66:無知の知
翌日、私は店のカウンター奥に立ち、手元の大皿をこれでもかと磨き上げていた。
そうでもして手元に意識を集中させていないと、昨日あった出来事の数々が脳裏に蘇って、嬉しさと恥ずかしさでその場に転がり回りたくなってしまうからだ。
けれど、ふとした瞬間に私の右手は磨いていた皿を置き、自分の首元へと伸びていく。
彼が再び私の首につけたチョーカー
あのあと……帰宅後のカシムの雰囲気はいつもと違ってなんだか怖かった。あれは、どこまでが本気で冗談だったの?
もし、あのまま流されてたら?ーー私はちゃんと拒めてた?
その先を想像(妄想)して、ボっと顔が熱を持つ。
あわわわわっ!?ダメよ!澪!!ちゃんと関係をはっきりさせてないのにっそんなっ!!理性を持つのよ!!
ぶんぶんと激しく首を横に振り、自分の両頬をパチンと叩く。
ダメだ、これ以上昨日のことを考えるのは本気で心臓に悪い。
「……ハァ、ハァ、落ち着け……。何か、何か別のことを考えなきゃ……!」
ピンク色の妄想から抜け出すため、私は必死に「昨日あった、それ以外の出来事」を記憶の引き出しから漁る。全く別の記憶――。
真っ先に思い浮かんだのが、昨日宝飾店へ行く道すがら、街で見かけた「妙に賑やかだった光景」だった。
そういえば、昨日の港町はいつもと少し雰囲気が違っていた。
この辺りでは見かけないような、金や銀の緻密な装飾が施された豪華な馬車。それに、大きな商隊。危うくその中の一台に轢かれそうになったんだっけ。
(あんなに何台も連ねてどこに向かってたんだろう? 何かイベントでもあるのかな……お祭り的な?)
昨日は自分のことで頭がいっぱいだったから「なんかやたらと人が多いな」くらいにしか思っていなかったけれど思い返してみれば、賑やかな港町とはいえ、明らかに馬車や人の数がおかしかった。
「おいおいミオちゃん。赤くなったり難しい顔したりどうしちまったんだ?」
不意に掛けられた野太い声に、私は「へぁっ」と変な悲鳴を上げて飛び上がった。
慌てて顔を上げると、いつの間にかカウンターの向こう側に、常連の船乗りのおじさんがニカッと豪快な笑みを浮かべて立っていた。潮風に焼かれた浅黒い肌に、がっしりとした逞しい体格。いかにも海の漢、といった風貌のおじさんは、私の挙動を面白そうに覗き込んでいる。
「あ、あはは、いらっしゃいませ! いえ、なんでもないです、ちょっと朝の体操を……ね!」
「体操かぁ? 若いやつのやることは、年寄りにはさっぱり分からねぇな」
おじさんが首を傾げながら、カウンターの椅子にどさりと腰掛け「エール一杯」と注文がくる。私は真っ赤になった顔をごまかすように、大急ぎでエールを木樽から注いで差し出した。
おじさんは差し出されたジョッキを受け取ると、美味そうに喉を鳴らして一気に半分ほど飲み干した。ぷはぁ、と豪快に息を吐き出し、髭についた泡を手の甲で拭うと、今度は少し声を潜めるようにして身を乗り出してきた。
「――ま、ミオちゃんが元気なのは結構なことだが、街の方はそれどころじゃねぇ大騒ぎになってるぜ。なぁ、昨日街にやたら他国の豪華な馬車や商隊が多かった理由を知ってるか?」
「え? ああ、確かに見慣れない馬車がいっぱい走ってましたね。何かのお祭りですか?」
私が気楽に問い返すとおじさんはエールのジョッキをゴトッとテーブルに置くと、周囲の客たちにも聞こえないような低い声で言った。
「祭りどころの騒ぎじゃねぇよ。……なんでも、ついにこの国で『天人様』が保護されたんだとよ」
(――っ、!?)
