60:命名・駄犬
「おっかしいな……。香辛料が、もうなくなってやがる。カシム、お前なんか知らないか?」
『潮風の亭』の厨房。大鍋の前に立つガロンが、怪訝そうな顔で激辛スパイスの瓶を激しく振っていた。それを横目に見ながら、俺は手元の野菜を刻む包丁の手を止めず、笑みを浮かべてみせる。
「さぁ、知りませんね。仕込みで少し多めに使ったか、あるいは――」
あるいは、目の前にいる俺が、すべて使い切ったかだ。
俺の脳裏に、二ヶ月ほど前の忌々しい過去が、蘇る。
あの時、馴れ馴れしいクソガキ――レオが、ミオの周囲をチョロチョロとつきまとっているのが最高に目障りだった。ちょっとした憂さ晴らしのつもりで、あの激辛スパイスをこれでもかとブチ込んだ賄いを喰わせてやったのだ。
……しかし、思い出すだけでも腹立たしい。
あのクソガキ、 一滴残らず完食しやがった。
「くそっ、仕込みの途中で切らしちまうとは。カシム、悪いが市場の香辛料屋までひとっ走り行って、買ってきてくれねえか?」
あのクソガキへの嫌がらせの代償が、今さらになって、返ってくるとは。内心で苛立ちが渦巻くが、仕方なく頷いた。
「いいですよ、行ってきます。ガロンさんは仕込みを続けていてください」
厨房を出て、ホールにいるミオの元へと歩み寄る。振り返ったミオの、その耳元へと視線を落とした。そこには先日、この手で開けたばかりの、蒼い雫のピアスが小さく揺れている。
「いい子で店番しててね、ミオ」
まだ完全にホールの安定していない箇所を気遣い、傷を刺激しないよう、そっと頬に手を添える。指の腹で彼女の柔らかな肌を包み込むように撫でながら、優しく囁いた。
「変な虫がつかないように、ね」
彼女が、一瞬で頬を染める。その愛らしい反応を焼き付け、俺はいくらか回復した機嫌で、一人市場へと向かった。
(ーーあのクソガキのせいで面倒くさいことになった)
行き交う買い物客の間をすり抜け、足早に突き進む。
香辛料を取り扱う店へ最短距離で向かい、素早くパシリを終わらせるつもりだった。
だが、世の中にはこちらの都合などお構いなしに、最悪のタイミングで現れる天敵というものが存在するらしい。
「あ! カシムさん!」
目的の店が見えてきた時、やけに聞き覚えのある大声が響いた。
回復したはずの機嫌がじわじわと目減りしていく。この声は……。
見たくもない視線をそちらへ向ければ、案の定、大きな木箱を両腕に抱えたガキが、千切れんばかりに片手を振ってこちらへ駆けてくるところだった。
千切れてしまえばいいのに。
「やっぱりカシムさんだ! ちわっす!」
「……ああ、レオくん。奇遇だね」
脳内でそいつの頭を何度も踏みつける想像をしながら、俺は薄ら寒い笑みを顔面に貼り付ける。
「レオくんも、何かお使いかい?」
「はい! 親方から、工具屋にこれを届けて、代わりに細かい部品を受け取ってくるように言われて。カシムさんは?」
「俺はガロンさんに頼まれてね。……厨房のスパイスが、なぜか急に底を突いてしまったから、その補充に」
あえて含みを持たせてみる。以前、お前が喰い尽くしたせいで、俺は今パシリをさせられているんだぞ、という無言の圧力のつもりだった。
だが、このガキにそんな嫌味が通じるはずもないのか、不思議そうに首を傾げている。
「おじさん使ったの忘れたんスかね?」
「どうだろうね?あの激辛のやつなんだけど……」
「えっ!あれっスか!? いやぁ、あのシチュー、マジで人生最高に美味かったなぁ! 俺、今でもたまに思い出すんスよ。また作ってください!」
一点の曇りもない笑みを向けられ、俺の貼り付けた笑顔の端がピキッと微かに引き攣る。
本当に、どこまでもこちらの神経を逆撫でしてくるクソガキだ。俺は出来る限り笑顔を崩さないまま、叶える気のない約束を交わす。
「そうだね。前にも言ってたっけ。……いいよ。楽しみにしてて。今度ね?」
「本当っスか!? やったー!そうだっ!俺、カシムさんの用事が終わるまでついてっていいっスか? 工具屋、すぐそこなんで!」
「は?」
駄犬のごとき無邪気さで、当然のように同行を決め込まれてしまった。
背後に巨大なストレスの塊を従える羽目になった俺は、天を仰ぎたい衝動を堪え、目的地へと足を進めるしかなかった。
ガキが横で「工具屋の親方がさぁ」だの何だのと楽しそうに囀るのを適当に聞き流しながら、俺は手早くスパイス瓶を購入する。これで目的は果たした。今度こそ一刻も早くミオの元へ帰る、ただそれだけだ。
