-2:ボタン一つで、地獄行き
最悪だ。クソが。
何が「お疲れ様でしたー」だ。
深夜の残業明け、午前二時。工場の油と鉄粉の匂いがこびりついた作業着のまま、俺は駅前の自動販売機の前に立っていた。
工業高校を卒業してから三年間、クソ真面目に町工場で泥臭く働いてきた。親方に怒鳴られ、鬱屈としながらも、職人の世界ってのはこういうもんだと自分に言い聞かせて足掻いてきたんだ。
その日の残業は特にキツかった。納期の迫った金属パーツのバリ取りを延々と続け、身体は限界を迎えていた。腕がクソダルい。
「……コーヒーでも飲んで、帰って泥のように寝たい」
それだけを楽しみに、千円札を自販機に差し込んで、青く光るボタンを押し込んだ。
カチャン、と缶が落ちる音が響く。──はずだった。
ボタンを押した次の瞬間、強烈な立ち眩みのような感覚が襲う。視界がグニャリと歪み、自販機の明かりが、アスファルトの地面が、慣れ親しんだ深夜の日本の空気そのものが、一瞬で消え去った。
「……は?」
思わず間抜けな声が出た。
俺は瞬きのうちに見たこともない場所に突っ立っていた。
見慣れた月は消え、代わりとばかりに燦燦と照りつける日差し。足元はアスファルトではなく、歪な石畳。周囲を見渡せば、中世ヨーロッパの映画でしか見たことのないような、レンガ造りの古めかしい街並みが広がっている。
「いや、待て待て待て。おかしいだろ」
何度も目を擦ったが、景色は変わらない。すれ違う人間たちは、誰も彼もが麻のローブだの妙な革鎧だのを身に纏っている。
混乱する頭で、俺は自分の手を、文字を、近くの看板を見た。
驚いたことに、耳に入ってくる奴らの会話の意味が、なぜか一言一句完璧に理解できた。掲げられた看板もスラスラと読める。
「……嘘だろ。これって、まさか」
脳裏をよぎったのは、高校時代に暇つぶしで読んでいたネット小説の知識だった。異世界転移。神隠し。
正直に言おう。最初の数時間は、ほんの少しだけテンションが上がっていた。クソ忙しい工場での残業生活からオサラバして、選ばれし勇者か何かにでもなれるんじゃないかって、馬鹿な俺は一瞬だけ夢を見たんだ。
だが、そんな脳みそお花畑の妄想は、すぐさま現実の壁にぶち当たった。
当然、勇者として召喚されたわけでもなければ、親切に宿を提供してくれる美少女も現れない。
俺の手元にあるのは、財布と、ポケットの中のスマホ、タバコ、ライター。それから油まみれの作業着だけ。
身寄りもなければ、行く当てもない。見慣れない服を着た俺は、街の住人たちから「なんだあいつは」と露骨に不審者を見る目で遠巻きにされ、完全に孤立した。
腹は減るし、喉は乾く。どこに隠れればいいかも分からず、ただの浮浪者のように街を彷徨うことしかできなかった。
「おい、そこのお前。見かけない格好をしているな。止まれ」
背後から鋭い声が響いた。振り返ると、槍を手にした男が三人、こちらを鋭い眼光で睨みつけていた。全員同じ服装からして恐らく街の兵士なのだろう。
やべえ、職質だ。日本でも一度もされたことがないのに、まさか異世界で警察沙汰か。パニックになった俺は、両手を上げて素直に兵士たちの問いに答えるしかなかった。
「あ、いや、怪しいもんじゃなくて……俺、その、日本っていう遠い国からいきなりここに飛ばされて……」
まともに言い訳を考える余裕もなかった。だから、バカ正直に真実を口にした。
「聞いたことがないな……とりあえず詰所まで来てもらおうか」
咄嗟に逃げることも出来ず、俺は大人しく連行されて行った。
薄暗い取調室みたいな部屋で、机を挟んで兵士たちに囲まれる。
「お前、どこの回し者だ。見たこともない仕立ての衣服を着て、怪しすぎる。……おい、手荷物をすべて机の上に出せ」
観念した俺は、ポケットの中身をすべて机の上に並べた。
財布と、スマホ、タバコ、100円ライター。
財布の中身を出し小銭を手に取った兵士が、不審そうに眉をひそめる。
「なんだこのコインは……? 見たこともない文字だ」
「おい、こっちの板は何だ。鏡にしては黒いし、鉄でもない、見たこともない滑らかな素材で出来ているぞ」
不気味なものでも見るようにスマホを突つく兵士たちを見て、俺は誤解を解こうと焦って口を開いた。
「あ、いや、怪しいもんじゃなくて……その板はスマートフォンっていう、俺の国の機械なんです。……ほら、こうやって触ると画面が光るし」
俺がスマホの画面をタップすると、液晶が起動し、待受画面を表示する。ついでに、使い古したライターをカチリと鳴らし、小さな炎を灯してみせる。
「「「っ……!?!?」」」
兵士たちの呼吸が、一斉に止まった。
じっと手荷物と俺の顔を見比べていた先頭の年配の兵士が、ガタガタと椅子を鳴らして立ち上がった。その顔に浮かんでいたのは、容疑者を睨む警戒ではなく──驚愕と畏怖。
「魔力なしで稼働する、精緻な道具……。まさか、お前は……いや、貴方様は『天人』様なのですか!?」
さっきまで高圧的だった兵士たちが、持っていた槍を放り出してその場に膝をついた。石畳に額を擦り付けるようにして、俺に向かって平伏したのだ。
「は? え? 一体、何なんだよ」
戸惑う俺を他所に、兵士たちは顔を紅潮させ、震える声で捲し立てた。
「おお、なんという奇跡だ! 異界の知識を宿すという伝説の天人様に、まさか我らが出会えるとは!」
「天人様、どうか我らの無礼をお許しください! すぐに我が国の王城へご案内いたします。国を挙げて、あなた様を最高の環境でお迎えいたします。さあ、こちらへ!」
兵士たちの目は、まるで神仏を拝むかのように純粋に輝いているように見えた。天人がどういう存在で、この国でどう扱われるかなど何も知らなかった間抜けな俺は、その熱烈な歓迎ぶりに、完全に毒気を抜かれてしまったのだ。
(なんだ……俺、めちゃくちゃ崇められてる? 天人って、この世界だと国賓レベルで優遇される超VIPポジションなのか?)
「……あ、大仰にすんなよ。案内してくれるなら助かる」
俺はホッと息を吐き、立ち上がった兵士の案内についていくことにした。
満面の笑みを浮かべる兵士たちの瞳の奥が、欲望のギラつきに濁っていたことなんて、その時の俺は知る由もなかった。
優しい言葉と、恭しい態度。
そのすべてが、俺を最高級の『商品』として出荷するための罠だとも知らず、俺は自ら進んで、地獄への片道切符を掴んでしまった。




