12:日常に潜むサスペンス
お昼過ぎ。二度寝から目覚めた私の頭は、二日酔いのせいでまだ使い物にならなかった。
カシムにベッドへ放り込まれてから数時間。ノロノロとリビングへ向かうと、そこには驚くほどいつも通りの光景が広がっていた。
「……お、やっと起きた。調子はどうだ?」
カシムは至って平然とした顔で、モーニングティー、というには遅すぎるお茶の準備をしていた。
窓の外は相変わらずの草むら。カシムだって、いつも通り。
少し袖が破れている以外は、乱れた様子も、汚れ一つついた様子もない。
……でも。
でも、絶対に何かあった。女の勘、っていうか、私の嗅覚をなめないでほしい。
理屈じゃない。ほんの数時間前、廊下で見せたカシムの、あの凍りつくような冷たい背中。それが何もなかったかのように消えるはずがない。
「……ねえ、カシム。あんた、何か隠してるでしょ」
じろりと睨みつけても、ハーブティーを注いでいたカシムの手付きは変わらない。いつもの人を食ったような笑みを浮かべて、何食わぬ顔でカップを差し出してくる。
「何のこと? さっき言っただろ。頑固な汚れを掃除してただけだって」
「嘘おっしゃい。今のあんた、変な空気出してるもの。なんか……こう、独特のモヤモヤしたやつ!」
「なんだそりゃ。お嬢様はついに占い師にでも転職したのか?」
カシムは鼻で笑って、私の追求をさらりとかわす。
その、のらりくらりとした余裕が、余計に私の直感……というか、ムカつきを煽った。絶対に、この男は何かを隠してる。
「いいえ、絶対何かあったわ! その袖! 破れたところから、本当は血が出て……怪我してるのを隠してるんでしょ!? バイ菌が入ったらどうするのよ!!」
バイ菌。この世界にあるのか知らないけど、昔ネットのまとめサイトで見た「傷口を放置して大変なことになった」っていう出所不明の怖い記事が頭の中を埋め尽くす。
「は? バイキン……? なんだ、その新手の魔物――」
「いいから見せなさい! ネットで見たことあるんだから、傷口からバイ菌が入って、腕がパンパンに腫れて、最悪サヨナラになっちゃう怖いニュースを! ほら、脱いで!!」
「おい、引っ張るな。怪我なんてしてねぇって――」
「何言ってるんだ」と呆れるカシムを無視して、私は椅子を蹴飛ばして立ち上がり、彼の腕を掴んだ。
半ば強引に、破れた袖から彼の腕を、そして上着をひん剥こうとした。
「……っ」
乱暴に捲り上げた上着の下。
私の動きが、ピタリと止まった。
そこにあったのは、今日出来た傷じゃない。
脇腹に刻まれた、肉を大きく抉り取ったような、赤黒い酷く痛々しい、深い傷痕。
「……なに、これ。この傷、どうしたの……!?」
私の震える声に、カシムは毒気を抜かれたように肩の力を抜いた。そして、まるで「昨日の夕飯、何食べたっけ?」と尋ねられた時のような、軽い調子で口を開く。
「あぁ、これ? ……あー、前に話しただろ、退職手続き。あれに必要だったんだよね。血ってのはさ、そいつ固有の魔力が混じっちゃうわけ。だから現場に俺の血をぶち撒けて、死んだふりをする必要があったんだよ。……ま、自分でナイフ突き立てて、中身を少し掻き出しただけ。効率的だろ?」
効率的……?自分の体を道具みたいに扱うのが?
