58:掌の上
帰宅して早々に、話をしようと私は胸の内で拳を握る。今度こそ、ちゃんと彼の本音と向き合おう。そう心に決めて、私は顔を上げた。
「あのさ、カシム」「ねぇ、ミオ」
重なった声が、静かな室内に小さく弾ける。
驚いて目を丸くした私と目が合うと、カシムは目を細め小さく笑った。
「……えっと、カシムから……」
「じゃあ、ミオ。昨日の話の続きをしようか?」
いつも通り、いや、昨日、私を回収した時と同じ、楽しげな笑み。
まさに今、切り出そうとしていた話題。その先を越され、私は「え、あ、うん……」と調子が狂う。
カシムは抵抗する間もなく私を横抱きにすくい上げ、ソファへ腰を下ろした。
「なっ、ちょっとカシム!?下ろしてよ、今は真面目な話を――」
膝から降りようとする私を、カシムは「はいはい」と軽い調子で受け流し、私の身体に回した腕に少しだけ力を込めてその動きを封じ込めた。
彼の熱で胸が早鐘を打つ。カシムにも伝わっていると思うと余計に恥ずかしい。
そんな混乱を見透かすように顔を寄せられ、吐息が触れる距離で銀の瞳が細められた。
「ねぇ、ミオ。君の『好き』っていう可愛い言葉、俺にもう一回聞かせて?」
艶っぽい声音に、血が一瞬で沸騰する。
「っ、そ、それよりも!!」
込み上げる熱に息が詰まり、話題を逸らすべく声を張り上げた。
「なんで……なんで昨日はあんな酷いこと言ったのよ!?」
ずっと胸に刺さっていた問い。
私の追及に、カシムはそれまでの蠱惑的な笑みが引っ込み、めずらしく歯切れ悪そうに視線を泳がせた。
「……言わなきゃダメ?」
「当たり前でしょ! ちゃんと話してくれないと許さないから!」
私が睨みつけると、カシムは諦めたように深くため息を吐き、私の右肩に額を預けて顔を隠してしまった。
彼の髪が私の鎖骨をくすぐる。
少しの沈黙の後、彼が渋々と零した。
「……怖かったんだよ、ミオ。君が俺から離れるのが。おままごとみたいな夫婦のフリを辞めようかと思うくらいには」
あの時の暴言はバカにして言ったんじゃなくて、怖くて出た言葉だったの……!?嘘でしょ!?普段から飄々として、要領も良くて怖いものなんて何もないって態度のくせに……。
ーーー本当にバカなんだから。
背中に回された彼の腕が、少しだけ強さを増して私を抱きしめた。
「昨日はミオの話を聞かなくてごめんね」
心細げな謝罪。
私はふっと力を抜き、「……もういいわよ。私も酷いこと言っちゃったし」と告げたが、カシムは私の肩口に額を預けたまま、しばらくじっと動かなくなった。
やがて、私の服を少しだけ握りしめ、ひどく悲しげにぽつりと問いかけてきた。
「ねぇ、ミオ。あんな酷いことをして、君を傷付けた俺のこと――嫌いになった?」
その声は、今にも消えてしまいそうなほど脆く、弱々しかった。
いつもは余裕たっぷりで意地悪な彼が、私の答えに怯えている。その脆さに、胸が締め付けられた。
(……そんなわけ、ないのに)
重くて面倒くさい、けれど彼なりの理由を知った今となっては、もう愛おしさしか湧いてこない。
私の胸の中で、彼を守ってあげたいような、激しい庇護欲がふつふつと沸き起こる。
「……き、嫌いになれるわけないでしょ……」
噛みながらも、素直に本音を漏らす。なんだろうこれ。カシムが可愛く見えてきた……。
それでもまだ不安そうな様子で顔を埋めている彼が、なんだか無性にいじらしく見えて、私は思わずカシムの頭を撫でようと、そっと右手を伸ばした。
私の指先が、彼の髪に触れる直前。
「―――じゃあ、好き?」
耳に届いた言葉に、私の動きがピタリと止まる。
差し伸べた手を空中で止めたまま、違和感を覚えた。
……カシムの肩が微かに、規則正しく揺れている。
「ねぇ、肩が震えてるわよ」
泣いているにしては、妙に小刻みで、どこか楽しげな振動。この男もしや……。
思わず声が低くなった私の指摘に、カシムはゆっくりと私の肩から顔を上げた。
そこにあったのは、先ほどまでの悲痛な気配など微塵もない、意地悪で楽しげなカシムの顔だった。哀愁なんてどこにもない。
「あーあ、もう少しだったのに。残念」
「なっ……!! あんた、騙したのね!? 嘘つき!!! サイテー!」
やっぱり性格悪いドS男だった!と頭にきて彼の胸をバシバシと叩いた。本当に最っ低!いつだってこの男は、人の純情を弄んで楽しんで!!
