64:キャットファイト
カシムが作ったご飯を完食し、身支度を整えて街へと出かけた私は、未だに顔が火照っていた。
今朝の自分が何をしでかそうとしていたか、未だ頭から離れない。あれでは痴女まっしぐらだ。……そんなバカな。気付かないうちにそんな破廉恥女になってしまっていたなんて……。それもこれも全部、隣を歩くこの男のせいだ。八つ当たりでも責任転嫁でも、そう思わなきゃ乙女的尊厳が粉微塵だ。
繋いだ手から上へ視線を上げると、彼も銀の瞳を楽しげに細めこちらを見下ろしていた。人の気も知らないで今日の彼もご機嫌だ。
童話の王子様みたいなんて一瞬でも見惚れた私が馬鹿だった。
「ミーオ?今日は人も多し躓かないようにね?時間はたっぷりあるからのんびり行こうか」
確かに、見慣れない商隊の馬車や買い物客でいつも以上に混雑している。……何かあったのかな?
「でも、早くチョーカー受け取りたいし……寄り道はそのあとでもいいんじゃない?」
半分は本音、もう半分はカシムの視線から逃げるように、気が急いて早足になる。
馬車の数もなんだか多い。ガタガタと激しい音を立てて馬車が真横を通り掛かった時、行き交う通行人に押し出されるかたちで私の身体が馬車の車輪側へとよろめく。
「あーーー」
「おっと。ほら、言わんこっちゃない」
危ない、と思うより早く、繋がれていた手が引かれ、同時に視界がぐるりと反転する。
カシムの反対の腕が私を支え、身体を密着させてくる。
「俺がいて良かったね?」
いつだって彼はこうやって、さも当然だと言わんばかりに助けてくれる。確かにカシムがいて良かった。でも、今朝のことがあるせいでまともにお礼も言えない。
「も、もう大丈夫だからっあの、もう放してっ」
「ダーメ。このまま歩くのと、抱き上げて運ばれるのどっちがいい?」
軽口を叩きながら、カシムは私の髪に隠れた耳に、そっと指を滑らせた。
………こんな選択肢、実質選べるのなんかひとつしかないじゃない。どちらも拒否したらこの男は間違いなく抱き上げる。絶対だ。私には分かる。
「……このままで、いいデス」
「残念。ーーじゃあ行こうか、ミオ」
結局、人混みを抜けるまでカシムに腰を抱かれた体勢のままだった。
しかし、ようやく私たちは露店が立ち並ぶ通りへとやってきた。腕からの脱出成功!ビバ自由! (片手のみ)
ずらりと並ぶ屋台を覗きながら歩くうちに、私の頭は、美味しそうな匂いと甘い誘惑に占領されていく。
香ばしく焼けたお肉や魚介、色鮮やかな果物の串。
カシムに買ってもらった焼き菓子を口に放り込めば、あまりの美味しさに一瞬で機嫌が上向きになる。
(あ、あっちの屋台のもすっごく美味しそう……!)
次に目をつけたツヤツヤのリンゴ飴の屋台に目移りしていた、その時だった。
「あら! カシムさん!!」
カシムの背後から聴こえた、高くて艶のある華やかな声。
聞き覚えのあるその響きに、私の心臓がドクンと嫌な跳ね方をした。私からはカシムの身体に隠れてしまって見えないけれど、間違いない。昨日、店でカシムを口説いていた女性――ライラさんだ。
「こんなところで会えるなんて嬉しいわ。今は仕事の空き時間なの。折角だし少しお話したいわ」
弾んだ声が近寄ってくる。おぉう、大胆だ。てか、昨日断られたんじゃなかったの?カシム言ってたよね!?結婚してるって言ったんだよね!?倫理観どうなってるの!?肉食系怖いぃぃぃ。
「いえ、忙しいので」
私がひとり、カシムに昨夜聞いた事の顛末を思い返していると彼の淡々とした返事が聞こえた。あ、ちゃんと断ってる。……良かった。
「そんな照れなくても……そうだわ! 今夜一緒に食事でもいかが?」
カシムの塩というか、もはや岩塩な態度をサラッとあしらい、なおも積極的に誘うライラさんの言葉。
それを聞いて私の中で、黒い感情が鎌首をもたげた。昨日からずっと燻っていた、あの嫌な嫉妬と独占欲だ。
(――嫌だ。カシムは私の……)
考えるより先に、私は繋がれていたカシムの手を、自分の方へと強く引っ張っていた。
「いえ、結構です。妻がいるので。そういった冗談は控えてください」
カシムがピシャリと言い放つと同時に、私は彼の背後から一歩前に出た。カシムの手を強く握り締めなんとか声を絞り出す。
「あ、あの! ……えっと、その、カシムの妻、で……す」
自分で「妻」と名乗る気まずさと、勢いで飛び出してしまった後悔で、言葉尻がどんどん小さくなっていく。
そんな私の様子を見て、ライラさんは驚いたように一瞬だけ目を丸くした。けれどすぐに、私を頭からつま先までさっと値踏みするように視線を走らせ、ふっと鼻で笑ったのだ。くそぅ、美人さんがやると迫力が凄い。
「ふふっ。……随分可愛らしい奥様ですわね? あら、そういえば昨夜お店にもいらしたかしら?」
「は、はい。いましたけど」
喉がヒリつくような緊張感の中、なんとか声を返す。ライラさんは艶々で綺麗にリップを塗られた唇で美しく微笑むと、私を試すような視線を向けてきた。目が、笑ってない。
「では、昨夜のことも勿論ご存知よね? どうしてその場で言わなかったのかしら? ……愛が足りないんじゃなくて?」
くすくすと、大人の余裕で私を煽ってくる言葉。
昨日は、事実を知らなかったから言えなかっただけだし!やられっぱなしで引き下がるなんて有り得ない。煽り耐性あると思うなよ!?
