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凄まじい気の爆発であった。
ウニ頭のナイフを躱した瞬間、そいつの袖口から噴き出す光を、義親は見た。
チェーンだ。自転車のチェーンがギラギラと光って、義親に伸びてきたのである。
「――!?」
ナイフの刃が、アイス・ピックの尖端が虚空を裂き、チェーンが唸りを上げて義親の残像を破壊した。そう、残像である。
そのとき義親は、一瞬前までいた地点からさらに十メートルほど後退していた。
「逃げるのか? あれだけ馬鹿にしておいて」
少年たちの精神はすでに怒りに縛られており、義親がただの人間ではないことに気づいていない。
三つの鬼相が義親を睨みつけている。
眼が吊り上がり、血走っていた。
義親は逃げたのではなかった。
手にした棍棒を使用するための間合いを取ったのである。
声もなく見守る主婦らの注視の中、義親のかざした右手の中で棍棒が回り始めた。
ゆっくりと…やがて、風を唸らせるほどの高速に…。
「全く。付き合いきれん」
義親が静かに言った。
その一言が、少年たちをその場に釘づけた。
恐怖に足がすくんで動けない。自分たちは、追いつめられた獲物で、相手は最強の狩人だ。
逃げられない。
待つのは、死だけだ。
そう思わせるほどのオーラが、義親から放たれていた。
そして、空気を巻いて、棍棒が大地に向けて叩き下ろされたのである。
凄まじい震動が大気と大地を襲う。だが、それは物理的なものではなく、精神的なもの――つまり一種の心霊攻撃であった。
だから、揺れたと人は錯覚するのだ。事実、その場にいた義親以外の人間は皆、地面に這いつくばり、恐怖の声を上げていた。地震だと思ったのである。
このときすでに、人にとり憑いた霊や悪想念は、棍棒より放たれた霊気を浴びて完全に消滅していた。
即ち〝祓え〟である。
義親は一息つくと、人々がまだ放心状態にあるうちに、その場から姿を消していた。
人々が自分の愚行に気づけば、自らの手で浄化できるようになる。その能力は、人々が元来持っていたものなのだ。
しかし、人は長い歴史の中でその能力を忘れ、物質文明に囲まれて退化してきた。進歩したと思うのは人の勘違いなのだ。
だから、人間の革新は、もとの状態に戻るところから始まるのだ、と妖が言っているのを義親は聞いたことがある。そのために人は覚醒し、自分の使命を見出し、大いなる自然と一体化する必要があるのだ。先ず進化革新するのではなく、回帰するところから、人の革新は始まるのだった。
人々が、早くそのことに気づくことを義親は心の底から祈っていた。
人を見捨てるのはまだ早いと思っていたからだ。
義親が姿を消してから数秒後、人々はいっせいに我に返った。そのとき最初に感じたのは、これまでに感じたことのない程の心地よさであったという。
何か、くろぐろとした不快なものが腹腔から消え去り、すがすがしい気分になったとも言った。
なんだか、悪夢を見ていたようだよ……。
ひどい肩こりがとれた人もいた。
今まで歩けなかった老人が、突然歩けるようになったと飛び跳ねて喜んでいた。
生まれつき口が利けなかった子供が「お母さん」と呼び、末期ガン患者が死の淵から生還したという報告もあった。
これが悪想念を取り除かれた人々に起きた〝奇蹟〟の一部だった。
そして人々は、心の持ちよう一つで全てが変化し、奇蹟さえ生じるのだということを知った。
その認識こそ、回帰の第一歩となる。
小林裕介は、校門を入った途端にある少女に呼び止められていた。
少年と同じクラスの学級委員長をつとめる高田亜樹である。
裕介は、彼女に密かに思いを寄せているのだが、どうやらそのことに彼女は気づいてはいないようだ。
普段から無口な裕介は、亜樹の前に立つと何も言えなくなり、顔が真っ赤になってしまうのだった。
「また少し顔が腫れてるわよ。また殴られちゃったの、小林君」
「う…うん」
裕介が、消え入りそうな声で答える。
顔は俯いたままである。
「どうしてやり返さないの、男の子でしょ?」
少女が、こともなげに言う。