「中央から、一斉にこの街のギルドや役所に連絡が回ってきたんだ。保護されたのは結構前らしいんだが情報は回ってたらしくてな」
全身の血の気が一気に引く、代わりに悪寒が背筋を駆け抜けた。
「へ!? へぇ……知らなかったなぁ……天人サマってど、どんな人なんでしょうネ」
必死に引きつる頬を笑わせ、平静を装う。おじさんは私の動揺に気づく様子もなく、エールのジョッキを揺らしながら熱っぽく語り続けた。
「そりゃ、天人様といやぁ、神の遣いって言われるくらいの知恵と知識を持った幸運の象徴なんだから神々しい御方に決まってるさ。ーーーそういや、少し前にも隣国で聖遺物が見つかったって一時期話題になってたもんな」
「!!?っあ!あぁあ……そ、そういえばそんな話もありましたねぇ~いやぁ、私ホント噂に疎くて。た、確か靴が見つかったんでしたっけ?……あは、あははは」
「そうそう!だが、今回は聖遺物じゃなくて天人様自身だってことで、各国の要人や大商人が、その知識を少しでも授かりたいってんで貢ぎ物を運んできてんだ。これからこの国の勢力図がひっくり返るかもしれねぇぞ。お偉いさん方もギラギラした目で血眼になってるらしいからな」
「勢力図が、ひっくり返る……」
理解していたはずだ。私は爵位と賞金の引換券。
世界を揺るがす、神の遣い。国家の未来を左右する、知識の宝庫。
この世界の権力者や大商人たちが、どれほど異常な熱量で「天人」という存在を追い求めているか。
昨日見た、あの人混みが今は怖い。最初の町で見た人の数なんてまだ少ない方だったんだ……。私は理解したつもりで、ちっとも分かってなんていなかった。
彼らが求めているのは、神聖な神の遣いなんかじゃない。自分たちの国を豊かにするための、あるいは他国を出し抜くための、都合のいい「生きたお宝」だ。
明日は我が身だ。私自身でも最近は天人なんて忘れてたも同然なのにこうやって、運命は冷水を浴びせてくる。
「い、いやぁ、本当にびっくりですね……! 世の中、すごいことが起きてるんだなぁ……!」
心臓が、うるさい。
私は今どんな顔してる?声は震えてないだろうか。
「あ、私、ちょっと奥の片付けしてきます! おじさん、エールの代わりほしかったらレオ君に言ってね! ご、ごゆっくりぃ~!」
私は手に持った大皿をカウンターに置き、仔鹿になった足を叱咤しながら、逃げるようにカウンターの奥へと退散した。
店の奥、完全に死角になった食材のストック置場へと飛び込む。
壁に背中を預けた途端、全身の力が抜けて、私はその場に膝を抱えてしゃがみ込んだ。
(怖い……。私には期待されるような知識なんて何もない……)
今の私には、冷たくなった指先を握り込み嵐が過ぎ去るのを待つように身を竦めることしかできない。
俯く私に被さるように影が差した。顔をあげるとそこには銀の瞳。彼は両手を伸ばして、その胸に抱き寄せてくれた。
「ずいぶん派手に取り乱してるね。天人の話、そんなに怖かった?ーー今更?」
彼の体温。匂い。少し早い鼓動。それらが私の世界を上書きしていくと、ようやく呼吸が落ち着いてきた。
「っだって!ーーこんなにも大事だなんてっ!分かったつもりになってるだけだった……。私、どうしたらいい?天人になんてなりたくない。私は、都合のいい道具じゃないっ」
声を震わせ、指先が白むほど彼の服を掴む。そんな私を、カシムはじっと見下ろし、やがてその唇の端を酷薄に釣り上げた。この男の瞳には欠片ほどの焦燥も、動揺もありはしない。
「どっかの捕まった間抜けな天人と違って、ミオには俺がいるだろ?」
「え……?」
カシムは私の頬を両手で包むと、その唇を触れ合わせるように顔を近付けてきた。
「君が誰のものか、忘れないで」
「だ、誰のって……そんなの……っ」
答えなんてひとつしかない。でも、私がそれを口に出すのを躊躇っていると、時間切れとばかりに口付けられた。啄むような触れ合うだけのキスが繰り返される。
「ねぇ、分かってるでしょ?それとも、俺に言って欲しい?ーーーミオは俺だけのものだって」
「ーーっ」
声が、出なかった。
傲慢で意地悪で誰よりも安心できるーー私の死神。
「…カシムの、ばか」
なんとか絞り出したのは、消え入るような精一杯の悪態。
素直じゃない私は熱を持った顔を隠すように、彼の胸元に額を押し付けた。
明日は更新お休みします。次回は金曜か土曜予定ですm(_ _)m




