9:ピタゴ〇スイッチの作り方
「……ねえカシム、もう一度だけ言うね。帰ろう。今すぐ。ガチで」
私はカシムにガッチリと右手をホールドされたまま、必死の形相で懇願した。でも、このニヤニヤ顔のドSクズ男は、私の必死な訴えを爽やかな笑顔でスルーしている。
「ハニー、そんなに顔を青くにして。お腹が空きすぎて倒れそうなの? さあ、あそこの串焼き屋、美味そうだよ」
「誰がハニーよ! 食べ歩きしてる場合!? あの掲示板見たでしょ!? 私、指名手配されてるんだよ! ?靴履いたくらいで飛べるわけないでしょ!そんなバカみたいな理由で探さないでほしいわ……!」
小声でギャーギャー喚く私を、カシムは「はいはい」と適当にあしらいながら、市場の人混みの奥へと引きずっていく。
辿り着いたのは、香ばしい醤油……じゃなくて、甘辛いスパイスの匂いが漂う串焼き屋だった。カシムは手際よく謎の肉串を二本買い求めると、そのうちの一本を強引に私の口に押し込んできた。
「もがっ!? ……ん、んんっ、……あ、美味しい」
……めちゃくちゃ美味い。ただ、悔しいことに、カシムが家で作ってくれる料理よりは少し、ほんのちょっと、劣るけれども。
ジューシーで適度な歯ごたえがあって、脂が甘い。市場の活気も相まって、喉を通らなかったはずの食欲が暴走し始める。
「だろ? まあ、俺が昨日作ったやつの方が美味いけど……。ほら、さっさと食え。君、栄養足りてないからすぐフラつくんだよ」
「……っていうか、さらっと自分の料理の方が上だって自慢したよね、今。……味は認めなくもないけど、昨日のアレ、絶対『あのうるさい鳥』でしょ!? 素材が受け入れられないの! こういう、ちゃんとしたお店で買った普通の食材を使ってよ!」
「ハイハイ。また今度ね。……ほら、口の横にタレがついてるぞ。お宝様が台無しだよ」
肉の美味しさに一瞬だけ毒気を抜かれた私だったけれど、ここは人混み。そして私は『歩く金塊』状態。そんな危険地帯で私の才能が、人里という障害物だらけの場所で黙っているはずがなかった。
まずは、上空から。
「えっ、鳥……?」
と思った瞬間、空を飛んでいたハトっぽい何かが、ピンポイントで私の頭を狙って爆撃を落としてきた。
「ちょっ、汚い!!」
反射的に体を反らせて回避した私。でも、そのせいで重心が崩れ、隣を歩いていたガタイのいい酔っ払いにぶつかりそうになる。
「うわっとっと……!」
酔っ払いを避けるために、私は新しい靴で石畳を強く蹴った。ところが、その着地点が悪かった。そこには、魚屋の店主がぶちまけたばかりの、謎のヌルヌルした液体――おそらくは魚の煮汁か何か――が絶妙な広がりを見せていたのだ。
「あ、これ、進〇ゼミでやったやつだ(やってない)」
走馬灯がよぎる。私の右足は、氷の上のカーリングストーンのごとき滑らかな加速を見せ、制御不能なスライディングを開始した。
「カシム! 助け――」
助けを呼ぼうとしたけれど、私の体はすでにカシムの手をすり抜け、猛烈な勢いで前方へと射出されていた。運が悪いことに、そこには重そうな荷物を背負って、コソコソと路地裏へ消えようとしていた怪しげな男の背中があった。
私の新しい靴の先が、男の長いマントの裾にガッチリとフックする。さらに、滑る足の勢いそのままに、私は男の腰のあたりに「全力のタックル」をかます形になった。
「どっせええええええええい!!」
自分でも聞いたことがないような雄叫びが出た。ドゴォォォン! という、乙女が出していいはずのない衝撃音が響き渡る。私と男はニコイチの塊となって、そのまま数メートル先にある自警団の詰め所の門柱に激突した。
衝撃で星が飛ぶ。
「……ったた……。私、何してんの……」
涙目で顔を上げると、そこには門柱に頭をめり込ませて白目を剥いている男の姿。
どうしよう!他の人巻き込んじゃった…カシム助けて!!
