0:リマングスタの邂逅
地獄の監禁生活が始まって、どれだけの時間が経ったのか分からない。
感覚の消えかけた身体で、俺は檻の隅、冷たい石の床をただ這い回っていた。
「……クソが。死んでたまるか。絶対に、生きて帰る」
毎日死ぬ寸前まで生命力を吸い摂られ、身体を刻まれては再生させられる無限の拷問。精神が擦り切れて、脳みそが完全にイカれちまう一歩手前。
ーーー終わらない悪夢の繰り返し。
次の実験の時間が迫る。廊下から、狂人どもの靴音が近づいてくるのが聞こえた。
もう、猶予はない。次の実験に引きずり出されたら、今度こそ俺の心は完全に壊れる。
その時、焦燥に駆られた俺の右手が、床の隅に転がっていた「何か」に触れた。
拾い上げてみれば、それは前の住人が残したものか、あるいは檻の補強が剥がれ落ちたものか、錆びた『鉄くず』だった。何の変哲もない、ただの金属のゴミ。
だが、それを握りしめた瞬間、俺の脳裏に、かつて町工場で嫌というほど目にしてきたかつての光景が蘇った。
工場の棚に転がっていた工具の規格。親方の手元。焼き入れの温度。金属の構造。
(武器でも、工具でもいい。この檻の鍵を、拘束を破れる『道具』があれば──!)
強く、血が出るほど強く、その鉄くずを握り締めると手の中のものが、まるで生き物のように熱を持ち、ぐにゃりと形を変えた。驚いて手を離すと、床には俺がイメージした通りのバールのような金属棒が転がっていた。
「あ……これ、が……」
脳裏に、研究員たちが言っていた言葉が過ぎる。天人が持つ、独自の『スキル』
何が起きたかは分からない。ただ、理屈は抜きにして、自分の手の中に「工具」が現実として存在している。それだけが、俺に垂れ下がった唯一の蜘蛛の糸なのは間違いなかった。
「ハ、ハハ……っ、上等だ。やってやるよ……!クソったれがっ」
俺は震える手でその金属棒を、まずは自分の足枷の隙間にねじ込んだ。
ピッキングなんて専門技術は知らない。だが、日本で叩き込まれた、金属の強度計算なら頭に染みついている。この単純構造の足枷の、どこが一番脆くて、どこに力をかければ壊れるか。
「……、らああっ!」
体重をかけ、テコの原理で一気に強引にこじ開ける。パキィン!と鋭い金属音が響き、足の拘束が床に転がった。今度は鉄格子の南京錠の隙間に金属棒を深く突き立てる。構造上、最も負荷がかかるシリンダーの根元を、力任せに引き絞る。グニャリ、と内部のピンがへし折れる感触と共に、錠前がガシャリと弾け飛んだ。
異変に気づいた見張りの魔術師が慌てて部屋の扉を開けて踏み込んでくる。
俺は開いた扉の死角から、そいつに向けて、全力で体当たりを喰らわせた。
「ぐはっ……!?」
不意を突かれてよろめいた男を突き飛ばし、俺はそいつが起き上がるよりも早く、地下施設の通路へと猛然と飛び出した。
「検体が逃げたぞ! 追え!」
背後から複数の足音と、怒号が響き渡る。
地下施設を必死で駆け抜け、なんとか夜の街へと脱出した。
だが、あの白衣の悪魔どもの仲間なのか、気味の悪い影のような追っ手たちが、執念深く背後に迫ってくる。
まともに武器を持たない俺は、逃走経路にある路地裏のゴミや、瓦礫を走りながら手当たり次第に掴み取った。
ーー思い出せ!さっきどうやって変化させたかを!!
落ちているただの小石を、踏めば靴底を貫通して肉を裂く『マキビシ』に、転がっている錆びた鉄の破片を、火薬の化学組成をイメージした、視界を奪う『即席の煙幕筒』へと変化させていく。
背後で爆発的な煙が上がり、マキビシを踏み抜いた追っ手たちの悲鳴が響く。追っ手どもを、物理と化学の知識で容赦なくハメて、足止めしていく。
だが、この奇妙な能力には、相応の地獄のような代償があった。
「が、あ、……つ、あああっ……!」
物質の形を変えるたびに、激しい頭痛が襲ってきた。神経が焼き切れるような感覚だ。
鼻の奥から熱い液体が垂れる。拭うと、手が真っ赤に染まっていた。視界が明滅し、肉体も精神も、とっくに限界を越えている。
(戻るかよ……。あの、地下にだけは、二度と戻ってたまるか……!)
