73:悪魔から逃亡のち、魔王に捕獲
掃除が行き届いた部屋。窓から差し込む穏やかな陽光。台所から漂ってくる、胃袋を刺激する美味そうな匂い。
地獄を逃げだし、たどり着いた先は俺が心の底から焦がれた穏やかな日常だった。
ーー表面的には。
(……クソが。毎日、毎日生きた心地がしねぇ)
部屋の隅、ソファの端で膝を抱えている俺はここに拉致られてからというもの日々、胃痛に悩まされていた。
理由は明白だ。この家の主であり、澪の保護者だと云う銀髪の男――カシムの存在である。
常に胡散臭い笑みを浮かべた男だ。地下の悪魔どもを「人間の強欲な悪意」とするなら、こいつは「人外の底知れない狂気」だった。俺のような『ネズミ』に対しては、徹底的に冷酷な本性を見せるくせに、『ある女の子』が絡む時だけはその残忍さは成りを潜め、普通の男と変わらない面を見せる。
その落差が気持ち悪い。
「カシム、今日のご飯もすっごく美味しかったー!あ、そういえば、あの柑橘のソース、お魚にも合うと思うんだよね」
「じゃあ、今度は白身魚で試してみようか。……ん?ミオ、髪が少し跳ねてるよ」
台所での片付けを終えて戻ってきたカシムが、ごく自然な動作で澪の髪に手を伸ばした。
正式にこの家の居候――実質的な軟禁状態だが――になって数日、俺は毎日このクソったれな光景を見せつけられている。
奴は澪の腰を引き寄せると、黒髪に指を絡ませ、愛おしげに撫で梳き始めたのだ。因みに、澪の髪は跳ねていない。
二人の距離の近さに、俺は居たたまれない。だが、奴は俺を気にすることなく澪の髪を耳に掛け、ついでとばかりに、リップ音を立ててこめかみへ唇を落とした。
「――っ、ちょっとカシム!? 人前で何してんの!? やめてよっ!」
澪が頬を染めて、カシムの胸を手で押し返す。
恥ずかしがりながら怒るその姿は、一見するとカシムを拒絶しているようだった。
だが、本気で突き放すような強さは微塵もない。それどころか、文句を言いながらも、結局は奴の腕の中に収まったままだ。
なんだかんだ受け入れている、その甘ったるい空気。
(……クソが、なんだこれは。バカップルのノロケを見せつける新手のプレイか?)
凄まじい気まずさに襲われた俺は、視線のやり場に困り、ただただ気配を消して石になるしかなかった。
なぜこんなクソ甘い空間に強制参加させられているのか。カシムへの恐怖と、お邪魔虫としての圧倒的な意心地の悪さが交互に押し寄せ、心が休まらない。
「あ、そうだ。澪の好きなハーブティー、切らしかけていたんだった。ちょっと庭から摘んでくるよ」
カシムが、名残惜しそうに澪の腰から手を離した。
その瞬間、奴の視線が、石になった俺へと向けられる。
「ネズミくん。わかってるよね?」
声音こそ穏やかだったが、向けられた眼光は完全に獲物の息の根を止めるためのそれだ。
言いたいことは何となく分かる。要は、『大人しくしてろ。澪に近寄るな』という、脅迫だ。
「すぐ戻るからね、ミオ」
「うん、いってらっしゃい」
奴の背中が遠ざかり、リビングのドアが静かに閉まる。
部屋には、俺と澪の二人きりになった。
(――クソっ!!やるしかねぇ……っ!!やべぇのは今更だ!!)
奴の鉄壁のガードが緩んだ、千載一遇のチャンス。
心臓が肋骨をぶち破りそうなほど激しく暴れる中、俺はソファから身を乗り出し、澪に向かって声を潜めた。
「おい、澪……っ!」
「ん? 環くん? どうしたの傷、痛む?」
「俺の体調なんざどうでもいい! いいから聞け、あの男――カシムはヤバい、マジでヤバいバケモンだ! お前、完全にあの男に騙されてる! 早くここを逃げないと、お前本当に取り返しのつかないことに――」
決死の思いで紡いだ警告だった。この短い付き合いでも分かったが、彼女はお人好しで世間知らずなものの、至って善良な普通の女の子だ。同じ日本人としても、男としても、この世間知らずをあの魔王の手から引き剥がさなきゃいけない。
だが、澪は危機感を覚えるどころか、「あぁ~……わかる?」と呟き、気まずそうに頬を掻いた。
「確かに時々不穏だし、過保護すぎるし、怒るとマジでエグいんだよね……笑ってても怖いとき、結構あるし」
「いや、そんなレベルじゃねぇぞ!?」
あまりの危機感の薄さに、俺は声を荒らげた。
「あいつ絶対、裏で何人かヤッてるって。お前、分かってんのか!?」
「あ、あー……あははっ、そうかもしれないね。………でも、私を助けてくれたのも彼なの」
澪は引きつった笑みを浮かべ、言葉尻を濁した。否定しないってことは、やっぱり薄々気づいてやがったんだ。
なのに、澪は俺の包帯が巻かれた身体を気遣わしげに見ると、困ったように眉を下げた。
「環くんは、さ……なかなか彼を信用するのは難しい、よね。態度は軽薄だし、胡散臭いし、意地悪だけど……でも、良い所もあるの。すぐには無理でも、ふたりが仲良くしてくれたら嬉しいな……なんて」
眉を八の字に下げ微笑む澪を見て、俺は口を半開きにしたまま、固まった。
カシムが血腥いバケモンだと分かっていて、その上で彼女は、あの男の隣に居座ってやがる。それどころか、俺とあの魔王が「仲良くする」なんて、飢えた猛獣と生肉を同じ檻に入れて友達になれって言うくらい無茶苦茶な夢物語を口にしている。
(ダメだコイツ……っあの魔王に完全に絆されてる!)