そして、男が背負っていた袋が破れ、中から出てきたのは――
「……え、これ、王家の紋章が入った銀食器か?」
「こっちは、昨日盗まれたっていう商会の魔法具じゃないか!?」
わらわらと詰め所から出てきた自警団員たちが、私と男を取り囲む。
「おい、この男……まさか、三つの国を跨いで指名手配されてる『千の手を持つジャック』じゃないか!?」
「間違いない! こんなところで捕まるとは! ……それを、このお嬢さんが一人で!?」
自警団員たちの尊敬の眼差しが、一斉に私に突き刺さる。いや、違う。違うんです。私はただ、魚の煮汁で滑って、止まれなくなっただけの通りすがりなんです。
「おお、なんという勇気だ! 素晴らしい、街の英雄だ!」
「名前を聞かせてくれ! ギルドに報告して報奨金を――」
「あー、待った待った」
詰め寄る男たちを遮って、いつの間にか隣にいたカシムが私の肩を抱き寄せた。彼は爽やかな商人の仮面を完璧に保ったまま、困ったように笑ってみせる。
「うちの妻は少し慌て者なだけでしてね。さっきも虫に驚いて走り出しちゃったんですよ。英雄だなんて、とんでもない。ねえ、ハニー?」
「あ、あはは……。虫、怖かったぁ……(棒読み)」
カシムの強烈な肩への指圧に促され、私は必死で「非力な嫁」を演じた。カシムは流れるような口上で報奨金の受け取りを辞退しつつ、でも「せめてこれだけでも!」と自警団の隊長から押し付けられた特級の蒸留酒の瓶をちゃっかり受け取って、私を連れて裏路地へと消えた。
人混みを抜けて森の入り口まで辿り着いた瞬間、カシムはお腹を抱えて爆笑し始めた。
「……く、くはっ、……ははははっ! 最高だよ、ミオ。わざわざ自警団の入り口まで犯罪者をデリバリーしてやるなんて、サービス精神旺盛だねぇ」
「狙ってない!! 全力で事故だからこれ!!」
「くくっ、君、自警団に向いてるよ。歩いてるだけで凶悪犯を仕留めるなんて、最高だ」
カシムはおもしろ半分、感心半分といった様子で、私の頭をぐしゃぐしゃにかき回した。その手はいつもより少しだけ、乱暴だけど温かくて、なんだか調子が狂う。
「……はぁ。もういい、帰る。お酒、それ今日中に全部飲むから。飲まなきゃやってられない。ていうか、何なのこの世界、私に厳しすぎない?」
いいもん!ここでは成人してるし!シラフでやってられるか!!
「いいぜ。お嬢さんの初手柄に乾杯といこうか」
隠れ家に戻り(帰りも勿論カシムに介護してもらった)、カシムが何重もの結界を張り直すのを見て、ようやく私の心臓は定位置に戻ってきた。
私は買ってきたばかりの服の袋をリビングのソファに放り出し、部屋へ向かった。
「やっと自分のサイズの服が着れる……。まずは下着から、っと」
袋に手を突っ込んで、自分が選んだシンプルなコットン製の下着を取り出そうとした、その時だった。指先に触れたのは、カサカサとした不審な紙包みと、妙にツルツルした、あからさまに「布面積の足りない」感触。
「……え?」
嫌な予感がして、その包みを開けてみる。
中から出てきたのは、さっき服屋でカシムがニヤニヤしながら手に取っていた、あの際どい刺繍入りの黒いレースだった。
「…………はあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?!?!?」
叫び声が、家中に響き渡る。
慌てて袋を全部ひっくり返すと、そこには私が選んだ下着に混ざって、なぜか他にも三枚ほど、どう見ても「観賞用」としか思えないエグいデザインの下着が紛れ込んでいた。
「カシムーーー!! ちょっ、これ!! 私、こんなの買ってない!!」
部屋から顔だけ出して叫ぶと、キッチンでさっきのお酒を準備していたカシムが、これ以上ないくらい清々しい笑顔で現れた。
「あぁ、それ? 店員に包ませておいた。……俺の猫なら、身なりくらいは俺の好みに合わせてもらわないとね」
「好みに合わせる必要ないし!! ていうか、いつの間に!? ずっと手、繋いでたじゃん!」
「俺の手癖をなめるなよ。……まあ、どうしても履くのが嫌なら、俺が直接着せてあげようか?」
「……っ、この、ド変態死神!! クズ! バカ!!」
私は顔から火が出るほどの羞恥心で、手元にあったレースの塊をカシムの顔面めがけて投げつけた。
……けれど、渾身の力で投げたはずのそれは、カシムの鼻先どころか、彼のかなり手前の床に、フワリと虚しく落ちていった。
「…………」
カシムは、床に落ちた黒いレースを一瞥すると、再び「くはっ」と楽しそうに肩を揺らした。変装を解いた銀色の瞳が、最高に私をバカにした笑顔を向けてくる。
「あーあ、届かなかったねー。お嬢さん、そんなに俺を誘惑したいわけ? 下着投げつけてくるなんて、刺激が強すぎるんじゃないかな」
なんでよ!! せめて届きなさいよ!!
この世界の重力が急に重くなったのか、それとも私の腕力がミジンコ並みになったのか。何一つカシムに通用しない現実が、羞恥心に拍車をかける。
「……カシム、もういい。そのお酒、今すぐ開けて!」
「お、やけ酒? いいね、面白そう。……安心していいよ。今日のメシの材料は、全部さっき市場で買った『まともな』食材だから。君がギャーギャーうるさいから、わざわざ金払ってやったわけ。感謝してよね?」
「……当たり前でしょ!!」
こうして、私の波乱に満ちた買い出しの一日は、最悪で、最高に騒がしい夜へと続いていくのだった。