それが出来れば苦労はしない。奴等を殴り返すことのできる力さえあれば…。
裕介は、ふとあの水晶の瓶のことを思い出していた。
|(壊した筈なのに…壊れた筈なのに…あの小瓶は机の上にあった…壊したと思ったのは、夢だったのだろうか)
「どうしたの?」
高田亜樹のつぶらな瞳が急に視界に入ってきて、裕介は我に返った。
心臓がドキドキと早鐘のように鳴っている。
「い、いや、な、何でもないよ」
裕介がしどろもどろに答えたときだ。
二人の周りに空気に、嫌な波動が伝わってきた。
裕介が近頃も最も鋭敏になっている波動――即ち〝悪意〟の波動であった。
「いよう、お二人さん」
「朝っぱらから仲のよろしいこと」
まず最初に声をかけてきたのは、やはり武雄であった。そしてそれに続いたのは、武雄らと常に行動をともにする少女由花だった。
すでに、二人は武雄らを含む四人に囲まれ、悪意に満ちた注目を全身に浴びていた。
もはや、逃れることは出来ない。
二人は、瞬時にしてその事実を悟っていた。
「な、何か用なの?」
少し怯えてはいたが、亜樹は勝ち気な性格を発揮して、裕介をかばうように武雄の前に立った。目つきをきつくして睨んでいるが、武雄は少女の足が細かく震えているのを見てせせら笑った。
「お前に用はないんだよ。あるのは――」
武雄の右腕がゆらりと上がり、裕介を指さした。
「お前の背中で震えてる、その犬ッコロよ」
「小林君は、犬じゃないわ!」
「犬だよ、こんな奴は」
ヒヒ、と笑ったのは耕二という少年だ。
「さ、委員長さんよ。傷モノにされたくなかったら、そこどけろよ。それが利口ってもんだぜ」
「き、傷モノって何よ!」
「決まってらあな。俺たちに何度も何度も犯られるのよ。ヒイヒイ泣きながらな」
誠一が卑猥な口調で少女を脅しにかかる。
由花が楽しそうに笑っているのが、亜樹の背中に隠れている裕介にも見えた。
「そ、それでも、嫌だって言ったら…?」
亜樹の声が、恐怖でうわずっている。
身体の震えが大きくなってきて、少女のうなじを冷や汗が伝うのが見えた。
裕介は、少女の背中から飛び出していきたい衝動に駆られていた。
もう充分だった。
自分のために、これ以上、彼女が辱められることはない。
これほどの熱意をもって自分を守ってくれた友は初めてだった。しかも、少女だ。いかに勝ち気な少女とはいえ、いつまでもその背中に隠れていては、それこそ犬ッコロだ。
いや、それ以下だ。だから――
「もう、いいよ、高田さん」
裕介は、そう言ったのだ。
亜樹は、我が耳を疑った。
「な、何を言ってるの、小林君、あなた…。駄目よ! いま出ていったら何をされるか…」
殺されるかもしれない、という予感が亜樹の脳裡を埋め尽くしていた。
「ありがとう。…もう充分だよ」
「ほら、犬ッコロもそう言ってるだろ? どけろよ、委員長さん」
武雄の手が、亜樹のセーラー服の襟元に伸びた。その手が服を掴む寸前、
ぱん
といい音が鳴った。
少女が、武雄の手を思い切り叩いたのである。一瞬、その場の空気が凍りついた。
「てめえ、ナメるなよ!」
その冷気を打ち砕いたのは、武雄の怒号であった。怒りが頂点に達したのか、少年の右拳が、少女の美しい顔めがけて唸りを上げて伸びていった。
パンチを頬に受けて吹っ飛んだのは、しかし、小林裕介であった。
少女にパンチが当たる寸前に、彼女の前に割って入ったのだ。
「こ、小林君!?」
少女が叫んでいた。
裕介は数メートルも吹き飛び、やがて、砂利にまみれながらも、むっくりと起き上がった。
口の中を切ったのか、口許から血が朱線を一本引いて流れている。
少年は、ぐいっと無言でそれを拭った。
「いくぜ、犬ッコロ」
武雄ら四人は、裕介を囲むようにして、亜樹のもとから少年を連れ去っていった。
亜樹は、呆然と見送ることしか出来ず、予鈴のチャイムが鳴ってもなお、その場に立ち尽くしていた。
「裕介くん……」
その呟きが、自分の口から洩れていることにも気づいていないようだった。
愛剣を片手に校舎内をうろつき回っていた紀羅がふと足を止めたのは、それから約二分後のことである。
すでに予鈴は鳴り終わり、それぞれの教室で朝の短いホーム・ルームが行われている。