自ら進んであの猛獣の隣を選び、その牙すら「意地悪だけど良い所もある」で片付けている。お人好しにも程があるだろ。刷り込みという名の分厚いフィルターが剥がれない。
「違う、澪、お前が思ってる『ちょっと不穏で意地悪な男』のレベルじゃなくて、あいつは本物の――」
俺は、どうにかしてそのおめでたいフィルターを外し現実を教えるため言葉を重ねようとしたーー。
「お待たせ。いい子にしてた?」
リビングのドアが静かに開き、魔王が帰還した。
あまりにもタイミングが良すぎる。俺たちの会話をすべて盗み聞きしていたんじゃないかという恐怖に、総毛立つ。
「あ、カシム、おかえり!早かったね!」
澪は少し焦った様子でカシムが片手に持ったハーブを見つめながら、テーブルの空になった自分のカップを引き寄せた。
だが、その手元は落ち着きがない。直前の俺との会話に内心動揺しているのが丸わかりだった。
カシムが一度台所へ向かおうとし、澪はティースプーンに手を伸ばし、思いきり手元を狂わせた。
「あっ!?」
手が滑り、ティースプーンを取り落とす。落ちていくスプーンを咄嗟に掴もうと伸ばした澪の手が、逆にそれを勢いよく弾き飛ばしてしまった。
放物線を描いて吹っ飛んだスプーンが、近くの飾り棚の端に置かれていた、花瓶にクリーンヒットした。
コツン、と小さな衝撃。だが、何故か花瓶は、それだけでぐらりと大きく傾き――澪の頭上めがけて、真っ逆さまに落下してきた。
「危ねぇ!!」
「おっと。ミオ、気を付けないと」
予知していたような身のこなしでカシムが地を蹴った。瞬時に澪を抱き寄せ、軽い身のこなしで彼女を自身の腕の中へと保護した。
――ガツッッ!!!
「ぶふっ……!?!?っ」
衝撃に一瞬呼吸が止まり、蹲る。
真下に落下するはずの花瓶は不自然な軌道を描き、ソファから立ち上がりかけていた俺の胴体へと直撃した。
花瓶はそのまま床に落ち、派手に音を立て砕け散った。
「環くん!?」
カシムの腕の中から抜け出した澪が、驚愕の声を上げる。
そして彼女は、床に散らばった破片と、どう考えても不自然な角度で吹っ飛んできた花瓶の残骸を凝視し――すぐさま奴を睨みつけた。
「……ちょっとカシム!!! 今、何かしたでしょ!! またそうやって環くんに酷い事する!」
「まさか。澪を助けるのに必死で、足が当たっちゃっただけだよ」
へらりと微笑んでしらばっくるカシム。澪は「もう、嘘ばっかり!」と怒りながら、慌てて蹲る俺の元へと駆け寄ってきた。
「環くん大丈夫!? ごめんね、カシムが……っ。どこ当たったの? 見せて、痛いよね、本当にごめん……っ!」
澪は涙目で俺の顔を覗き込み、床にしゃがみ込んで背中を擦ったり、身体を支えようと手を伸ばしてくる。本気の、純粋な、同郷としての優しさ。
だが、その優しさが――今、この空間において最大の禁忌を産み出していた。
(待て……澪、頼むから離れろ……ッ!)
澪が俺に構うほど。
背後に佇むカシムから放たれる、底なしの独占欲と嫉妬の炎が、目に見えて燃え上がる。
奴の目から光が消え、絶対零度に変化しその銀色が無言で俺に告げていた。
――『次、その口を動かしたら、次は本当に顎の骨を砕くよ?』と。
ヒィッ、と喉が恐怖で鳴った。全身の震えが止まらない。
澪があいつの「大人気なさ」に気づいて怒ってくれるのは有り難い。有り難いのだが、そのせいで魔王の殺気がさっきの5倍、いや10倍になってこちらに突き刺さっているのだ。今はその優しさが命取りだ。
「環くん……? 本当に大丈夫?やっぱり手当てした方が――」
「いや、いやいやいや!! 平気だから! 何ともない、かすり傷だから!! だから頼むから、澪、もう俺から離れてくれ……っ!!」
最後の方は、必死の懇願だった。
「え? あ、うん……ご、ごめんね、痛かったよね……」
あまりの俺の拒絶ぶりに、澪は戸惑いながらも少し距離を取る。その瞬間、背後のカシムの殺気が、ほんのわずかだけ元の「猛獣レベル」にまで軟化した。
全然納得はいかないが、これ以上澪が自分を心配して構うほど、俺の命が秒速で削られる。
(クソったれ…! この家、猛獣の檻どころじゃねぇ……魔王の住処だ……!!!)
そんな俺の絶望など露知らず、奴は「さ、片付けちゃうから、澪は座って大人しくしててね」と、何食わぬ顔で微笑んでいるのだった。
次回更新は金曜か土曜予定です。




