53:我慢の限界、迷子の酒盛り
ミオが、走り去っていく。
涙で頬を濡らし、俺に背を向けて。
(ーーーどうして、こうなった?)
俺が普段、どれだけ理性を削ってミオに触れていたか……。
力づくで暴き彼女の全てを貪ろうとする欲を抑え、ミオが壊れないように、俺はいくつも我慢を重ねていたのだ。
色事に慣れていないだろうミオのために、わざわざ子供騙しのぬるい触れ合いに留め、徐々に俺の熱を刷り込ませ、大切に、大切に扱っていたというのに。
『今の私たちって全然、そんなんじゃないのに、だからーーー』
――【だから、もうやめたい。こんな関係続けたくない】
全部、あのクソガキの余計な入れ知恵のせいか。
昼間、馴れ馴れしく視線を交わしていたあのガキに何を吹き込まれたか知らないが、離別の言葉が彼女から零れ落ちるのを阻止したくて、俺は柄にもなくミオの言葉を、幾度も遮り続けた。傷付き、瞳を潤ませていく彼女に気づいていながらも、俺は止まらなかった。
走る彼女の背が遠くなっていく。今、一歩足を踏み出すだけで、その細い身体を容易に組み伏せ、捕まえることなど造作もない。
『触らないでっ……!!』
脚を縫い止めるのは、今まで一度も聞いたことのない、彼女の悲鳴に似た怒声と拒絶の意思。
ゆっくりと視線を落とす。
足元には、投げ付けられた黒いチョーカー。それは留め具が壊れ、トップの石を固定しているフレームも歪んでいた。
(――そっか、なるほどね)
無理に引きちぎられ、見る影もなく壊れたこれは、今の俺たちの関係そのものだ。大事に囲ってきたけれど彼女にとっては、引きちぎり、投げ捨てたいほどのゴミでしかなかったわけだ。
ミオが俺を厭うならーーー。
だったらここから先、彼女がどれだけ泣こうが、嫌がろうが、もはや関係ない。元より、ミオの心まで望むのは、血腥い死神には分不相応な代物だっただけ。
(あーあ、せっかく、ミオのペースに合わせてたのに。今までの我慢がぜーんぶ台無しだ)
だからって今更、ミオを俺から解放してやるつもりなんて、微塵もない。
底なしの渇望と執着に突き動かされ、俺から手加減という意思が完全に消し飛んだ。
今度は簡単に壊れないように鉄鎖に繋いで、閉じ込めればいい。二度と余計なことに惑わされないように。
俺は壊れた首輪を拾い、今度こそ愛しい獲物を狩るために足を踏み出した。
カシムを振り切って飛び出し、どれだけ走っただろう。
全力で足を動かし続けた結果、足はガクガク。涙と鼻水、そこに夏のじっとりとした湿気と汗が加わり、ダブルパンチどころかフルボッコでぐしゃぐしゃのボロボロだった。
本当なら悲劇のヒロインの如く、綺麗な涙をポロポロと零し、小さな嗚咽を漏らすのが理想だが、理想と現実の乖離が酷い。
今の私は、さながら幽鬼のようにフラフラと彷徨っていた。
(……どこに行こう)
ふと我に返り、足を止める。
見渡せば、どこかも分からない路地裏。地図なんて持ってないし、頼れる知り合いもいない。
通行人の多い大通りは、この酷い顔を晒してはとても歩けない。私は影に隠れるように比較的暗い道を選びながら、街の一角にある、ひっそりとした広場へと辿り着いた。完全に迷子である。
昼間の熱気を微かに残した、花壇の煉瓦の縁にぽつんと腰を下ろす。
座った瞬間、張り詰めていた糸がぷつりと切れて、視界がまた激しく歪んだ。私は両膝に顔を埋め、声をあげて泣き出した。
「ぅうあああああああん!うぇっええあああああぁぁぁ……ばか、カシムの分からず屋! クズ! ドS!!モラハラヤロー!!」
よくもあんな酷いことが言えたものだ。こっちは毎晩、同じベッドに入るたびに心臓が何個あっても足りないくらい緊張して、意識して、必死だったのに。私の気持ちなんて何も知らないで。
ひとしきり大声で吠えて涙を流すと、少しだけ胸がすく。けれど、冷静になれば目下の問題が襲ってくる。
お金もない、居場所もない。完全に身一つで飛び出してしまったのだ。カシムのところには、意地でも帰りたくない。
……明日からどうしよう。
「お、おねーさん、一人? こんな所にいたら悪い奴に攫われるぞぉ」
突然、上から降ってきた濁った声に、びくりと肩が跳ねる。
見上げると、千鳥足の男が数人、ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて私を囲んでいた。お酒の匂いが鼻を突く。完全に出来上がっている酔っ払いだ。
(こんな人の少ない場所に来たら私の運なら何も起こらないはずがないのに!私のバカバカバカっ!)
