76:檻の中身
「カシムは――操られてるの!!」
溢れた涙が次々と俺の頬を濡らす。
ミオは、俺のシャツを掴んだまま、悲痛な叫びを寝室に響かせた。
(……は?今、なんて言った?)
大きな瞳は充血し、苦しげに眉間に皺を寄せ、唇は戦慄いている。
ミオは苦悶の表情を浮かべ、冗談を言っている風ではない。
寝室に踏み入れた時から彼女の様子がおかしかったが、なるほど、何かまた勘違いを拗らせた可能性がある。
ミオは、俺が操られていると言った。
ーーでは、誰に?
彼女の口振りからして他人の仕業だと思ってないのは明白だ。つまり彼女の中での黒幕は、ミオ自身。
おそらく自分のスキルについて、彼女なりに何かしらの結論を出したのだろう。
その結果が、これか。
(……あーあ。こんなに泣いちゃって。バカだね、ミオは)
どんな思考回路でそんな馬鹿げた結論に至ったのかは不明だが、彼女は本気でそう思い込んでいるようだ。
ありもしない罪悪感に溺れ、無駄な自己嫌悪で潰れそうになっている彼女が可笑しくて、可哀想で、酷く愛らしい。
きっと、彼女は俺に言うつもりはなかったのだろう。その表情には微かな後悔が滲んでいる。
俺が正気に戻って、自分を拒絶するとでも思っているのか。
仮に操られていたとしても、それをわざわざ告げてしまう滑稽さと、甘すぎる彼女の善良さに口角が自然と歪んでいく。
溢れる笑みを堪える気も起きず、笑い声が漏れた。
「ふ、ふはっ。あはははっ」
「え……?」
ミオが呆然としたように呟いた。
だか、彼女に思考を巡らせる時間を与えるつもりはない。逃げられる前にミオの両手首を片手で掴み取る。
「わっ、きゃっ!?」
短い悲鳴。抵抗する間も与えず彼女を、そのままベッドへと押し倒した。
覆い被さって、完全に組み伏せてやれば、ミオは驚きか、恐怖で呼吸を乱していた。掴んだ手首を頭の上で固定してやると、ますます身体を縮こまらせる。
その罠にかかった憐れな獲物を思わせる態度が、俺の嗜虐心を煽った。
「カ、カシム……? なに、笑って……っ」
「いや? ずっと泣いてるから、そろそろ瞳が溶けそうだと思ってさ。――はいはい、そんなに怯えないの。可愛すぎてもっと虐めたくなるだろ」
そう囁いてやると、彼女の身体が強ばり、身を捩る。俺の手から抜け出そうと藻掻く無駄な努力が可愛らしい。
ミオの体温、肌の柔らかさ、そして、その精神の在り方。彼女を構成するすべてが俺を狂わせる。底なしの渇望に身を委ねて彼女の全てを暴いてしまいたい。腹の底に棲む昏い欲が理性の檻を喰い破ろうとする。……そろそろ俺も限界かも、なんてね。
震えそうな手を一度強く握り込んでから、ミオの涙に濡れた頬をそっと包み込む。親指の腹で、その目元から溢れ続ける大粒の涙をゆっくりと拭った。しかし、俺の指先に伝わる彼女の震えは、一向に収まる気配がない。
「ねぇ、ミオ。操られてるって、本気で言ってる?」
頬を撫でる手の力を少しだけ強めながら、俺は小首を傾げて見せた。ミオは喉をひくつかせながらも、必死に見つめ返してくる。
「だって……っ! そうじゃなきゃ、カシムが私なんかを……大事にするわけないじゃん……っ! カシムの優しさは、全部私のスキルのせいで、カシム自身の気持ちじゃないんだよ……!」
悲痛な声。けれど断固とした口調で彼女は訴える。
自分の言葉で傷付くなんて本当に馬鹿なミオ。
自傷行為とも言える底抜けのお人好しに毒気が抜かれてしまう。
ーーやはり彼女しか、いない。
「はいはい。落ち着いて」
俺はミオの涙を指先でなぞりながら、安心させるように柔らかく微笑みかけた。
