70:髪一筋、血の一滴に至るまで
明らかに限界だった彼女は、ベッドへ降ろすと落ちるように眠ってしまった。
涙の痕が残る顔を眺めながら、俺は彼女の頬を出来るだけ優しくなぞった。
怯え、擦り切れ、結局はこうして俺に縋るしかなくなった、可愛くて可哀想な天人
ーーーミオが知る必要なんてなかったのに。
国に売れば一生遊んで暮らせるだの、指一本にすら値が付くだの。あの時、そうやって脅して俺に縛り付けておくだけで、十分だったんだ。
それなのに、あの時彼女があまりにも必死で縋り付いてくるから、あのまま有耶無耶にできなくなってしまった。
ミオの望みを叶えてやりたい、なんて。思わなければよかったよ。
俺に縋るような眼差しを向けた彼女を煙に巻くことも考えたがあいつがいる限り、それも時間の問題だ。
けれど――彼女がそれを望んだからといって、ミオを傷つけていい理由にはならない。
理不尽だろうが、ただの八つ当たりだろうが知ったことか。きっかけを作ったあの小汚いネズミを、このまま許してやる道理なんて、俺にはないのだから。
さて、どうやって落とし前をつけさせようか。
あーあ。……始末出来ないって最高に面倒臭い。ミオがまた怒るからしないけど。
……本当に俺も甘くなったもんだね。
ミオが掴んだままのシャツをゆっくりと剥がし、彼女の髪をひと撫でしてから、静かに立ち上がり寝室を後にする。
リビングのソファでは、男が警戒するようにこちらの様子を伺っていた。
(へぇ、逃げなかったのは、ある意味高評価。意外と賢いネズミなのかもね。おかげで手間が省けた)
「お待たせ。さぁ、今度は俺とお話しようか」
ゆっくりと距離を詰め、男の正面へ向かう。
薄っぺらい笑みを貼り付け、歌うように声を掛けた。
「ねえ、どんな気分? 優しいミオに助けてもらって、言いたいこと全部ぶちまけてスッキリした? 俺は世界一不幸なんだって叫びたかったんだろ?」
嘲るように煽ってやれば、案の定、男は激昂して目をギラつかせた。
図星を突かれて頭に血が上ったネズミが、見苦しい反論のために口を開きかけたが、それより早く声を一段落として畳み掛ける。
「……勘違いするな」
男を見据え、動きを止めるように圧を掛けていく。
ミオがこいつを構うことも度し難い。
「今回はミオの顔に免じて生かしておいてやったんだ。ーー彼女が知るべきことは俺が決める。これ以上、余計なことをベラベラとミオに吹き込んでみろ。……生まれてきたことを、心の底から後悔させてやる」
一歩踏み出し、男が座るソファの背もたれに手を付いて上から殺気を込めて睨み付ける。
「...……次は、ない」
男は喉を鳴らして完全に硬直した。彼我の差を正しく理解出来たのか、男の身体がガタガタと無様に震え出す。
――だが。
涙を滲ませ、今にも逃げ出しそうなほど萎縮しながらも、男の目に宿る憎悪の炎だけは、消えずに俺を睨み返してきた。
(ーーへぇ。しぶといな。完全に折れてもおかしくないのに……それなりに使えるかもね)
小さく口角が上がる。
まさか、まだ潰れないとは。あれだけ身体を弄り回されても生きてたのは、伊達じゃないってわけか。
ただの不快なゴミだと思っていたが、意外と頑丈らしい。
俺は男に向けた殺気を霧散させ、ソファの背もたれから手を離した。
「なーんてね。まぁ、今後は気を付けてくれればそれでいいよ」
肩をすくめておどけてみせる。だが、男を見下ろす位置は変えず逃げ場を塞いだまま、俺は本題へと言葉を繋げた。
ミオが起きてくる前に、さっさと済ませようか。
「ところでさ、お前がミオを連れ去る時に使った、あの奇妙な『道具』。……あれ、何?」
男はまだ荒い呼吸のまま、困惑と警戒の混ざった目で俺を見上げてくる。
「しかも、奇妙なことに路地裏ではあの場で、生み出されたように見えたんだけど?ーーいやぁ、不思議だねぇ?」
男の肩が、僅かに跳ねる。
(ーーいいね。分かりやすくて助かるよ。)
「し、知らねぇよっ!!お前の見間違いだろ!!」
「そっか。知らないかー。なるほどね。……さっきはミオに向かって、この世界に来て変わったことがあるはずだって叫んでたんだけどなぁ」
