52:外れた『首輪』
日が傾き、空には双子月が徐々に登る頃、ようやく『潮風の亭』での一日が終わった。
ガロンさんに「お前らも早く帰って休めよ」と送り出され、私たちはいつものように並んで帰路につく。
いつもなら、2人きりになった途端にカシムは「今日の晩メシ何がいい?」「疲れたでしょ?運んであげようか?」なんて、取り留めもない揶揄い混じりの軽口を叩きながら、私の反応を楽しむようにヘラヘラと締まりのない笑みを向ける。それが彼との日常だ。
なのに、今のカシムには、そんな様子が微塵もなかった。
(昼間、レオ君と話してたこと怒ってる……でも、ちゃんと距離取ってたのに……)
一歩、また一歩と夜道を歩くたび、隣を歩くカシムから、ひどく冷ややかな気配が伝わってくる。
ぎゅっとカシムの手を握りしめ、私は昼間のレオ君の言葉を反芻した。
『ド直球で「私のことどう思ってる?」って聞くのが一番手っ取り早くて確実だよ』
そうだ。今日こそ、ちゃんとこの男の本心を確かめるんだ。生唾を飲み込み、開口一番飛び出したのはーーー。
「あ、あのさ! 今日の夜は、一段と蒸し暑いね!」
「……そうだね」
「明日、雨なのかな!? あ、洗濯物、き、今日しといて良かったー、なんて、はは……」
「……」
(違う!天気の話はどうでもいいの! 何が洗濯物よ、馬っ鹿じゃないの!?)
決意したはずなのに私の口から出たのは、びっくりするほど、どうでもいい世間話だった。
焦りは募り、私はさらに空回りした勢いのまま早口でまくしたてた。
「あ、それと、今日の夜ご飯何にする!? ちょっとバテ気味だからさ、あっさりしたのがいいかなーって思うんだけど……カシムは何が食べたい?」
「何でもいいよ」
ピシャリ、と冷たく遮るような声。
めんどくさい。もの凄くめんどくさいし、何より、空気が重くて怖い。いっつもこれ!完全に第三者の存在が尾を引いている。何とか話を切り出そうとするけれど、なかなか核心に踏み込めない。出てくるのは、どこまでいっても言いたいこととは遠い話ばかりだった。
気付けば、とうとう私たちの家が見えてきた。
このまま中に入れば、またなし崩し的にカシムのお仕置が待ってるかもしれない。でもそれじゃもう嫌だ。私はその先が欲しい。女は度胸っ!!
その場に足を止め、繋いだカシムの手を自分の方へ引っ張った。
「――カシム」
私の声に、カシムがゆっくりと振り返る。
緊張して口がカラカラに乾く。乾燥した唇を少しだけ舐め、ずっと頭を占領していた疑問をやっとの思いで口にする。
「……私、今更だけどさ、この状態っておかしいと思うの」
こちらを見下ろす銀の瞳が不快気に細まる。
「何が?」
「だって、夫婦のフリってだけなのに……毎晩一緒に寝たり、その……。普通は、恋人同士とかがキスマークとか……そういうことをするわけでしょ? 今の私たちって全然、そんなんじゃないのに、だからーーー」
ーーーだから、演技とか設定じゃない、本物の関係になりたい。カシムにとって私は何なの?
