56:フレンドリーファイア
そこにあったのは、見慣れた笑み。なのに、なぜか胸の奥がざわつく。
「……え?」
何言ってんのよ、この男。カシムはずっと人間でしょ。
意味不明な言葉に、首を傾げたけれど彼はそれ以上は何も言わず、ただ私をより一層強く腕の中に閉じ込めた。
「ちょっと、ねぇ。はなしてって言ってるでしょ」
「はいはい、酔っ払いは大人しくおねんねしてねー」
カシムは私の手からボトルをひょいと奪うと、レオ君の方へと放り投げた。「わっ!?」と、レオ君が慌ててそれを受け止める。
そのまま、私を横抱きにすくい上げると身体を反転させ、さっさと歩き出した。
「なに普通にかいしゅーしてんのよー 。人を荷物みたいに運ぶなあ」
腕の中で抵抗する私を、カシムの手が体重を預けさせるように優しく彼の胸板へと引き寄せる。耳元で低く落ち着いた声が鼓膜を揺らした。
「そろそろ疲れて眠いでしょ? 明日また話をしよう」
諭すような、優しい響き。その声音はお酒と、走り回ってとうに限界を迎えていた身体に睡魔を連れてくる。
今の彼は現れた時の不穏さを、綺麗サッパリ消し去っていた。それどころか、もの凄く機嫌が良さそうだ。
カシムは歩みを止めないまま、ひょいと首だけを後ろへ巡らせた。先程まで、一切居ないものとして扱っていたレオ君にこの時、初めて目を向ける。私のすぐ目の前で、どこに出しても恥ずかしくない爽やかで優しい「良き夫」の仮面が再装着されるのが見えた。
「レオくんも、こんな夜遅くまで妻に付き合ってくれてありがとう。夫婦喧嘩に巻き込んでごめんね? もう大丈夫だから、気を付けて帰ってね」
流れるような口上。嘘みたいだろ。さっきまでガン無視してた相手に言ってるんだぜ。
「……え? あ、え……?」
少し遠くなった背後から、レオ君の完全に困惑しきった声が聞こえてきた。
無理もない。一瞬でさわやかスマイルを浮かべて声を掛けてきたのだ。あまりの二面性と凄まじい温度差に、レオ君は置いてけぼりを食らっているに違いない。
(レオ君騙されないで! それ偽物だからー!!)
声にならない叫びを脳内で張り上げていると、カシムの腕がさらに強固に私を抱く。何故バレるのか。
直後、背後からタタタッ、と夜道を駆ける軽い足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……カシムさん!」
レオ君の呼び止める声が夜道に響く。カシムが歩みを止め、半身で振り返った。
少し離れた街灯の薄明かりの下、レオ君の姿が視界に映り込む。
彼は、腕の中に果実酒のボトルと、先程回収してきたデザイン画を大事そうに抱え直すと、睡魔と闘う私に一瞬視線を送り、力強く頷いた。
(……!! あの力強い頷き……意味深なアイコンタクト……もしやレオ君、私をこいつの魔の手から助け出そうと、引き止めに走ってきてくれたの……っ!?)
さすが私のマブダチ! おじさんたちの人情だけじゃなく、彼の友情も本物だった! さあ言ってやりなさいレオ君!「その手を離せモラハラ男!」って!
期待に胸を躍らせ、今か今かと彼の救いの言葉を待っていると、レオ君はカシムに向かって、真っ直ぐに声を張り上げた。
「……俺のせいで二人が喧嘩になっちゃったなら本当にごめんなさい!でも、ミオちゃん、本当にカシムさんのことが大好きみたいだからきっと何か誤解があると思うんです!……ミオちゃん!デザイン褒めてくれてありがとう!俺、親方に認めてもらえるように頑張るからね!カシムさんに手当しっかりしてもらってね」
(レ、レオ君ーーーーーー!?!? あんた何言ってくれてんのぉおおお!)
