75:勢い余って
微かな足音と、爽やかな石鹸の香りが寝室に流れ込んでくる。
「愉快な格好してるね。……何、ベッドの真ん中で丸まってんの。新種の芋虫の真似?」
意地悪で、軽薄な揶揄いを含んだ声音のカシムが歩み寄ってきた。
「!!」
私は勢いよくベッドから顔を上げると、大急ぎで手の甲で目元を何度も強く擦る。
「誰が芋虫よ!?ストレッチしてただけだし!」
ベッドの端に腰掛けた彼の瞳を、まっすぐ見ることが出来ない。
目線をカシムの胸元に固定したけれど、それが失敗だった。まだ少し濡れている銀髪からぽたりと雫が落ち、カシムの首筋を水滴が伝う。はだけたシャツの隙間からのぞく鎖骨が妙に色っぽく見えて色々とまずい。何かイケナイモノを見ている気分になってソワソワする。
気まずくて逸らした先には罠があった。視線がエロ親父の如く舐めまわすようになってないか心配だ。
「……ん?」
私の視線の先に気付いたのだろう。カシムの唇の端が、愉しげに歪み、こちらに手を伸ばしてくる。
けれど、私に触れる前にその手が止まり、彼は銀色の瞳を細めて覗き込んできた。
今度は止まらず、伸ばされた手は私の顎を捉え、強制的に顔を上向かせた。嫌でも視線が交差する。
「ーーミオ?目が赤いよ」
「えっ!? あ、あはは、ちょっと目にゴミが入っちゃってさ!つい、 擦っちゃっただけだから!」
私はブンブンと激しく首を横に振り、カシムから逃れるようにしてベッドの上をずりずりと後ずさった。
まさか、バカ正直に「私のせいでカシムを変えちゃったかも。罪悪感と自己嫌悪で泣いてました」なんて言えるわけない。
「ふーん……ゴミ、ねぇ?」
そう言って、カシムはベッドに上がり四つん這いになって距離をつめてきた。そのまま、逃げ道を塞がれる。
正面から包み込まれるようにして抱きすくめられると、髪から落ちた雫が、私の首筋に冷たく触れた。カシムの体温と、石鹸の香りが私を支配していく。
「ゴミが入っただけねぇ? ……嘘が下手だね、ミオ」
「う、嘘じゃないってば……っ」
後ろめたさを抱えた私の鼓動は、焦りでさらにバクバクと早くなり息がつまる。
この男の温もりも、伸ばされた力強い腕も、本来なら世界で一番安心できる場所だった。だけど、これも全部、私の「死にたくない」という浅ましい願いが彼に強制しているだけなのだとしたらーー。
「ね、ねぇ!カシム!そんなことより、疲れてない!?マッサージしてあげようか!」
何とか別の話題を、と絞り出したのはかつて行って有耶無耶になったマッサージの提案だった。
あの時は結局マトモに出来なかったけれど、この腕の中から逃げるにはこれしか思い浮かばなかった。
背に腹はかえられない。それに少しでも恩返しをしたい気持ちも嘘じゃないし……。
「ん?ずいぶんいきなりだね」
「き、今日も助けてもらったし!ーーだから、ね!?感謝を込めて!是非マッサージさせて!!はい!横になって!」
捲し立てるとカシムは瞳を瞬かせた。私のあまりの勢いに気圧されたのか、それとも本当にただ意外だったのか、彼はしばらく私の顔をじっと見つめていたが、やがてふっと唇の端を優しげに緩める。
「ふーん……。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
カシムは意外にも素直に、ベッドの上にうつ伏せになって横たわってくれた。
ホッと息を吐き出し、腕の中から抜け出せた幸運に感謝しながら、彼の腰の横あたりに膝立ちになる。
「よし、じゃあ始めるよ! 痛かったら言ってね」
最初は、ただカシムの追及から逃れるための口実だった。
お礼と、罪滅ぼしの気持ちを込めて、一生懸命に手を動かした。
(……毎日大変だよね。私のせいで)
気付けば、頭を悩ませていたドロドロとした思考はどこかへ吹き飛んでいた。私は、彼の疲れを少しでも癒やしたい一心で、手に力を込めてカシムの肩や背中をマッサージする。
静かな寝室に、ベッドのシーツが擦れる微かな音と、私たちの衣服の擦れる音だけが響く。窓から吹き込む夜風が、カシムの髪を優しく揺らしていた。
真剣にマッサージを続けて数分が経った頃、カシムが心地よさそうに、ふっと目を細めた。
「……本当に、ミオと出会って自分でも信じられないくらい変わったよ」
それは、ぽつりと溢れた、どこか自嘲気味で、けれど酷く穏やかな呟きだった。
「以前の俺なら、こんな無防備に身体を触らせるなんて考えられない」
彼の声が、耳から脳を伝って、私の全身を凍りつかせた。