けれど、怒りに任せて彼を睨みつけているうちに、私は、はたと思い出した。
平然と嘘をつく男なのに。それなら、なぜーーー。
「……そういえば、なんで昼間、適当に誤魔化さなかったのよ? カシムなら、不注意で転んだとか、いくらでも嘘をつけそうじゃない」
私の追求に、カシムの唇に浮かんでいたニヤニヤとした笑みが消えた。
彼は珍しく何も言い返さず、ただ静かに視線を落として、私の手首に巻かれた包帯を見つめる。
カシムの節張った手がそっと伸びて、包帯の上から、手首を軽くなぞった。
「……俺は嘘つきだけどさ。これはなかった事にして笑うなんて出来なかったんだよ。……二度としないって約束する」
今度は本物の声音だった。私には、それを疑うことなんてできない。
「……わ、私もせっかくカシムから貰ったチョーカー投げちゃって……ごめん。大事にしてたのに」
カシムの胸元に視線を落としながら、謝罪を口にする。落ち込みすぎて地底まで埋まりそう。
「持ってるよ」
俯く視線の先に差し出された彼の掌の上には、失くしたはずの、あのチョーカーが収められていた。
「あ……! よかった……!」
安堵する私に、カシムは少し困ったように眉を下げてチョーカーを見つめる。
「でも、留め具のところが壊れてるんだよね。トップのフレームも歪んでるし……だからさ、明日は代わりになる違うものを探しに行こうか」
「え? ……ううん、違うのじゃなくて、これがいい。直して、またこれを使いたい」
カシムがくれた最初の特別なプレゼントだから、他のじゃダメなのだ。私の即答に、カシムは優しく目を細めた。
「そっか。……じゃあ、修理してもらいに行こう。――仲直りのデート、付き合ってくれる?」
デート。それは想い合う恋人達のお出掛け。
そこまで想像して顔がカッと熱くなる。でも、今度は逃げずに、私は彼の服の裾をぎゅっと握りしめて、小さく頷いた。
「……うん。行く」
「よし、約束ね」
カシムがそのまま間を詰めるように近寄ってーーー唇に、柔らかくて温かいものが、ちゅ、と軽い音を立てて触れた。
「――っ!!??」
唇を指で押さえ、パニックで言葉にならない悲鳴が喉の奥で止まる。
「そんなに驚かなくても。昨日あんなにしたのに、今更そんな反応されると思わなかったな」
「きの……っ、……っ!!?」
カシムの手が、私の顎をクイッと持ち上げ、親指の腹で、今触れたばかりの私の唇をなぞる。
「あ、あ、あれ……ッ!!!???」
弾かれたようにカシムの胸を突き放そうとするけれど、背中に回された腕のせいで殆ど距離が変わらない。
思い出した。恥ずかしさと混乱のあまり記憶の彼方に吹っ飛んでたけれど、あれ、私の――ファーストキスじゃん!!!
「……え、まさか本当に忘れてた?」
完全にパニックを起こして慌てる私を見て、カシムは一瞬目を丸くしたあと、「ふはっ」と声を上げて笑った。
「あんなに可愛く縋りついてきたくせに。本当にミオは面白いねぇ」
「ち、違うわよ! あの時は足に力が入らなかっただけだし!! もう離して!!」
どんなに手を突っ張っても、離して貰えないと悟った私は彼の胸元に思いきり顔を埋めて、視界をシャットアウトする。胸の中にあった悲しみは、いつの間にか彼の体温の中に綺麗に溶けて消えていた。
カシムの胸に顔を押し付けたまま、トクトクと響く彼の少し早い心臓の音を聴いているうちに、私の頭の中に、ふと、ある疑問が滑り込んできた。
(……あれ? 待って?)
よくよく考えてみたら、私の気持ちは完全に彼にバレている。
――なのに。
(……カシムから、告白に対する答え、まだ一言も貰ってないんだけど!!!???)
胸元でハッと動きを止めた私に気付いたのか、カシムが不思議そうに「ミオ?」と私の髪を撫でる。
催促するのってありなの!?なしなの!?どっち!!?




