第34話 決戦の前の夜、ニックの歌に初めて全員が笑った
ギルドの大広間は、冒険者でいっぱいだった。
鉄札も、銅札も、銀札も。
リーデンにいる冒険者が、ほとんど全員集まっているんじゃないかと思うほどだった。
広間の奥の壇の上に、一人の男が立った。
白髪を短く刈り込んだ、六十近い男だった。
左目を、黒い眼帯で覆っている。
腕も首も太く、年を取ってなお、元は名のある冒険者だったことが分かる体つきだった。
リーデン支部の支部長、ダグラス。
俺は、遠くから何度か見かけたことがあるだけだった。
「――集まってもらったのは、他でもない」
低く、よく通る声だった。
広間のざわめきが、ぴたりと止んだ。
「リーデンの縦穴に、氾濫の前兆が出ている。動く鎧は、日に日に数を増やし、上へ上へと近づいてきている。昨日は、銀札の赤錆の鎚が、十八層で隊列を組んだ鎧の群れに襲われ、重傷者を出した」
広間に、どよめきが走った。
赤錆の鎚が、やられた。
その事実は、ほかのどんな言葉よりも、冒険者たちを震え上がらせたようだった。
「ギルドは、これより防衛の態勢に入る」
ダグラス支部長は、壇の上の大きな板に、縦穴の図を描き始めた。
「十五層の石碑の広場に、防衛線を張る。銀札以上のパーティは、そこで鎧を食い止めろ。銅札のパーティは、十層から十五層の間で、防衛線への物資と伝令を受け持て」
そして、図の一番上を、太い指で叩いた。
「鉄札のパーティは、十層の石碑の前で待機。負傷者を受け取って、地上へ運べ。物資を十五層へ送り出せ。それが、お前たちの仕事だ」
後方支援。
俺たちは、鉄札だ。
十層の主を倒しても、ランクはまだ、鉄札のままだった。
「……後ろかよ」
ニックが、小さく舌打ちした。
「当然だ」
ガルドが言った。
「銀札の赤錆の鎚が、重傷を負った相手だ。俺たちが前に出ても、足手まといになる」
ガルドの言うことは、正しかった。
でも、俺は、壇の上の図を、じっと見つめていた。
十八層の、隊列を組んだ鎧。
決まった道を歩いて、動くものに斬りかかる鎧。
【引きつけ】が効かない鎧。
あれと、正面から剣で斬り合って、勝てるのだろうか。
大広間を出たところで、エルザさんに呼び止められた。
「ユーリくん。少しいいかしら」
エルザさんは、人の少ない廊下の隅まで、俺たちを連れていった。
「本当は、まだ言うべきじゃないんだけれど」
エルザさんは、声を落とした。
「あなたたちのパーティを、銅札に上げる推薦が、ギルドの中で出ているの。十層の主の討伐、ゴードンさんの件、白銀の翼の救出。実績は、十分すぎるくらいよ」
「……え」
「でも、審査は、氾濫が落ち着いてからになる。それまでは、鉄札のまま。ごめんなさいね」
ニックが、口をぱくぱくさせていた。
ミーナが、兄の袖をつかんでいた。
「謝ることじゃないです」
俺は言った。
「教えてくれて、ありがとうございます」
エルザさんは、ほんの少しだけ、口の端を上げた。
「生きて帰ってきなさい。審査を受けるのは、生きている人だけよ」
廊下の先で、銀の鎧が待っていた。
セドリックだった。
白銀の翼の四人も、一緒だった。
「……後方か」
セドリックが言った。
俺は、身構えた。
また、何か言われるのかと思った。
でも、セドリックは、少しだけ視線をそらして、こう言った。
「俺たちは、銅札だ。十層から十五層の伝令に回される」
それから、俺のほうを見た。
「お前たちが十層にいるなら、背中の心配はしなくて済む。……後ろは、任せた」
それだけ言って、セドリックは背を向けた。
ロザリンドが、すれ違いざまに、ニックの背中をぽんと叩いた。
「囮の人。今度は、情けない顔で走らなくていいからね」
「うるせえ!」
その夜。
宿の狭い部屋で、誰も、なかなか眠れなかった。
明日の朝、俺たちは十層に向かう。
氾濫が来るのか、来ないのか。
来るとしたら、いつなのか。
誰にも、分からなかった。
「……なあ」
床の毛布の上で、ニックが、天井を見上げたまま言った。
「村にいた頃のこと、覚えてるか。ユー坊が、ガルドんちの柿の木から落ちた時のこと」
「覚えてない」
「嘘つけ。お前、木の上で『ここなら見張りにいい』とか言って、枝に罠みてえな縄を張って、自分で引っかかって落ちたんだろ」
「……あったな、そんなこと」
ミーナが、くすっと笑った。
「その時、兄さんが下で受け止めたんだよね。そしたら、兄さんのほうが鼻血出しちゃって」
「……あれは、ユーリのかかとが当たったんだ」
ガルドが、ぼそりと言った。
「ミーナだって、毒草のことになると昔からあれだったよな」
ニックが、身を起こした。
「七つの時、『この草、甘い匂いがする』って言って舐めて、一日中舌がしびれて喋れなかったろ」
「……そ、それは、ちゃんと確かめたかったの!」
「舐めて確かめんなよ!」
俺も、思わず吹き出した。
ガルドの肩も、小さく震えていた。
「よし」
ニックが、毛布の上で正座した。
「歌、作った」
「今?」
「今だ。題は、『コルネ村の四人』」
そして、ニックは、小さな声で歌い始めた。
――柿の木から罠師が落ちて
――盾士の鼻から血が出て
――薬草師は草を舐めて
――斥候はそれを見て笑った
ひどい歌だった。
盛りすぎどころか、本当のことしか言っていない。
でも、聞いているうちに、なぜか、おかしくてたまらなくなった。
ミーナが、毛布に顔をうずめて笑っていた。
ガルドが、声を殺して、肩を震わせて笑っていた。
俺も、腹を抱えて笑っていた。
ニックの歌で、全員が笑ったのは、初めてだった。
「……な、なんだよ。そんなに笑うとこあったか」
ニックが、きょとんとしていた。
それが、また、おかしかった。
みんなが寝静まった後も、俺は、しばらく目を開けていた。
十三層で潰した鎧に触れた時の、あの手応え。
魔物より、罠に近い感触。
でも、壊れていて、罠術では何も読み取れなかった。
(壊れていない鎧に、触れられれば)
構造が読めるかもしれない。
読めれば、何か分かるかもしれない。
窓の外で、夜明け前の鐘が、一つだけ鳴った。
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