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夕方近くであった。
真っ赤な円盤が西の山脈に沈みゆかんとする頃、そいつはこの街にやってきた。
吾妻山・飯豊山地・越後山脈に囲まれ、東方に猪苗代湖を臨む会津盆地の小さな街は、見事な夕焼けにその全身を赤く染められていた。その赤を、人間の流す血の赤に変えようとする者がいる。
そいつは、手に小さな、水晶で出来た瓶を持っていた。どうやら内部に何らかの液体が入っているらしい。
そいつの名は、ファレス。
魔神ベリアル麾下の魔人にして、死人男爵の称号を持つ恐るべき男。
四日前の戦いで片腕を失いながらも、玲花たち三人を翻弄した魔人である。
近畿地方に張り巡らされた結界を容易に破ったファレスであったが、より厳重になった警戒網を、どのように突破してここまでやって来たのか。
答えは簡単である。魔界侯爵のいた魔空間と地上とでは時間の流れが一様ではないのだ。
だから、警備員が死に、阿難と果宝が霊道を通ってやって来るまでの数分間に、魔空間では地上時間で言うところの約一時間が経過していたのである。
その間にファレスは侯爵のもとに赴き、行動を開始する旨を告げたあと、次に解き放つ魔を準備していたのである。
その魔〝ロゲス〟は、魔界の言葉で「混沌。またはそれをもたらすもの」を意味し、今は、ファレスの持つ水晶の小瓶の中にいる。
魔界の混沌の地にいたものを封じ込めてきたのである。そうした全ての作業を終えて結界の外に出た直後、警備員の死体が発見されたのである。
つまり、〝美槌〟はとんでもない魔を、少なくとも二匹は地上に出してしまったことになる。
しかも、そのことに今のところ気づいている者はいない。
そして今、死人男爵ファレスが降り立った場所は、建て売り住宅地の密集する地域の一画であった。
そこは、何故か空き地であった。
そこだけが、まるで忘れ去られたように住宅がなく、鉄条網で囲まれた空き地は、雑草が思いのまま伸びるに任せ、人が足を踏み入れることを拒否していた。
この土地が、住宅を建てるのに最適な位置にあるにもかかわらず、このような有り様になっているのは、何も本当に忘れ去られているからではない。
そこに家を建てようとすると必ず怪我人が出て、ひどいときには死人まで出るからだ。
最初は、突き出た釘に腕を引っかけるか、足を突き刺すかで、その人の不注意と業者の安全管理が問題になった。
それが、今から九年前のことである。
それから、年を経るごとに鉄筋が落下して人が死んだとか、工事の責任者が変死したとかと事故が続き、やがて誰もそこに家を建てようとはしなくなった。
もちろん、地鎮祭は幾度となく行われたが、全く効き目はなかったらしい。
それ以上の悪霊がそこに棲みついているのか、それともすでに儀礼的なものになってしまっている地鎮祭では、弱い悪霊ですら払うことが出来ないのか。
恐らく、そのどちらも正解であろう。
精神よりも物質に執着することは、地上が魔界に近づきつつあることを意味する。そして、地上に無神論者や悪魔崇拝者がはびこったとき、神は敗北する。
そうなれば、もはや人類に希望はない。
ファレスがそのような地点を選んだのも、悪魔として当然のことであった。
そこに、彼の探していたものが存在していたのである。
空き地の片隅に、それは黒々ととぐろを巻いてわだかまっていた。
怨念と憎悪、くやしさの昏い炎を宿した蛇――マイナス・エネルギーの塊は、しばしば蛇の形を取って人に害を及ぼすことがある。
何故、蛇の形を取るのか判然とはしないのであるが、ある神秘学者の説によれば、蛇とは聖書にもある通り、サタンの別称である「旧き蛇」または「龍」にもつながり、それが人の怨念をして蛇の姿形をとらしむる原因となるのではないかという。
とにかく、この蛇になるにはかなり強力なエネルギーが必要であり、また、そうなればかなり高密度な塊になるので、弱い霊能力者であってもそのぼんやりとした存在程度は感じ取れる筈だ。
ましてや、ファレスは魔界の住人である。
この蛇の本質――誰の、どのような怨念かまで見抜くことが出来た。
蛇の持ち主は、この辺りに住み、近くの中学校の第三学年に在籍している小林裕介という少年であった。
成績は良くも悪くもない。
性格はおっとりしていて口数が少なく、はっきり言って他人に与える印象は薄かった。
要するに存在感のない少年なのである。
そして、少年には両親がいない。
ここで、死んだのだ。
父親は、この空き地に住宅を建てようとしていた。しかし、完成も間近なある曇りの日のことだ。何かの拍子で瓦がずれたのだろう。下から設計図を手に見上げる父親の頭上に、いっせいに十枚近い瓦が落下してきたのだ。
少年とは正反対に度胸のある男ではあったが、このときは金縛りにあったかのように動けず、瓦の直撃を頭部に受けて、頭蓋骨陥没で死亡した。
母親が死んだのは、それから数日後のことだ。美しく、気丈な女性であったが、夫の突然の死にはやはり相当なショックを受けたのだろう。葬式を終えた直後に心労から床に伏してしまい、そのまま永眠した。
