10:酔いどれ天人のショウユの呪い
キッチンから漂ってくるのは、香ばしく焼けたお肉の匂い。……悔しいけれど、カシムの作る料理は、材料に目を瞑りさえすれば、この世のものとは思えないほど美味しい。
そして、材料が「昨日まで窓の外で鳴いてたアイツ」じゃないというだけで、こんなにも安心して食べられるなんて。でも、今日はそれよりもお酒が先よ!
「一滴残らず、……あー、やっぱり半分くらい、私が飲み干してやるんだから」
リビングのソファに深く沈み込みながら、私は恨みがましく銀髪の死神を睨みつけた。
「お、やる気満々じゃん。でも半分? 全部じゃないわけ?」
「……当たり前でしょ。あんたには、その、……森の中でも、さっきの街中でも、助けてもらった恩があるんだから。……これ、そのお礼。分けてあげる。感謝してよね」
本当は全部独り占めして記憶を飛ばしたい気分だけど、借りを作ったままなのは癪だ。私がお酒を指差すと、カシムは意外そうに目を丸くした後、すぐにいつものヘラヘラした笑みを浮かべた。
「へぇー、殊勝な心がけじゃん。お嬢様にそんな気遣いができるなんて、明日あたり空から雷でも降ってくるかなー?」
「……雷じゃなくて鳥のフンなら今日降ってきたわよ! いいから注いで!」
「はいはい、お嬢さんの初手柄とお礼の気持ちに乾杯、かな」
カシムがジョッキに琥珀色の液体を並々と注ぎ、私の前に置いた。
……人生初の、お酒。
日本に居た時は、真面目な女子高生だったから(片思い相手に貢ぐために最近はバイト三昧だったけど)、飲酒なんて考えたこともなかった。でも、ここは異世界。カシム曰く成人は15歳。……セーフ! 完全にセーフ!
「乾杯! ……ふん、あんたにはやっぱり一口で十分よ」
カシムの挑発的な笑みにカチンときた私は、ジョッキをひったくるように持ち上げ、勢いよく口に流し込んだ。
……それが、地獄の入り口だった。
「ッ~~~~~~~~~~!!!!」
喉が。喉が焼ける!!
一口飲んだ瞬間に、口の中から食道、胃に至るまで、溶岩を流し込まれたような凄まじい熱さが駆け抜けた。アルコールの刺激が強すぎて、味なんて分からない。ただただ、痛い!!
「……げほっ、ごほっ! ……な、なにこれ!? 毒!? 毒なの!?」
「くはっ、バカだねー。きつい酒をそんな一気に煽る奴があるかよ。……子供には早すぎたかな?」
カシムがお腹を抱えて笑っている。その軽薄な態度に、喉の痛みと、今日一日の理不尽な不幸に対する怒りが爆発した。
「……うるさい! 早すぎない! 私はもう、大人なんだから!!」
私は涙目でカシムを睨みつけ、痛む喉を無視して、残りの液体を根性で一気に飲み干した。
……二口目は、不思議と熱さを感じなかった。代わりに、頭の中が急速にふわふわとし始め、視界がぐにゃりと歪む。
「……お、いい飲みっぷり。じゃあ俺も、お嬢様のご厚意に甘えて……」
「あ、ちょっと! あんた飲み過ぎないでよ!!」
カシムが自分のジョッキを傾けるのを、私は身を乗り出して睨みつける。分けてあげると言ったそばから、自分がフラフラになっているせいで、どれくらい注いだのかも分からなくなってきた。
彼はソファに深く腰掛け、私が投げつけたあの際どい黒レースの下着を指先で弄ぶ。
「……ねぇ、いつまで持ってるのよ。絶対履かないからね!?」
カシムはニヤニヤしたまま、次々と注がれるお酒を煽る私の様子を観察し始めた。
「何よ、その顔……もう、飲まなきゃやってられないんだから。……カシム、あんたさあ、……なんで、そんらに、……クズなろ?」
「お、呂律が回らなくなってきたねー。……クズ? 自分に正直なだけだよ」
視界が千鳥足だ。頭の中の「私」が、だんだんと遠くへ行ってしまう。代わりに、胸の奥に溜まっていた泥のような感情が、口から溢れ出そうになっていた。
「……私が、ここに来たのはね……全部、あにょ『醤油』のせいなんだから!!」
「ショウユ……? なにそれ、毒薬の名前?」
日本の調味料を知らないカシムは、真面目な顔で首を傾げる。その銀色の瞳が、酔った私には、妙に面白おかしく見えた。
「ちがーう! 黒くて、しょっぱくて、お豆腐とかにかけるやつ! ……あー、もう、説明めんどくさい! とにきゃく、あの男が『家族に醤油買ってこいって言われた』なんて、ヘドロみたいな嘘ついたせいなんらから!」
「……家族に、ショウユ。……やっぱり呪術的な儀式か何かなわけ? そのショウユがないと死ぬ呪いでもかかってたの、そいつの一家」
カシムはジョッキを傾けながら、心底わけがわからないという顔で眉を寄せた。日本の食卓の風景が、彼の脳内では暗黒儀式か何かに変換されているらしい。
「違うってば! デートの待ち合わせならのにさ、電話で誰かと『一発ヤらせろ』とか『セフレ』とか最低なこと言ってたの、バッチリ聞こえてたのよ。それなのに、私と目が合った瞬間、醤油!? 醤油だぁ!? どんな家庭だよ! バカにすりゅのもいい加減にしてほしいわ……!」
私は、あの日の歩道橋の上の光景を思い出し、煮え繰り返るような怒りを延々とぶちまけ続けた。
優しくされただけでコロッといって、プレゼントまで用意して、犬みたいに尻尾振ってたのは誰だ。……私だよ!!