そう言いながら、俺は懐へ手を入れ、中に忍ばせていた『ある物』を男の前に掲げてみせた。
あの路地裏で男が作り出し、使う前に阻止した道具だ。
「……あ、そういえば、拾ったんだった。これ、どう見ても、この世界の技術で作られた代物じゃないんだよね」
男の顔から、血の気が引いていくのがよく分かった。男の退路を塞ぐために低く言葉を紡ぐ。
「もう一度聞くから、よぉく考えて。ーー本当に、知らない?」
男は青ざめた唇を戦慄かせ視線を彷徨わせるが、やがて小さく掠れた声を絞り出した。
「……あれは、俺の……能力だ」
「へぇ?」
「俺たち、天人が、この世界に来る時に……強制的に持たされる『固有の力』だよ」
(……スキル、ねぇ)
天人に関する伝承や、周期、万能薬の迷信――そのどれにも、そんな話は記されていなかった。
………あぁ、そっか。だから『幸運の象徴』ね。知識を齎すだけじゃなかったのか。
考えてみれば、誰も彼もが都合よく役立つ知識を持っているわけがない。それなのに、過去の天人の話はみな讃えるものばかりだ。興味がないと切り捨ててきた御伽噺にこんな隠し玉があったなんてね。
「へぇ……。じゃあ、お前は、そのスキルを使って道具を作り出したわけだ」
だから、わざわざ『魔力伝導糸』なんて悪趣味なものを。
てっきり万能薬の実験台にされているのだと思っていたが……なるほど、吸い出そうとしていたのはその『能力』の方だったわけだ。
(だとしたら、ミオのあの異常な『体質』は――)
森を歩けば魔物に狙われ、街を歩けば看板が落ちてくる。あれはただの不快な偶然でも、呪いでもない。
(この世界が与えた『固有の力』、あるいはそれに伴う代償ーー)
……以前感じたミオの不運が、明確な殺意に変わっているってのはあながち間違いじゃなかったか…ははっ、最高だ。
ねえ、ミオ。君はこいつの話を聞いて、この残酷な真実にどこまで気付いた?
「……ッ、何、笑ってんだよ……っ」
男の、怯えを含んだ引き攣った声。
言われて初めて、自分が酷く歪んだ笑みを浮かべていることに気がついた。
「いや? 別に」
スキルにしろ、代償にしろ彼女が追い詰められるほど、救えるのはこの世界で俺一人だけになる。
「お前のその『能力』、それなりに使い道がありそうだからさ。……俺の便利な『道具』として数に入れてあげる。感謝しなよ?」
男の価値。その利用目的。大体理解できた。まだ聞きたいことはあるが……そろそろ時間切れだ。
俺は寝室へと戻るため男に背を向け歩き出した。
「――待てよっ!!」
背後から、男の悲痛な叫びが俺の足を止めさせた。
俺の背中に向かって、男は必死に声を振り絞る。
「お前、さっき……『万能薬だの不老不死だの、そんなものはただの迷信だ』って言ったよな!? それを信じる奴らもいるって! ……だったら、お前だって本当はあいつを利用するために連れ回してるんだろ!?」
答える義務はない。けれど、忠告も兼ねて答えてやった。
「利用ねぇ…… お前を玩具にした連中のように?――はは、有り得ない。俺が利用するとしたら、それは彼女の『絶望』だよ。世界に怯え、俺に縋るしかなくなったミオは俺の用意した箱庭で一生過ごす。……それが、彼女のいずれだ。手を出すなら、国だろうが何だろうが全て始末してやる」
「お前っ……狂ってるぞ」
その言葉に、俺は初めて肩越しに男を振り返った。
ーーー自然と口角が上がっていく。
とてもじゃないが今の顔はミオには見せれないな。きっと怯えるだろうから。
「とっくに知ってるよ。それこそ、今更だ。ミオの世界には俺だけで十分なんだよ――せいぜい気を付けろ。ミオに近付くならお前も容赦しない。」
そう言って、俺は自身の左肩のあたりを軽く指差した。
「……あ、そうだ。最後にさぁ…」
どう振る舞うべきか、自分の立場を弁えろという言外の脅迫。こいつなら理解するだろう。
「...…その焼き印の紋章。お前って、ミレスティアの中央で捕まってた、間抜けな天人ってことで良いんだよな?」
「ーーっ!?」
「あはは、図星? ……まぁ、せいぜい俺の役に立ってよ。道具くん」
ーーー逆戻り、したくはないだろ?
今度こそ、俺は男に背を向け静かにその場を後にした。
次回投稿は金曜予定です。