少年の、陽に灼けたかわいらしい顔が曇ったのは、急激な悪想念の膨張を察知したからであった。
この膨張の仕方は、一三八〇通りある悪意増幅例のうちの「理由なき憎悪」と「暴力から生じる快楽」に波長が合致していた。
紀羅は渡り廊下まで走ると、窓から身を乗り出すようにして、その悪意の渦を霊視した。
すぐに見つかった。
西側校舎の片隅だ。そこは、午前中は陽光が当たらぬためと、校舎と山に挟まれているため、薄暗い。夕方になれば少しだけ西日が射し込むのだが、それでもじめじめした場所には変わりなかった。
そこから、いま、天に向けて悪想念の柱が立ち上っている。轟然と渦を巻くその姿は、まるで竜巻のようにうねり、そこにいる者の怨念と憎悪を増幅させ、上空に吸い上げていく。
紀羅は、暴力と狂気の幻臭を嗅いだ。
そして、そこにあの少年がいることも知った。何故なら、この悪想念は武雄らの発したものであるとわかったからだ。このことさえわかれば、裕介の存在を推測するのは容易なことだ。
紀羅は窓から校舎の中庭めがけて飛び降りた。八天部――心霊攻撃能力保持者としての訓練を幼い頃より受けている少年たちにとって、三階からの落下など恐怖ではなかった。
自分たちの能力を使えば落下時の衝撃など霧消できるし、訓練メニューにもあったからだ。
地上に降り立った紀羅は |(残念ながら音もなくというわけにはいかなかった。修行不足だな)、驚くべきスピードで中庭を走り抜け、目的地に向かった。
ホーム・ルームが終わり、担任が教室を出ようとしたとき、高田亜樹は決然と顔を上げた。そして、担任の方へ駆けていく。
「先生」
少女がそう声をかけたのは、彼が廊下に出て職員室に向かおうとしたときだった。
「高田か、どうした」
まだ二〇代後半の若い教師は、学年一の美貌と頭脳を持つ少女に呼び止められて、思わずドキドキしてしまった。
別に、彼にロリコンの気があったわけではない。しかし、悩める美少女の姿を見れば、誰しもそうなるだろう。
「な、何だ、どうしたんだ…?」
しかし、少女の態度が尋常でないと判断した彼は、まっすぐに彼女を連れて職員室へ向かった。
高田亜樹は、声を殺し肩を震わせながら泣いていたのである。
「どうしたんだ、高田。お前が泣くなんて」
給湯室で茶をポットから注ぎながら、彼は軽い口調で言った。
「だって、私、もう、どうしたらいいのか…」
徐々に高まりつつある自分の感情が抑えきれなくなったのか、亜樹の声は大きくなった。それにつられて、涙もボロボロと流れ出す。
「だから、どうしたんだって」
「こ、小林くんが…裕介くんが…」
「小林が、どうしたんだ」
その少年の名が彼女の口から転がり出たとき、担任は事態の重大さを悟った。
軽口など叩いている暇もなければ、茶を飲んでいる場合でもなかったのだ。
彼は、小林裕介に対する学校側の処置――すなわち〝見て見ぬフリ〟に、常に失望感を覚えていたのだ。
権力に負けて、権力に尾を振る犬どもが、「聖職」に就いていることに腹立たしさをさえ感じていた。
だから、彼は、いつも小林裕介の良き理解者でいたかったのだ。
しかし、少年は暗く心を閉ざし、理解しようとする者がそばにいることに気づいていないし、そばにいることなど信じてもいなかったのだ。
担任は、己れの未熟さ故にと自らを呪った。
だから、彼は続きの言葉を少女の口から聞き出そうと、少女の細い肢体を強く揺すったのである。
「殺されちゃうかも知れないの! 助けてよ、先生、お願い、裕介くんを助けて……」
少女の口から戦慄すべき言葉が迸ったが、最後の方はもはや言葉にはならず、少女は泣きながらその場に頽れるように座り込んでしまった。
彼は、すすり泣く少女から、何とか裕介が連れて行かれた場所を聞き出すと、職員室にいた同僚に自習の「おもり」を頼み、西側校舎へと向かった。
そこで、彼は、信じられない光景を目の当たりにすることになるのである。
彼、黒部哲と高田亜樹は、小林裕介に好意を抱いたがために、予想だに出来ぬ事件にこのときすでに巻き込まれていたのである。
だが、これも〝変革につながる回帰〟へと向かう路の一つであったのだ。