自分の迂闊さを呪い、恐怖を感じながらも何とか追い払おうとした。
「……放っておいて! ひとりにして!」
「おっと、つれないねぇ。ちょっとお話するだけ――」
酔っ払いの一人が、私の腕を急に掴んでくる。
運悪く、そこはついさっきカシムに掴まれた箇所だった。
「――いっ……!!」
あまりの激痛に、喉から短い悲鳴が上がる。私が本気で痛がったからか、掴んだ男は「えっ、あ、ごめん!?」と急に素に戻って焦り、慌てて手を離した。
月明かりに照らされた私の手首には、赤黒い指の痕が、くっきりと浮かび上がっていた。
「おい、おい、その腕……おねーちゃん、それ、男にやられたんか?」
「酷いぞ、それ。大丈夫か?」
「待ってろ、店からなんか冷やすもん貰ってきてやっからな!」
酔っ払いたちは顔を見合わせ、急に同情の目を向けてきた。それから本当に、近隣の店から冷やしたタオルを持ってきてくれたのだ。
……あれ?もしかして、悪い人たちではなさそうな感じ?
(酔っ払いの優しさが身に染みる。ありがとうおじさんたち。最初酷いこと言ってごめんなさい……)
心配して事情を聞こうとする三人のおじさんたちに、私は鼻を啜りながら、やけくそで経緯を掻い摘んで話した。旦那と大喧嘩して暴言を吐かれ、引き留めようとする手を振り切って飛び出してきたのだ、と。
「なんてひでぇ男だ! こんな可愛い嫁さんにアザ作って暴言吐くなんて!」
「よし、姉ちゃん、呑め! そんな最悪な夜はな、忘れるに限るんだよ!」
「そうだ、そうだ!呑んで男のことなんか忘れちまえ!」
男たちは憤慨し、持っていた酒瓶や紙包みの乾き物を、次々に地面に広げ始めた。
(そうよ!呑まなきゃやってられないわよ!バカシム!人をペット扱いしたあんたが悪いんだから!)
差し出された果実酒を、私は勢いよく煽った。喉を焼くアルコールが、胸のモヤモヤを強引に押し流していく。飲みやすさもあり、どんどん杯を重ねた。
「しょーなんです! あいつ、いっつもヘラヘラしてて本心が全然分きゃんないんですよ! そのくせ、わらしのことぜーんぶわかった風でじゆーに出来ると思ってりゅんです!」
「分かる分かる、そういう傲慢な男、いるよなぁ!」
「まいばん同じべっどで寝るの、こっちがどりぇだけきんちょーしてたか、あいちゅの貧相な想像力じゃ一生気付けにゃいんです! あー、ムカつく! バカシムゥ!!」
気づけば、見ず知らずの酔っ払いおじさんたちと肩を並べ、即席の酒盛りが始まっていた。おじさんたちも「そうだそうだ!」「姉ちゃんもっと言え!」と大盛り上がりで、私はやけ酒の勢いに任せてカシムの愚痴をぶちまけまくった。
「『抱いて欲しいの?』ってそりゃそうでしょーよ!だってしゅきなんだから当たり前でしょ!れも言い方よぉ!あいつも結局からだ目当てのえしぇ王子と同じじゃない!!しゃいてーよ!ノンデリ男めぇぇ!」
鬱憤を吐き出し、アルコールの回った頭がふわふわとして、嫌なことを忘れられそうになっていた、その時。
賑やかな広場の喧騒を割って、少し離れた暗がりから、聞き覚えのある声が届いた。
「あれ……? ミオちゃん……?」
ピキリ、と私の身体が硬直する。
恐る恐る声のした方を振り向くと、そこには、信じられないものを見たというように目を丸くして立ち尽くす、レオ君の姿があった。
「え、こんな所で……何してるの……?」
夜の広場。見ず知らずのガラの悪そうな酔っ払いたちに囲まれ、カシムの悪口と愚痴を大声で叫びながら、やけ酒をかっ喰らっている私。
(嘘でしょ、待って、なんでこんなとこに――!?)
昼間あんなに格好つけてカシムとの関係に悩んで恋する乙女ムーブをしていたのに、今、人生で最高に終わっている姿を見られている。我ながら落差が酷い。
とんでもない気まずさと恥ずかしさで、私の酔いは一瞬で吹き飛んだ。