「バカだねぇ。何がどうなったら、そんな巫山戯た結論になるわけ?」
「っ!!……だって!そうじゃないと説明がつかないじゃん! 」
そう言って、ミオは自身の考えを時折嗚咽混じりに語り出した。彼女の『仮説』の数々は確かに辻褄が合うところもある。
精算されない代償、終わりのない永久機関。そして幸運と不運の天秤。
これらには一考の余地がある。だが、ミオの仮説には決定的な誤りがひとつあった。天秤の片側にその身を乗せたのはミオでも、ましてやスキルなんて馬鹿げたものでもない。
ーー俺自身が自ら選んだのだから。
「そっかー。……ねぇ、ミオ。俺が心配?『私なんか』、なんてずいぶん可愛らしいことを言うね。……俺が大事にしてるのも、特別扱いしてるのも、その私だけなんだけど」
「心配に決まってるじゃない……。だって、私のせいでカシムが変わっちゃった。ーー本当にごめんなさい」
「俺が変わったのは否定しないけど、それは操られてるからじゃない。俺がそうしたいからだ」
俺が否定しているのに、なおもミオはボロボロと泣き、繰り返し謝罪を口にしている。
彼女が泣く理由も、傷付く理由も、俺の手によって齎されたものだけなら愛おしい。だが、今回は別だ。
俺の言葉よりも、ありもしない幻影を信じるのか。
(……だから、操られてないって言ってるのに)
ミオの涙を拭う指先に、ほんの少しだけ苛立ちが混ざる。
慰めるのも、大事にするのも、こうして傍に置いて甘やかしてやるのも、全部俺自身の意志だ。俺が、そうしたいからしているだけ。それなのに、彼女は頑なに信じようとしない。
何でこんなに簡単なことが伝わらないのか理解出来ない。
(まあ、いいか。伝わらないなら、他にもやりようはあるしね)
思考を切り替え、仕方なく拘束していた手首を解放する。代わりに彼女の身体を引き起こして、俺の膝の上に抱き上げるようにして跨らせた。両手で彼女の頬を包み込み、互いの吐息が触れ合うほどの距離で、見つめ合う。
「素直に喜んでればいいんじゃない?俺の特別なんて、世界中探したってミオしかいないんだからさ」
「そんなこと出来ないわよっ!!……っそれに、カシムにメリットなんて何もないじゃない!迷惑掛けて、助けて貰って……私、何も返せないっ!」
「ミオ。メリットなんて俺の傍にいるだけで充分。いい? どちらにしろ、結果は変わらない。君が俺を狂わせたんだとしても、俺自身の意志なんだとしてもね」
腕の中に収まる小さなミオ。俺が望むのは彼女の全てだ。だからこそ、俺の答えは決まっている。何度となく告げた言葉。
「ミオは俺のもので、手放す気なんてないんだから」
髪を梳き、背中を撫で、腕の中の彼女をひたすら慈しむ。こんな風に大事にするのはミオだけなのだと、彼女でも理解出来るように。
そうして、ようやく泣き止んだ黒曜石の瞳から最後の雫が瞬きと共に頬を伝う。
なんとなく勿体ない気がして舌先で掬ってやれば、ミオの身体が分かりやすく跳ねた。
「っな、な、な!?なにしてんの!?」
狼狽えるミオを見下ろす。
どうせ泣くなら、俺の手で泣かせたい。
俺が与えた理由以外で傷付くのなら、その頭の中にある余計なモノは全部塗り潰してしまえばいい。
彼女を大事にしたい。それと同じくらい壊して、啼かせたくて堪らない。相反する感情が混ざり合う。
彼女の言う通り、全てスキルの強制だったならただの『便利な盾』としてミオは救われたのにね。
遠くで理性の檻を噛み砕く、心地いい音が聞こえた気がした。
次回は来週の金曜か土曜投稿予定です。




