55:酒は百薬の長と言うけれど
「へぇ、ずいぶんと楽しそうだね?ミオ」
背後の暗闇から、足音もなく、あの聞き慣れた声が私を呼ぶ。
(ついてこないでって言ったのにっ!本当に私の話なんて何も聞かないんだから!!)
私は怒りに任せて背後を確認する。予想通りそこには、月光を背に浴びて、静かに佇むカシムがいた。
彼は笑っていた。いつも通り気の抜けたようなヘラヘラとした、胡散臭い笑み。でもそれは、今まで私以外には見せなかった表情。少なくとも、他人の目があるところでは常に人の良さそうな爽やか好青年ぶってたはず。
酔った頭で、その微かな違和感に思わず首を傾げそうになっていると横からレオ君が私を背中に庇うように立ち塞がる。紳士。圧倒的紳士の鏡。良い子だぁ。
「……カシムさん?……っすよね?」
レオ君もどうやら、普段のカシムとのギャップに驚いている様子。レオ君、残念ながら店での方が偽物だ。
そんな外面を捨てたカシムは、レオ君の存在を道端の石ころ以下とでも思っているのか、少しも視界に入れず、ただ笑いながら、彼の肩越しにいる私だけをその銀色の瞳で捉えていた。その傲慢な態度がまた私の怒りに燃料を焚べる。
「遊びは終わり。――さあ、家に帰ろう?」
静かで底冷えのする、有無を言わせない声。それは提案の体を成しているが完全な命令だった。
普通なら、さっきまでの私なら、カシムの声に従っただろう。
しかし、今の私はおじさんたちのくれたお酒で完全に仕上がっている。怖いものなんてないのだ。
「……いーや! 誰が帰りゅか、このどくずやろぉ!!」
私は残り少ないお酒を一気に飲み干すと、レオ君の背中から飛び出した。威圧感がどうした!なんぼのもんじゃい! そのまま正面から突撃し、彼の胸ぐらを、思いきり掴みあげる。私の方が背が低いからものすごく不格好になるのも、また腹立たしい。なんでこんなに背が高いのよ!?縮んでしまえ!
「な、ミオちゃん!?」
背後でレオ君が驚愕の声をあげたけれど、知るもんか!
私はカシムの胸ぐらをガタガタと揺さぶりながら、睨みつけ、ありったけの鬱憤をぶつけた。
「なにしに来たのよ! いましゃら謝ってもおしょいからね!? 私をペット扱いしてきたこと、いっしょー後悔しにゃさいよぉ!」
「ミオ、お酒臭いよ。何呑んだの?」
「なんだっていいでしょ!?バカ!のんでり!もりゃはらおとこぉ!!わたしは……っ、わらしはただ、カシムのことすきだって、ちゃんと、しゅきだって言いらかったらけなのに!!あんたなんか――んむっ」
世界が、ぐらりと揺れる。
「……っ、や、ぁっ……カシ、ム……やっ」
怒りも悲しみも悔しさも、強引に塞がれた唇によってすべて飲み込まれた。
なんとかやめさせようと、その名前を呼んで抵抗するけれどーーー。
「――っ、少し黙って」
囁き声で遮られ、私の両頬を挟み込むように冷たい両手が添えられた。上を向いたままの形で顔を固定され、容赦のない、息が詰まるほど深く熱い口付けが降ってくる。何度も何度も角度を変えて、繰り返される熱。
アルコールの熱さなんて一瞬で吹き飛ぶくらい、カシムの舌が熱い。今の彼はどこか必死で、余裕がなくて、まるで私に縋っているみたいだった。頬を固定する彼の手にじわじわと体温が灯っていくのが分かる。
「ん……っ、ふ、ぁ……」
ようやく唇が解放された時には、私の足はすっかり役立たずになっていて、カシムに体重を預けていた。荒い息を吐きながら、涙の滲む視界でカシムを睨みつける。
彼は親指の腹で、私の濡れた唇を拭うと、耳元に顔を寄せて、聞き逃しそうなほど小さな声で囁いた。
「――俺に、ペットに口付ける趣味はないよ」
(……は? な、何それ、じゃあ、どういう――)
囁かれた言葉の意味が処理できなくて、口をポカンと開けたまま呆然とカシムを見上げた。そんな私を見て、彼は困ったように眉尻を下げ「ふはっ」吹き出し、泣き笑いのような顔をする。
そうして、まだ開いたままだった私の唇に、今度は触れるだけの軽いキスを落とした。
「あ……」
完全に思考停止した私を逃がさないとばかりに、カシムはその長い両腕ですっぽりと優しく囲い込んできた。背中に回された手が、身体に馴染んだ熱を伝えてくる。
悔しい。悔しいのに、この腕の中が一番落ち着くのもまた事実だった。
「さっきは酷いことしてごめんね?」
カシムの声が、私を甘やかし蕩けるような優しい音にするりと戻った。ずるい。あざとい。
私の耳の輪郭を、唇で軽く食むように触れる。
カシムの手が、私の手首にそっと移動する。彼が掴んでアザになった箇所を、長い指が壊れ物を扱うようにそっと撫でた。
その指先が、微かに、本当に微かに、震えているのが伝わってきて、怒りが萎んでいく。
「――仲直りしてくれる?」
あんなに酷いことを言われて傷付いたのに。
この期に及んで、まだチョロい私の頭は絆されそうになる。
(だ、ダメよ! 流されるな! 私は怒ってるんだから……っ!)
残った不満や鬱憤を総動員して、カシムの胸を叩いて、押してなんとか脱出を試みる。
「〜〜〜っ!! やら!絶っ対ゆるしゃないかりゃ!!わたしはー「でも、ミオは俺が好きなんでしょ?」
………は?
耳から入ってきた言葉の意味は、もちろん分かる。分かるけれど、私の脳がそれを理解することを全力で拒否した。
「は、はぁあああ!?ち、がうし!全然そんにゃことないしぃ!かんちがいだし!」
(――って、なんで知ってんの!? 誰だ喋った奴!!!)
まさかおじさんたち!? それともレオ君!? 心当たりがありすぎる。お酒の勢いでところ構わずさらけ出しすぎた。乙女の恋心はそんな大っぴらにするもんじゃないのに!!
「さっき大声で叫んでたよ。気付いてなかったの?」
カシムは呆れたように、だけどひどく優しい瞳で私を見つめる。
叫んだ? 私が? ……あ。
犯人は私だった。
なんで本人にまでぶっちゃけてんの……。
耳が熱い。顔を両手で塞ぎたいけれどボトルが邪魔で出来ない。苦肉の策で顔を見られないようにしたら、カシムの胸元に顔を埋めるかたちになった。誠に遺憾である。
自爆の気恥ずかしさにのたうち回っていると、カシムの両腕が引き寄せるように私の腰と背中に回りさらに密着させてきた。
「ちかーい! はーなーしーて!」
暴れる私の背中をあやすように撫でる。
「……本当にミオは凄いね。俺を人に出来るのは君だけだ」
ふと、カシムの口からぽつりとそんな言葉が零れ落ちた。
その声は諦めを含み、独り言のようにも聞こえて。
私は暴れることも忘れて、彼の表情を確認しようと視線を向けた。