「じゃあね、レオくん。俺は急ぐからこれで」
「あ、カシムさん! 待って、あそこ!」
お払い箱だとばかりに背を向けようとした俺の服の袖を、クソガキが遠慮のない力で引っ張った。
反射的にその腕をへし折ってやろうかと思ったが、ガキの目は、大通りから一本入った薄暗い路地裏へと真っ直ぐに向けられていた。
「女の人が、ガラの悪い奴らに絡まれてるッス!」
「……は?」
見れば確かに、数人の男たちが女を壁際に追い詰め、取り囲んでいる。
横目でレオを見れば、今にも木箱を放り出して路地裏へ飛び出そうとしていた。
(チッ……最悪だ。なんでこんな面倒なものを見つけるんだ、このクソガキは)
溜息を噛み殺し、俺は咄嗟にレオの肩を掴んで押し留める。
あの女がどうなろうと、知ったことではない。だが、ここでこの無鉄砲なクソガキを一人で突っ込ませて大騒ぎになり、警邏隊や野次馬が集まる事態になれば、確実に事情聴取などで足止めを食らう。そうなればミオの元に帰るのが何時間遅れるか分かったものではない。おまけにこいつに怪我でもされたら、店に戻った後の処理が最高に面倒くさい。
どちらがより楽か……天秤はすぐに傾いた。あぁ、面倒くさい。
「待って、レオくん。危ないから俺の後ろにいて」
一瞬で判断を終えた俺は、ガキを一歩下がらせて自ら路地裏へと足を踏み入れた。
「女性一人に、随分とみっともない真似ですね」
突然現れた男――それも、彼らより細身の俺を見て、男たちの一人が顔を真っ赤にして怒鳴り声を上げた。
「あぁ!? なんだてめえ、すっこんでろ!」
殴りかかってこようと大振りに突き出された拳を、俺は最小限の動きで躱す。同時に、すれ違いざまに男の足元へ、自分の足を引っ掛けた。
泥混じりの地面へ派手に顔面から突っ込んでいく男を見下ろし、俺は至極のんびりとした口調で、すっとぼけてみせる。
「大丈夫ですか? 段差に気を付けないと。……あぁ、そういえば、すぐそこを歩いていたら、警邏隊の方々がこちらへ巡回に来ているのが見えましてね。今から大声を上げて、ここまで呼んで差し上げましょうか?」
もちろん嘘だ。だが、男たちは地面に倒れた仲間を慌てて引きずり起こすと、「クソが、覚えてろ!」と捨て台詞を吐いて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
男たちが去った後、壁際にへたり込んでいた女が、衣服の汚れを払うのも忘れてこちらをじっと見つめている。それどころか「あの、お名前を伺っても……?」と、頬を染めて詰め寄ろうとしてくる。
「す、凄いっスカシムさん! 一瞬で追っ払っちゃうなんて、やっぱりめちゃくちゃ格好いい――」
「いや、偶然だよ。――で、私は急ぎますので、もう行くのですが……」
駄犬の言葉を適当に遮った。これ以上付き合ってられるか。前半は駄犬に、後半は女に向けて声を掛ける。
「彼をここに置いていきますから」
「え?」
驚く女の反応を余所に、ガキの肩をぽんと叩き、これ以上ないほどの笑顔を向けた。
「また絡まれたりしたら大変だからね。レオくん、彼女を安全な場所まで送ってあげなよ。俺は早く店に戻って、ガロンさんを助けないといけないからさ。……あとは頼んだよ」
「えっ!? あ、はい! 了解っす! お任せください!」
「じゃあね」
女の処理を丸投げすることに成功した俺は、懐の瓶の無事を確かめると、引き留めようと手を伸ばしてくる女を躱し、振り返ることなくその場を立ち去った。
「おう、早かったな! 助かったぜカシム」
『潮風の亭』に戻り、買ってきたばかりの瓶を差し出すと、ガロンが顔を綻ばせてそれを受け取った。
道中で余計な足止めを食らったわりには、時間はそれほど経っていない。
さっさとその場を離れ、ホールへと向かう。
カウンターの向こう側、ミオの姿が視界に入り胸の奥に燻っていたすべての不快感が霧散していった。
彼女のその細い身体を俺の腕の中へと引き寄せる。
「キャッ!? ……あ、カシム……っ」
「ただいま、ミオ。ちゃんと留守番できてて偉いね」
女はあのクソガキに押し付けてきたし、ミオはこうして俺の腕の中にいる。
「ふふっ……」
湧き上がる満足感に、俺は抱き締めた腕に少しだけ力を込めながら、とびきり甘い笑みを彼女へ向けるのだった。