マッサージをしていた私の手が静止する。代わりに心臓がまたうるさく早鐘を打ち始めた。
(……あ)
全身から血の気が引いていく。
抑えようとしても、カシムに触れている私の両手が、激しく震え出すのを止めることができなかった。
「……ミオ?」
私の動揺に気付いたのだろう、カシムが声を掛けてきた。
彼はこちらを見たと同時に、身を翻して仰向けになると、横に膝立ちになっていた私の腕を掴み、そのまま自分の胸元へと抱き込んだ。
「わっ……!」
倒れ込んだ私はカシムの胸に収まり、その両腕で包み込まれる。彼の手が私の髪をそっと梳き、何度も優しく頭を撫で、背中を幼子をあやすように優しくとんとんと叩いてくる。
大事にされている。そして、これ以上ないほど甘やかされているのが伝わるーー。
「ミオ。ーーやっぱり様子がおかしいよ。何かあったでしょ?」
カシムの低く穏やかな声が頭上から降ってくる。
「今度は誰に唆されたの。俺に言って? ――始末してあげるから。メグル? それともレオ?」
「ち、違うの……本当にっ、なんでもなくて……」
彼の不穏混じりの優しさが辛い。すぐに誰かを排除しようとする。……それが、私の仮説に拍車をかける。その方が守りやすいからーー。
ーーまた、私のせいで誰かが巻き込まれてしまう。
カシムの言葉を聞きながら、私の目からは堪えていた涙がとうとうボロボロと溢れ出してしまった。
違う、二人は何も悪くない。悪いのは全部私。私自身が、彼をこんな風に狂わせてしまったんだ。
ポタポタと、止めどなく流れる涙がカシムの薄いシャツに染み込んでいき、じわじわと湿り気を帯びていく。
「心配しなくていいよ。ちゃんとミオに見えないようにするからさ」
私が泣いている理由はそんなことじゃない。けれど、カシムはなおも甘やかに、安心させるように囁く。その声があまりにも優しすぎて、我慢していたものが決壊してしまった。
「そういうんじゃないの……っ、カシム、ごめん。本当にごめんなさい……!」
私はカシムの胸に顔を埋めたまま、激情に駆られるように叫んでいた。
「何回謝っても許されない……っ、謝ることしか出来ない私でごめん……! 卑怯でごめんなさい! 一生、私を許さなくていいから……っ」
最後の方は、自分でも何を言っているのか分からないほど喉がひきつり、声は掠れ、それでも謝ることしかできなかった。
私はカシムを縛り付け、奴隷に仕立て上げている。最低だ。なのに、彼を失えば確実に死から逃げられない。言い訳しようのないほど自己中で最悪だ。
彼は、しばらく私を抱きしめたまま無言で背中を撫でていた。だが、やがて彼はふっと深く息を吐き出すと、私の背中に回した腕の力をさらに強めた。
「いいよ。ミオが何したって」
カシムの声は酷く平坦だった。それは、荒ぶる私の心情とは真逆で、全てを受け入れるような呟き。
支離滅裂で私の話なんて絶対、意味不明なはずなのにそれでも彼は揺らがなかった。
「ただ、俺から離れないなら何も問題ない」
「――っ! ダメなの……っ!」
その甘い毒のような言葉に、私は突き動かされるようにして上半身を跳ね起こした。カシムの胸から離れ、上から彼を見下ろす形になり、私の目から零れ落ちた大粒の涙が、カシムの頬を濡らしていく。
私はカシムのシャツを両手で掴み、激しく首を振って彼の言葉を否定した。
「本当は私、ここにいちゃいけない存在なの……! カシムに大事にされるような、そんな良い人間じゃない……!」
静まり返った部屋に私の声が木霊する。
「ごめんなさいっ!私、最低だ。カシムに大事にされる価値なんてないからっ」
ーーしん、と痛いほどの沈黙が空間を支配した。
「――ミオ」
沈黙を破ったのは、たった一言。静かに、けれど有無を言わせない重みを持って、カシムが私の名を呼んだ。
銀の瞳が、私を捕らえ動きを止めさせる。ただ私と目を合わせただけ、名を呼んだだけ。なのに私は金縛りにあってしまった。
「ねぇ。――俺の、言うことが聞けない?」
彼はただ静かに私を見据え、声音を低く沈める。
それは、逆らうことなど許されない『死神』としての威圧だ。
カシムを失うのが怖い。ずっと一緒にいたい。でも、今のこの関係が偽物なんだとしたら、私は――。
思考が白く染まる。
「ううん! 違う! そうじゃなくて……っ!」
私は涙で視界を滲ませながら、全力で叫んでいた。
「カシムは――操られてるの!!」
次回更新は来週金曜か土曜予定です。