私を回収から阻止してくれるどころか、全力で元凶の元へと押し出しやがった。私の秘めた恋心が全力で追撃暴露される。何これツラい。死にたい。
「ち、ちが……っ、れおくん、ちがっ……! わたし、そんなことぉ……っ」
必死で弁明しようとするけれど、回らない舌のせいでただのフニャフニャした呟きにしかならない。
羞恥と絶望で消えてしまいたくなりながら、私をホールドしているカシムの様子を窺うと、彼の手が、一瞬、ピクンと微かに反応した。
レオ君からの致命的な一撃に、私は真っ白に燃え尽きる。このまま灰になって飛んでいきたい。
カシムは黙り込む私を気にする様子もなく、けれど一段と穏やかで輝く笑みを浮かべた。
「うん、ありがとう、レオくん。……ちゃんと、誤解は解くし、手当てもしっかりしておくよ。君も、夜道に気を付けてね」
「はい! よろしくッス! おやすみなさい!ミオちゃんまたね!」
よし、任務完了! と言わんばかりの清々しい笑顔で、レオ君はペコリと一礼して元気に去っていった。その手には、おじさんたちの人情(果実酒)と、未来への希望(デザイン画)がしっかりと握られている。
(またね、じゃないのよレオ君……! 私も連れてって……!!どうすんのよこれ!?本当に帰るの!?この状況で!?)
遠ざかっていく青年の背中を怨みがましく見送り、私はがっくりと項垂れた。
カシムは再び身体を正面に戻し、夜道を一歩、また一歩と進み始める。その歩みは、どこか軽やかで、弾んでいるようにすら感じられた。
「……ねぇ、かしむ」
彼に不満とか、怒りとか、悔しさとかそういった諸々を込めて声を掛ける。
だけど、呂律のせいで、凄んでみせたはずの声はマヌケな音になってしまった。解せぬ。
「なーに、ミオ? 眠いなら、寝てていいよ」
「……っ、そうじゃなくて! さっきのれおくんの、全然ちがうから! わたし、しょんなこと一言も言ってにゃい!!」
「へえ、そうなの?」
カシムは、ただ前を見据えたまま、クツクツと喉の奥で愉しそうに笑った。その振動が、密着した胸板を通じて私の身体に直に伝わってくる。
「でも、レオくんはミオは俺のことが大好きって言ってたけど? あの子、嘘をつくようなタイプには見えなかったなー」
「だっ、だからぁ! それはぁ、おじしゃんたちに、旦那のことどう思ってんだってしつこく聞かれたから……っ、その、場のくーきを盛り上げるためというか、おとにゃのたてまえというかぁ……っ!」
必死の言い訳を繰り出す私。しかし、口から出ているのは幼児退行したかのような壊滅的な呂律である。説得力など最初から存在しない。
「建前、ねえ」
カシムはそこで初めて、ふいと視線を私へと落とした。
街灯の光を反射して、彼の銀色の瞳がひどく愛おしそうに細められる。
「じゃあ、ミオが俺に掴み掛って『好きだって言いたかった』って言ってたのはなーに?」
「っひゃえ!?」
変な悲鳴が出た。
「凄い剣幕だったねぇ。俺、あんな熱烈な告白初めて」
楽しくてたまらない、といった風にカシムが微笑む。
死んだ。今度こそ完全に死んだ。
現れた時はあんなにガチギレしてたカシムが、いまや完全に上機嫌でこの上なく調子に乗っている。この男、今ならスキップしても不思議じゃない。
「そんなに俺のことが『大好き』なら、家でいくらでも続きを聞いてあげる。……ほら、着いたよ」
いつの間にか、見慣れた我が家の扉が目の前に迫っていた。
カシムは片手で器用に鍵を開けると、私を横抱きにしたまま、中へと足を踏み入れる。パタン、と背後で閉まった扉の音が、まるで世界の終わりを告げる警鐘のように聞こえた。
「さあ、ミオ。俺に君の本音をもう一回聞かせて?」
部屋の明かりもつけない暗闇の中、ベッドへと優しく降ろされながら、私は…………。