裕介の性格は、どうやらこの日を境に一変したようだ。とにかく、閉鎖的な少年になったのである。そのことを裕介のお婆ちゃんは気に病み、何とかしようと試みたが、少年は再びあの笑顔を取り戻すことはなかった。
それから何年か経って、そのお婆ちゃんも八〇という年齢と少年への気遣いから床に伏すことが多くなった。
裕介は、ふと思ったことがある。
自分のまわりに、何かくろぐろとしたもの――それは悪意の想念流であったかも知れぬものが感じられるようになったのは、いつの頃からであったろうか。
確かに、隣近所の住人は、今どきの人には珍しいくらい親切に裕介たちの世話をしてくれる。しかし、裕介には、その底辺に暗いものが流れているとしか思われて仕方ないのだった。
そのくらい想念が形となってあふれ出したのが、同じ中学校に通う不良グループからの連日の私刑である。
何の根拠もない暴力であった。あるいは学校のトイレで、あるいは体育館裏で、あるいは両親の死んだ原因になった空き地で、殴られ蹴られ、とにかく狂ったように裕介に暴力を振るい続けるのだ。何度か、気を失っても水をかけられて起こされ、また殴られたことがある。
この私刑の時だけは、まわりの者全てが敵になる。何故なら、その不良どもの親が、この街を動かしていく地位にある権力者たちであり、金持ちであったからだ。
彼等は戦争やバブル経済で成り上がった成金育ちではないから、それなりに頭の使い方を知っている。しかし、江戸時代以前より続く血統も、子供には優しいという一点で崩れつつあることに気づいていない。
誰が何を言っても無駄だったので、まわりの「賢明な」人々は傍観を決め込んだのである。下手に口や手を出して矛先がこちらに向かれては困るからだ。しかし、裕介にとってこれほどたまらないことはなかった。
中学に入ったその日から、この世の地獄は始まったのである。
今、裕介の心には、全ての者に対する憎しみと怒りがあった。そして、同時に、何もできない自分への憎悪と怒りがあった。
ファレスは、空き地に踏み込んだ途端、この土地が何故に、これほど不浄であるのかを悟っていた。
人間どもに除霊が出来ぬのも道理。ここは、地上に出た彼等、悪魔の土地であったのだ。つまり、何らかの次元変動の所為で、自然に生じた魔界との通廊が、ここには開いていたのである。
この街に流れる全ての悪意は虚空を流れ、やがてこの地に集まってくる。
ここには闇があった。そして人々の悪意を集めてまわる〝暗黒の塔〟もいた。
ファレスが、にぃと嗤う。
そう、小林裕介もまた、魔空神王サタン復活のため、あらゆる因果律をねじ曲げられて生まれて来た存在だったのだ!
裕介に暴力を振るう少年たちは、何故自分がこれほどまでに彼に暴力を振るっているのかわかっていない筈だ。では何故、暴力を振るうのか。それは、裕介の体内に四次元的に存在する暗黒の塔が、それを為さしめているのだ。それによって怨念や憎悪のエネルギーが生まれ、蛇を大きく育ててゆく。
すでに、大魔王復活の引き金は絞られていたのだ。
裕介は、己が身と家に降りかかる呪いと災いとを導いていくのが自分とは知らず、これまで成長を続けてきた。
今や、蛇も充分な大きさに育った。
ファレスの計画を実行に移す良い機会が到来したのである。
「弱く脆い少年よ、お前に力を与えてやろう。人間には余りある強大な力をな」
冷笑を浮かべると、ファレスはその場に片膝をついた。
と、彼の目の前で、悪意の蛇が鎌首をもたげる。
蛇は、昏い炎を宿した双眸で、凝っと死人男爵を見つめている。
その鼻先に、ファレスはスッと水晶の小瓶を差し出したのである。
「お前の飼い主の所へ持っていけ。これを飲めば、お前も飼い主も強くなれるぞ」
ファレスの手から小瓶が離れた。
蛇の真上から落としたのである。
小瓶は、音もなく蛇の体内に吸い込まれた。
もとより、この蛇は悪想念の塊であって実体ではないのだから、小瓶が蛇を通り抜けて地面で砕けても不思議ではない。
しかし、蛇の輪郭がぼやけ、やがて拡散したとき、蛇のいた下生えの間に小瓶が残らなかったのは何故か。
小瓶は、蛇の体内に吸い込まれた瞬間、小林裕介のもとへ転送されたのである。
今日中に彼の手許に渡る筈だ。
蛇も、今は彼の心の内側へ戻りつつある。
エサとなる、新たな悪想念をもらうためである。
「ククク。はやく大きくなれよ。今、人間界はもの凄い量の悪意の念に満ち満ちている。これだけあれば、ロゲスの成長スピードも相当のものになるだろう。この盆地なら、一週間もあれば喰らいつくせるな」
ファレスは、蛇が通った痕を霊域に見つけ出した。
今もなお、くろぐろとしたものが彼方に見える。少年の心に戻りつつある怨念の蛇の姿だ。
ファレスは、その先に小林裕介の家を霊視した。
悪意の渦が見える。
屋根の上で、猛烈な勢いで眼に見えぬ暗黒の渦が稼働しているのを視て、ファレスは満足そうに嗤った。
この家こそ、新たな地獄の拠点にふさわしい。
人々の吐き出す悪念は、巨大な流れとなって、少年の心に流れ込むのを休むことがなかった。




