11:蘇る記憶
……太陽が、目に刺さる。
カーテンの隙間から差し込むわずかな光が、まるで鋭い針のように網膜を突き刺してくる。
思考は泥のように重く、頭蓋骨の内側では、誰かが巨大なハンマーを四方八方に振り回しているかのよう。
カラカラに干からびた喉の粘膜が、呼吸をするたびに悲鳴を上げる。
「うぅ……、あ……」
呻き声すら、満足に出ない。
ここはどこだ。私は誰だ。……そうだ、私は天野澪だ……。
そして昨夜、私は人生で初めての飲酒という名の「暴挙」に出た。
(……そうだ、お酒。あの琥珀色の液体……)
その単語を脳が認識した瞬間、まるでダムが決壊したかのように、昨夜の記憶が濁流となって押し寄せてきた。
『カシムくーーん! もう一杯! 燃料チャージ!』
『見てよ、この指! これが野良犬共に狙われてる、お高い指なんだからねー! ぷぷっ!』
『それにしても、あの醤油男! 「家族が醤油買ってこい」!? どんな暗黒儀式だよ! バカじゃなーいの!?』
「………………はっ」
目を見開いたまま、私は固まった。
蘇る、自分の恥知らずな高笑い。
蘇る、カシムの銀髪をグシャグシャにかき回し、彼を「くん」付けで呼んだ命知らずな手の感触。
挙句の果てに、私はクッションを「この、醤油! 醤油野郎!」と叫びながら、カシムの前でボコボコにしばき倒していた。
「……あ、……あーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
羞恥心が、二日酔いの頭痛という物理的な痛みを完全に凌駕した。
私は叫び声を上げ、毛布を頭から被ってベッドの上でのたうち回った。
「死にたい!今なら迷わず川に飛び込める!なんで! なんであんなこと言っちゃったの、私のバカバカバカー!!」
「おーおー、朝から元気な芋虫だねぇ」
……終わった。
カーテンを開ける乾いた音と共に、聞き慣れた、そして今は世界で一番聞きたくない、低くて涼やかな声が届いた。
毛布の隙間から恐る恐る目を向けると、そこには窓辺に立ち、逆光の中で意地の悪い笑みを浮かべている銀髪の死神がいた。
「おはよう、カシム……さん。……あの、昨日のことは、その……」
「さん? なんだよ、昨日の熱烈な『カシムくん』はどこに行っちゃったわけ? 俺、結構気に入ってたんだけど」
「やめて! 殺して! いっそ、そのナイフで私の記憶を綺麗に削ぎ落として!」
枕に顔を埋めて悶絶する私に、カシムは「くくっ」と愉快そうに喉を鳴らした。
「無理。あんなに面白い見せ物、一生忘れてやんないから。……ほら、立てるか? 酷い面してるよ」
差し出された手を取る気力もなく、私は這いずるようにして起き上がった。
鏡を見なくてもわかる。きっと今の私は、川の底から這い上がってきたばかりの幽霊のような顔をしているはずだ。
「……気持ち悪い……。頭が、割れる……」
「だから言ったじゃん。子供には早すぎだって。ほら、これ飲めよ。昨日の酒よりは、マシな味がするはずだ」
彼が差し出してきたのは、琥珀色の透明なスープだった。
罠を疑う余裕もなく、私はそれを口に運ぶ。……瞬間、野菜と香草の優しい旨みが、乾ききった身体に染み渡っていくのを感じた。
「……美味しい……。悔しい……」
「正直でよろしい。……で、昨日の『ショウユ呪術儀式』の続き、聞かせてもらおうか。確か、歩道橋の上で男が魔法の薬を掲げて踊ってたんだっけ?」
「踊ってない! 醤油は調味料! 豆腐にかけるの! 呪いじゃないから!」
いつものように言い合いをして、少しだけ二日酔いのどんよりした空気が晴れかけた――その時だった。
カシムの指先が、ピクリと震えた。
カシムのからかう動きから、遊びが消える。
彼の背中から、今まで一度も感じたことのない、冷たい「何か」が溢れ出した。
「……カシム?」
「……。ミオ、地下の貯蔵庫に二日酔いに効く薬草があったのを思い出した。取ってこい。今すぐだ」
「え? でも、私そんなの……」
「いいから、行け」
その声は、命令だった。
拒絶を許さない、深い闇のような声音。
私は理由もわからないまま、カシムに腕を掴まれ、廊下の突き当たりにある地下室へと押し込まれた。
「掃除が終わるまで、そこでおとなしくしてなよ」
ガチャン、と重厚な鍵がかけられる音が響く。
一人残された暗い石造りの地下室。外の様子は何も聞こえない。
ただ、扉の向こう側で、カシムという存在が「別の何か」に変わったことだけが、本能的に理解できた。
(掃除……? なんで、急に……?)