「だってカッコ良かったんだもん! 笑顔が可愛かったんだもん! そりゃ惚れるでしょうよ! 私のバカー!!」
ジョッキに残った毒……じゃなくてお酒を一気に飲み干すと、心臓がバクバクと暴れ出した。
それからは枷が外れたように溢れ出る今までの鬱憤の数々。似非王子に対する愚痴の連続。
カシムは、私が泣きながらクッションをボコボコに叩くのを、最初は面白そうに眺めていた。
「へぇー。……要するに、そのクズはハニーを『運が悪いから連れ歩くだけの置物』扱いして、裏で馬鹿にしてたってことかな? 随分と安く見積もられたもんだねー」
「そうらのよ! 挙句の果てに、問い詰めたら白々しくシラを切って……気づいたら歩道橋の上でもみ合いになってて……。あ、歩道橋っていうのは、高いところにありゅ道ね」
「……ふーん。それで?」
「振り払おうとしたりゃ、運悪くヒールが滑って、欄干がガタついてて……。手も伸ばされず、それどころか一歩下がらりぇて。私はそのまま、真っ逆さま。冷ちゃい川にドボンよ。不運っていうのは、こういう時にこしょ本領を発揮するわけ」
私は自嘲気味に笑った。
視界がぐわんと回る。最後に見た、あの「王子様」の引きつった顔。助けの手を伸ばすどころか、自分の保身のために一歩引いた、あの瞬間の絶望。
「私……あんなクズのせいで死んだと思うと、悔しくて化けて出たいレベルなんだけど!! せめて、ちょっとは助けるフリとかしにゃさいよバカ!!……まぁ死んでないけどね!助けてくれてどうもアリガトウ!!」
叫んだ拍子に、バランスを崩してソファに突っ伏した。
……しん、と。
それまでゲラゲラ笑っていたはずのカシムの気配が、急に凪いだ。
酔った頭で顔を上げると、そこにはさっきまでの軽薄な男はいなかった。
銀色の瞳は、深淵のような冷たさを湛え、ただ静かに私を見下ろしている。その圧倒的な「死」の気配に、私の酔いが一瞬だけ冷めかけた。
「……そっか。助ける手すら出さなかったんだ」
カシムが、低く、這うような声で呟いた。
「そんなゴミ、この世界なら俺が指一本で消してやるのに。……あ、でもそれじゃつまらないかなー。生きたまま皮でも剥いで、塩漬けにして放置した方が楽しめるかな?」
「あははは!カシムくん、発想がサイコパスだよー!ガチのやつだよー!」
私はヘラヘラと笑いながら、再びソファに沈み込んだ。
怖い。カシムが怖い。でも、その物騒な怒りが、なんだか少しだけ、私の胸を軽くしてくれた気がした。
「……も、だめ……。眠い……。お酒……もう……むり……」
意識が急速に遠のいていく。
最後に見たのは、立ち上がってこちらに歩み寄ってくる、不機嫌そうな死神の姿だった。
ドサリ、と力が抜けた音がして、ソファに沈んだミオの意識が完全に落ちたのが分かった。
「……おい。寝るならせめてジョッキを置けよ」
返事はない。
さっきまで「ショウユがー!」だの「クズ男がー!」だの、発情期の猫みたいに喚き散らしていた嵐が嘘のように静まり返っている。
俺は手元で弄んでいた黒いレースの布切れを放り出し、立ち上がってソファへ歩み寄った。
見下ろせば、ひどい面だ。
酒のせいで顔は真っ赤だし、泣き喚いたせいで目元は腫れている。挙句の果てに、寝言で「……しょ……う……ゆ……」とか呟いている。
「……ったく、最高に無防備じゃん」
俺は小さく舌打ちをして、彼女の頬を指先でなぞった。
『天人』だの『聖遺物』だの、この世界の連中が血眼になって欲しがる稀少価値の塊。なのに、その中身は、たかだか男一人の裏切りで絶望して、助ける手すら貸してもらえずに川に落ちた、ただの「運の悪い娘」なわけ。
……胸糞悪い。
その男が、彼女をどんな風に値踏みしていたか。
『連れ歩くだけ』
『一発ヤらせろ』
挙句の果てに、目の前で死にかけている彼女から一歩引いた……?
「……は。笑えない冗談だな」
俺の指先に、じわりと「死」の魔力が集束する。
もしそのゴミが目の前にいたら、心臓を握りつぶす前に、まずはその「一歩引いた」足を切り落として、自分の内臓でも食わせてやったのに。
この俺が、わざわざ拾い上げ目を掛けてやってる女を、そんな安っぽい言葉で汚した奴がいる。それが、何よりも気に入らない。
「……安心しなよ、ハニー」
俺は軽々と彼女の体を横抱きに抱え上げた。
驚くほど軽い。こんな重さしかないものを、その男は見捨てたわけだ。
俺は眠りこけるミオの耳元で、甘く、染み込ませるように声を落とした。
「俺はそのゴミと違ってさ。お前がどこまで堕ちようが、地獄の底まで追いかけてやるから」
あるいは、冥府の番人としてお前を捕まえておく。そんな支配的な響きを込めて、俺は低く笑った。
これは愛の告白などではなく、死神が獲物にかける呪縛の誓い。
俺は寝室へと続く廊下を、足音も立てずに歩き出した。
明日の朝、目が覚めた彼女がどんな顔をするかを想像すると、ようやく少しだけ、愉快な気分が戻ってきた。