「……待って。それって、テレビで見たことある……DNA鑑定ってやつでしょ!?」
「でぃーえぬ……? なんだ、その変な呪文は」
「血とかで犯人を特定しちゃう凄いやつなのよ! つまりあんたは、それを逆手に取って、偽の証拠を捏造したってわけね!? でもねカシム、ドラマの犯人だって、自分の体を抉ってまで証拠作るなんてしないわよ! そんなのおかしいでしょ!!」
私はカシムの腕を掴んだまま、半ば強引に彼を洗い場へと引きずっていった。
カシムは「勘弁してくれよ」と肩をすくめているけれど、その足取りはどこか私に合わせるように緩やかだ。それがまた、自分を粗末に扱っている余裕に見えて腹立たしい。
「とにかくその脇腹、しっかり洗ってきなさい!石鹸、ちゃんと使いなさいよね!」
リビングから有無を言わせず引っ張られ、俺はなかば追い立てられるように風呂場へと放り込まれた。
「えー、お嬢さん。湯も沸いてねぇのに、水で洗えってわけ?俺に対する扱いが酷くない?」
軽口を叩いてみたが、返ってきたのは「うるさい! 効率的なんでしょ!」という理不尽な怒声と、バタンと閉められた扉の音だった。
「……ったく。拾ってきた子供に風呂場へ蹴り込まれるなんて、聞いたことねぇよ」
俺は苦笑しながら、心なしか伸びた上着を脱ぎ捨てた。汲み置きの冷たい水に石鹸を浸し、適当に泡立てる。言われた通り、脇腹の古傷をなぞるように洗ってみたが、やはり何の意味があるのかはさっぱり分からない。
「今更かもしれないけど、しっかり洗って綺麗にしないとバイ菌入って死んじゃうかもしれないんだからね!? あんたが死んだら、私、行き倒れるしかないんだから!!」
扉の向こうからの叫びを聞きながら、俺は手のひらの泡を見つめた。もう二ヶ月も前の、とっくに塞がった傷跡を指して、この女は本気で俺の死を案じている。
組織を壊滅させ、すべてを終わらせることに決めたあの日。
燃え盛る拠点の中で、俺は後腐れなく存在を消すために、迷わず自分の腹を突き刺した。俺に偽造した死体に血を撒き散らし、自分という個をこの世から抹消する。それは俺にとって、最後に残った「完璧な仕事」というだけの話だった。
あそこには、俺を止める奴も、ましてや顔を真っ赤にして怒る奴なんて一人もいなかった。ただ、炎が爆ぜる音と、血の匂いが充満していただけだ。
(……バイキン、ねぇ?)
扉の向こうで、ミオがまだ何かフンフンと鼻息荒く叫んでいる。
「カシム、あんたはね、バイ菌に負けるかもしれない『弱っちい人間』なの!壊れたら部品を交換出来る機械じゃないんだから。……もっと自分を大事にしなさいよ」
その必死すぎる叫びが、冷たい水と一緒に肌に突き刺さった。
(……まいったな。本当に、何を言ってんだか)
自分を大事にしろ?
道具として、武器としてではなく、ただの「壊れやすい人間」として扱えというのか。
そんな道理、俺の生きてきた世界のどこを探しても転がっていなかった。
なのに、この世間知らずのお嬢さんは、俺が自分自身を「ただの道具」として扱ったことに、まるで自分のことのように憤っている。
「……へぇ。人間、ねぇ。……参ったな」
ぽつりとこぼれた独り言は、自分でも驚くほど湿り気を帯びていた。
石鹸の香りが、今までこびりついていた死の匂いを無理やり塗りつぶしていく。
だが、彼女のその意味不明な道理が、案外悪くないと思ってしまう自分が少し怖かった。
「……お待たせ。ほら、お望み通り石鹸で磨いてやったよ」
扉を開けると、そこにはまだ不安そうにこちらを伺っている彼女がいた。
「あーあ。せっかくの『掃除屋』の威厳が台無しだよ。……ま、とっくに引退したから、今さらどうでもいいんだけどねぇ」
いつものヘラヘラした笑みを作って、彼女の横を通り過ぎる。
けれど、思わず脇腹を手のひらで隠してしまったのは、たぶん、今の俺が彼女の言う通りの「弱っちい人間」に見えていないか、不安になったからだろう。