「何が言いたいの?」
続けようとした言葉は、地を這う低い声に遮られる。いつもは飄々としている男の顔が、明確な苛立ちに染まっていた。
「……俺から離れたいってこと?」
「違っ……! そんなこと一言も言ってないでしょっ!そうじゃなくて、私は――」
「あのクソガキに何か吹き込まれたか知らないけど。次はあいつのところにでも行くつもり?……ミオに纏わりつくあのクソガキ、消してやろうか。そうすれば、ミオも少しは諦めがつくでしょ?」
あまりにも的外れで、意味不明な言葉。
「な、んでそうなるのよ!! レオ君は今、全然関係ないでしょ!? いい加減にしてよ、少しは私の話を聞きなさいよ!!」
どうやら昼間のレオ君との会話、そして最近私が避けていたこと。カシムの中ではそれらがすべて「ミオが俺から離れたがっている」という最悪の結論になったらしい。
「はぁ……」
焦って否定する私の言葉に被せるように、カシムは深く、苛立ちを吐き出すような溜息を漏らした。そのまま額にかかった前髪を、根元からグシャッと乱暴に掻き上げる。
乱れた前髪の隙間から覗く銀色の瞳は、私を射竦めるには充分な迫力が宿っていた。
「じゃあ何? おままごとみたいなごっこ遊びはやめて抱いて欲しいの?」
胸が、冷たい氷の楔で貫かれたような気がした。
頭の中が真っ白になる。
私は、不器用なりにカシムに本心を伝えようとしていたのに。私をちゃんと「一人の女の子」として見てほしいって言いたかったのに。
それを、こんな、最低で、酷い言葉で踏みにじられるなんて思わなかった。
「……っ、なんで、そんな言い方するのよ」
視界が急激に涙で滲んでいく。けれどカシムは、そんな私を見てもなお、凍りついたような銀色の瞳を細めるだけ。
感情がぐちゃぐちゃになって叫ぶ私に、カシムは淡々と告げる。
「ミオは何も考えず、俺の傍にいればいいんだよ」
「何も考えずって、じゃあ私の気持ちは!?」
私の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ落ちた。もう限界だった。二ヶ月間、一人で悩み続けて、苦しくて、それでもカシムが好きだから離れたくなくて堪えていた何かが、完全に破裂した。
「カシムは、私が人形みたいにしてればいいと思ってるの!? 何も考えず、何も言わず、ペットみたいにカシムの好きな時にだけ構われる存在になれって言うの!?」
「ミオ、俺は――」
「いっつもそう! どうせ私なんて、適当にあしらって、好き勝手に手のひらで簡単に転がせるおもちゃだと思ってるんでしょ!?」
私は、首元の黒いベルベットのリボンに手をかけた。
カシムが私に巻いてくれた、束縛の象徴。
「私は――あんたの暇つぶしのペットじゃない!!!」
ブチ、と鈍い音を立てて、私は自らそのチョーカーを引きちぎるようにして首から外した。
そして、カシムの胸元めがけて、ありったけの怒りを込めて全力で投げつけた。
パシッ、と小さな音を立てて、黒いリボンがカシムの胸に当たり、そのまま石畳の床へと力なく落ちていく。
「ミオ……ッ!」
絶対に外すなと言われた「首輪」を投げ捨てた瞬間、カシムの瞳が驚愕に大きく見開かれた。初めて見る、彼の焦燥に染まった顔。
彼の手が私に伸びるよりも早く、私は涙を拭うこともせず、カシムに背を向けて走り出そうとした。
ーーーけれど、私がカシムの反射速度に勝てるはずがない。
「待て、ミオ!!」
カシムの手が、私の左手首を強く掴む。それは骨が軋むほど強引で、圧倒的な力。
普段のカシムは、いつだって優しく加減されていた。お仕置きだと私をベッドに組み伏せるときだって、抱きしめるときだって、私が痛みを感じたことは一度もなかった。いつだって安心してその身体に身を任せられたし、その強い力は、私を守るために使われていたはずなのに。
「触らないでっ……!!」
私は今までカシムに一度も向けたことのない怒声を張り上げた。私の初めての、本気の拒絶。
けれど。
カシムの手は、ピクリとも動かなかった。
私がどんなに腕を引き、爪が食い込むほど力を込めても、彼の手はまるで石像のように微動だにしない。加減を忘れた彼の力は、どうしようもないほど残酷だった。抵抗すればするほど、私の手首はミシリと不穏な音を立てて軋む。
「っ……痛っ!!」
「!!」
私の悲鳴と、苦痛に歪んだ顔を見た瞬間。
カシムは掴んでいた私の手首から、弾かれるように手を離した。
「ミ、オ……俺は……」
自由になった手を、私は反射的に胸元に抱きしめる。手首には、すでにカシムの指の形が深く残っていた。
「――カシムなんてもう知らない! もう一緒にはいたくない!!」
こんなにも悔しくて、涙が止まらないのにそれでも、嫌いだとは言えなかった。
赤く痕のついた手首をもう片方の手で庇いながら、涙でぐしゃぐしゃの顔で、私はカシムを激しく睨みつける。
手を離したカシムは、自分の手のひらを見つめたまま、立ち尽くしていた。今すぐにでも私を組み伏せて連れ戻せるはずの男が、金縛りにでもあったように動けなくなっている。
私はそのカシムに向けて、昂った感情のまま『嫌い』の代わりに別の言葉を叩きつけた。
「絶対についてこないで。――来たら、一生許さないから!!」
カシムの銀色の瞳が、大きく揺れる。
その姿を最後に、今度こそカシムに背を向け後ろを振り返る余裕もなく、がむしゃらに夜の街へと走り出した。
ただ、首元を通り抜ける夏の夜風が、涙で濡れた肌に、ひどく冷たくて痛かった。