地下室の鍵を掛け、俺は深く息を吐き出した。
ミオに向ける、ヘラヘラした面を剥ぎ取り、内側に潜む「掃除屋」だった頃の意識に切り替える。
庭先に五人。
こいつらから放たれているのは、同業者特有の静かな殺気ではない。もっと傲慢で、執拗な――「獲物」を追い詰めた際の嗜虐的な高揚感だ。
「……朝っぱらから、興醒めなんだよ。ゴミ共が」
腰のナイフの重みを指先で確かめ、俺は窓から音もなく庭へと滑り出した。
家の中を荒らされるのは、趣味じゃない。ましてや、あいつが二日酔いで唸っている時に、賊の怒鳴り声や血の匂いを吸わせるなんて、もっと御免だ。
「おい、ここが怪しくないか? 」
「天人でも隠れてんじゃねぇか? 随分とこざっぱりした隠れ家だしよ」
「中を調べりゃわかるだろ。何か手掛かりでもあれば賞金は俺達のもんだ」
庭先に陣取った男たちが、下卑た笑い声を上げ値踏みするような視線を家に向けていた。
俺を追ってきた組織の生き残りではない。一攫千金を夢見て迷い込んできただけの食い詰めた賞金稼ぎか、運良く情報の切れ端を仕入れた野盗の類だ。
俺の存在にようやく気付いた奴らは、一瞬だけ身構えた。だが、俺の無数の傷に視線が止まった瞬間、その警戒は目に見えて侮りへと変わった。
(……ミオでさえ、最初はあれほど警戒したってのに)
こいつらには、この傷が「敗北の証」にしか見えないらしい。
「お前、ここの住人か?死に損ない。…何か天人の情報を知らねぇか?素直に吐けば、その汚い首は繋げておいてやるぜ」
リーダー格の男が、鼻で笑いながら俺に歩み寄ってくる。
裏社会で生きてきた自負があるのだろう。だが、こいつらは自分たちが今、誰を相手にいきがってるか微塵も理解していない。
ミオを拾う前なら、適当にあしらって終わらせた。
だが、今は違う。
(……中を調べる?天人の情報?)
俺が拾い、俺が隠した、俺だけの「暇つぶし」
あいつがいる場所を、土足で踏み荒らそうとするその思考。
―――不快感。
それも、これまでの人生で味わったことのない、泥を飲み込むような度し難い拒絶反応。
こいつらがここに天人がいると確信しているかどうかなど、どうでもいい。
安っぽい欲にまみれた手で、俺の所有物を、汚そうとした。その事実だけで十分だ。
かつては死をばら撒いた俺が、今は他人の命を守るという、この上なく不相応で厄介な熱に焼かれていく。
リーダー格の男が、俺を小突きながら扉に手をかけようとした。
その瞬間。
「……掃除の時間だ」
吐き捨てる。
言葉が終わるより速く、俺は一歩踏み出した。
「なっ――」
男が驚愕に目を見開く。
「死に損ない」だと思っていた男の動きが、自分たちの知る常識の範疇を超えていることに気づいた時には、すでに一人目の喉が音もなく裂けていた。
二人目、三人目。
武器を抜く暇すら与えず、最短の軌道で急所を突く。
四人目。
逃げ出そうとした背中に、音もなく距離を詰め、心臓を一突き。
あの日、組織を潰した時のような「死んでもかまわない」という投げやりな戦い方ではない。一滴の血も、一つの断末魔も、あの地下室へは届けさせない。
最後の一人が、絶望に顔を歪めて短剣を振り回した。
「ば、化け物め……!」
男が叫び切る前に、俺のナイフがその喉笛を掻き切る。
その瞬間、男の剣先が虚しく空を切り、俺の羽織った上着の袖口をわずかに裂いた。
「…………」
静寂が戻る。
周囲に転がるゴミを冷ややかに見下ろし、俺は一つ、深く息を吐いた。
傷はない。返り血も、風下に立つことで最小限に抑えた。
だが、裂けた袖口だけが、俺の「不機嫌」の痕跡として残った。
「……あーあ。これ、あいつに見つかったらまたうるさいだろうな」
俺は昂った神経を無理やり元の型に押し込め、家の中に戻った。
地下室の鍵を開ける。
「……掃除、完了。お嬢さん、薬草は見つかった?」
扉が開くと同時に、中から小さな塊が飛び出してきて、俺の胸にぶつかった。
「……カシム! 大丈夫なの!? 何があったの……!」
不安そうに俺を見上げるミオ。その瞳が、俺の裂けた袖口に止まった。
「……あ、服、破れてる。どうしたの?」
「ん? あぁ、これ? ……ちょっと、頑固な汚れを落とすのに手間取ってさ。枝に引っ掛けちまった」
「枝……? 掃除で服を破くなんて、どんだけ激しく動いたのよ」
「はは、この世界の掃除は命がけなんだよ。……ほら、そんな顔すんな。二日酔いが悪化するだろ?」
ミオは訝しげな顔をしながらも、俺の袖を掴む手を離そうとはしなかった。
「……カシム。掃除、お疲れ様。……あと、昨日のこと、本当に忘れて」
「やだ。……『カシムくん』は、一生上書きされない俺のコレクションだから」
「もう、バカ!!」
いつものやり取り。
外の死体も、血の匂いも、このお嬢様には必要ない。
俺はミオを宥めてベッドへと押し戻し、静かに寝室の扉を閉めた。
……さて。ミオが気付く前に、庭の「ゴミ」を消してくるとするか。