追っ手を執念で振り切り、俺は這うようにして、夜陰に乗じて偶然見つけた大型の荷馬車。毛布や荷物が詰め込まれた狭い隙間へ身体をねじ込み、息を潜めた。
遠くへーーただ只管、ここではない何処かへ向かいたかった。
見つかれば即座に地下へ逆戻り。だから俺は、馬車を何度も、必死に乗り継ぐしかなかった。
馬車が最初の目的地へ辿り着き、御者たちが目を離した隙に荷台から転がり出る。
激しい空腹と、スキルを使いすぎたことによる頭が割れるような偏頭痛で、視界が歪んでいた。このままでは逃げ切る前に餓死するか、行き倒れる。
(……やるしかねえ。綺麗事言って死んでたまるか)
俺は抜け出す間際、馬車の荷台から、適当な外套と、衣類、いくつかの小銭が入った袋を盗み出した。
顔をフードで覆い隠し、盗んだ金で最低限の食料と水を買い、貪るように胃へと押し込む。
そこからは、綱渡りのような逃亡劇だった。
ある街では物資を運ぶ荷馬車に紛れ、またある街では家畜を運ぶ糞尿臭い馬車の底にしがみつき、見つかりそうになるたびに神経をすり減らした。
道中、頭を激痛が襲うたびに、俺はただ正気を保つためだけに自分の胸を何度も殴り続けた。鼻血を外套の袖で拭い、ボロボロになりながら、いくつもの街を経由してひたすら遠くへと移動を続ける。
そうして、幾日もネズミのように這い回り隠れ潜んだ先ーー。
周囲からは活気ある雑多な喧騒が聞こえてきた。
疲労のピークに達していた俺は、盗んだ小銭を震える手で店員へ渡し、食料と水を買い込んだ。
人目を避けてフードを目深に被り、干し肉を齧りながら周囲の声をじっと盗み聞きする。
「──おいおい、今回の仕入れは随分と奮発したな」
「当たり前だろ、ここはリマングスタだぞ? このくらいの品揃えじゃなきゃ、他の商人にすぐ客を奪われちまう」
ガヤガヤと響く雑談のなかで交わされた、その地名。
(リマングスタ……。ここが、あの実験室のクソ野郎どもが言っていた、ミレスティアの貿易都市か……)
そんなことを考えながら、ふらふらとした足取りで大通りの人混みへ這い出た、その時だった。
──ドッ!!!
前方不注意のまま、誰かと正面衝突した。
不意を突かれた鈍い衝撃に、そのまま石畳の上へ尻もちをついた。
「……っ、てぇな……」
頭痛のせいで、いつも以上に低い悪態が口から突いて出る。のそりと顔を上げぶつかった相手を確認する。
ーー周囲の音が、消えた。
「いたたた……お尻が……割れた」
目の前で、同じように地面に尻もちをつき、涙目でこちらを見る女の子。
目立つのはマズい。さっさと立ち去るべきだ。そんな考えはどこかへ飛んでいった。いや、正確には思い浮かびもしなかった。
「……日本人?」
(おい、待て……なんで、なんでこんなところに日本人がいるんだ……!?)
さらに俺を驚愕させたのは、その圧倒的な無防備さだった。
(しかも隠れもせず、なんで彷徨いてんだ!? まさかコイツ何も知らないのか!?)
俺の呟きに、女の子の黒い瞳が大きく見開かれ、震え出した。お互いに尻もちをついたまま、呆然と見つめ合う。
自分だって絶賛逃亡中の身だ。他人を気遣う余裕なんて、欠片も残っちゃいない。関われば自分の命が危ない。
ーーだけど。
このままこの女の子を放っておいたら、自分がミレスティアの地下で散々味わったあの地獄を目の前の女の子も、いずれ絶対に味わうことになる。
自分より見るからに年下の……女の子がーー。
「お待たせ。どうしたの、そんなところで座り込んじゃって。何かあった?」
ハッとして見上げると、買い物を終えた現地の男が、女の子の背後に音もなく立っていた。
気遣うような声を出しながら、その男の細められた視線が、ゆっくりと俺を捉える。
──っ!?!?
やばい。なんだコイツ。
ミレスティアの実験室にいたクソ野郎どもとは、まとっている格が違いすぎる。笑顔を浮かべているが、目が……。本物の、化け物だ。捕食者の目だ。
(このままだと、このガキはこの化け物の餌食にされる……!)
そう思った時には、身体が勝手に動いていた。
「来い……!」
俺は立ち上がろうとした女の子の手首を強引に掴んでいた。
背後の男が動くより早く、俺は外套の懐から、逃走中に完成させていた「円柱状の塊」を引っ張り出した。特製の煙幕筒。
俺はそれを、男の足元へ向けて思い切り叩きつけた。
激しい破裂音と共に、視界を埋め尽くす黒煙が爆発的に広がる。
これだけの煙と大混乱の中なら、いかに化け物からでも逃げられる。
「きゃっ、やだってば、放して――っ!」
抵抗する女の子の腕を引いたまま、俺は目隠しとなった黒煙を背に、薄暗い路地裏へと気力を振り絞って走り出した。
背後から女の子が男の名前を叫んでいるが、知るか。
(クソが、大人しく付いてこい! 助けてやってんだよ……!)
内心でそう毒づきながら、俺は命がけで、その同じ国の女を大混乱の市場から何とか助け出すのだった。
次回投稿は金曜or土曜予定です。