「昨日は仕事中でしたし、お客さん相手に無粋な真似をしたくなかっただけです。……それに、愛があるかないかを決めるのは貴女じゃなくて、私たちですから」
カシムの腕を胸に抱き締め、ライラさんの視線を真っ向から微笑み返してやった。
「私の夫を食事に誘うなら、まずはその妻である私を納得させてからにしていただけますか?」
カッとなった頭で出た完全な宣戦布告。
カシムが、小さく息を吹き出したのが抱えた腕から伝わってくる。カシムうるさい!今はそれどころじゃないのよ!大人しくしてて!
「あら……言うじゃない? でも奥様、そんなに旦那様を縛り付けようとすると、男の人は息が詰まって外に癒やしを求めたくなるものよ?」
いかにも大人の女性らしい、男心を分かったような揺さぶり。だけど、そんなことは関係ない。
「縛り付けてなんかいません。……それに癒しなら私で充分足りてます」
「ふふ、お熱いことで。でも、可愛らしい奥様じゃ、カシムさんのような素敵な男性の夜のお相手としては退屈なんじゃないかしら? 男の人はね、もっとこう……包容力のある大人の女性を求めるものよ」
なおも余裕を崩さず、私を子供扱いしてくるライラさん。私は抱きしめたカシムの腕にさらにぎゅっと力を込め、キラッキラの微笑み(カシムの真似)を彼女に向けて言い放った。
「カシムは毎晩、満足してますけど?今朝も私を放さなかったんだから。彼は私じゃないと満足出来ない身体なの。ごめんなさいね?」
ライラさんは、その女神みたいな微笑みを引き攣らせている。ふはは、見たか! 私の完全勝利よ!
「……おい、ライラ。こんなところで油を売って何をしている。商談の約束の時間だぞ」
ライラさんと表面的な微笑みを交わし目だけはバチバチとやり合っていると、人混みの向こうから仕立ての良い衣服を身にまとった、恰幅のいい男性が歩いてきた。
「あら、社長。申し訳ありません、今すぐ参りますわ」
声をかけられた瞬間、ライラさんは一瞬で雰囲気を切り替えた。
男性へ向けて美しく一礼したあと、ライラさんはゆっくりと私に向き直る。
「ふふ……可愛い奥様、意外とやるじゃない。今日のところは時間切れね。ーーカシムさん、奥様に飽きたら声を掛けてね、待ってるわ――じゃあね、おふたりとも」
ライラさんは私に見惚れるようなウィンクをひとつ残すと、男性の背を追って人混みの中へと去っていった。
途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れ、冷静な私が戻ってくる。あわわわわわわっ!?
「――――――――っっっっっ!!!???」
ち、ち、ち、違う!!!
何を言ってんの私は!? これじゃ痴女どころか、とんでもない大嘘つきの妄想女じゃん!!
慌てて胸に抱えていたカシムの腕を放そうとしたけれど、それよりも早く、カシムの身体が激しく震え始める。
「っ、く……ふ、はははははっ!」
「カシムうるさい!! 笑わないでよ!!」
「いや、だって……くくっ、ミオ、お前っ、最高すぎるんだけど……っ!」
「違うの!! 違うのよ!! あれはただのハッタリというか、カッとなってつい言っちゃっただけで!!変な意味は全くなくて!!」
私は彼の服を引いて必死に弁明するが、カシムは涙の浮かんだ目を細めて、お腹を抱えたままひぃひぃと笑いながら見下ろしてくる。
「くっ……ははっ……あぁおっかしい。はいはい。俺の可愛い奥さんは強いねぇ。いやー、まさかミオの口から『俺がミオじゃないと満足できない身体』なんてセリフが聞けるとは思わなかったよ」
「だから違うってばー!!」
「うんうん、そうだね。でも、あながち間違ってないよ? 俺、本当にミオじゃないと満足できないし」
「もう揶揄わないでっっ!!」
絶対嘘だ。私が慌てるのを楽しんでるんだ!
怒る私を、カシムはまだクスクス笑いながらも、宥めるように優しく頭を撫でてきた。
「ま、おかげですっきりした。あの女は幸運だ。首が繋がったんだからね」
ふ、不穏だ……。冗談、だよね?
カシムは意味深に笑うと、再び私の手をしっかりと恋人繋ぎで握り直す。
「邪魔者もいなくなったことだし。……ミオの大事な『チョーカー』、迎えに行こうか」




