただけますか?」

「何故かね?」

 と、荘が訊く。

「考えてもみて下さい。他の六人を派遣した地点でも、いまだに妖気は渦動中です。完全に監視の目から離れてしまったら、その地点がどうなるかわからないのですよ」

「しかし、会津はどうする? 二人だけでファレスの相手など出来はせんぞ」

「わかっています。ですから、獅天と光炎にすぐに出られるように準備はさせてありますから、決定的になるまで八天部の集結は待っていただきたいのです」

「何か起こってからでは遅いのだぞ」

 荘が厳しい眼を星に向ける。

「無論そうです。しかし、他の三点も何が起きるのかわからないのですよ」

「それもそうぢゃな」

 と、二人の会話を遮るようにして険悪なムードを断ち切ったのは、冬であった。

 が、彼女とて、星の考えに完全に同意したというわけではない。

 この辺りで切り上げねば、八導師間に走った精神的な亀裂はますますひどいものになってしまうと考えたからである。

 秘密結社〝美槌〟が世界の裏側でトップに位置して以来、最も恐れねばならないのは〝美槌〟の組織的崩壊である。

 これは、全世界の対妖魔組織に多大な影響を及ぼし、ダメージをすら残してしまうであろう。そうして、精神的な支えを失った人類に勝利はないのだ。

 遙か昔より連綿と受け継がれてきた中国の五行思想や気功、密教などの退魔法ならともかく、アメリカなどで開発され、秘密裡に発展しつつある対妖魔兵器などでは、中級妖魔にさえ勝てはしないだろう。

 物質主義に凝り固まった人類が、物質など何の支えにもならぬばかりか、逆に人の心を腐敗させるものでしかないと知ったとき、人間は精神に回帰する。

 人類をして如何に精神を上昇せしめるか。

 それは念動力などといった超能力の会得ということではない。

 ある意味ではそれも包含するのだろうが、究極的には「ものの考え方自体の変遷」ということであろう。

 悪魔とは、人間の心に内在する根源的な恐怖の対象である。それに打ち克つには、人間が精神的に強く、優しくならねばならない。

 人の革新、心の高次元化が、それである。

 つまり、この世紀末に至って、ようやく人間が進化する時が来たということだ。それを率先して行うべき集団が、このようにいがみ合っていては、人類の革新など起こり得る筈がなかった。

 冬は、それを想像することが最も嫌なのだ。

 それは誰しも同じ筈である。

 人類が死滅し、異様な化け物が大地を跋扈し、魔空神王サタンが支配する世界を、神が死んだ世界を見たい者などいる筈がない。

 そこは、希望のかけらすらない世界なのだから。


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