50:そろそろ煮凝り出来そう
あの時、カシムに「何考えてた?」と聞かれ、私がどう返したかは、正直あまり覚えていない。確か「今日のまかないは何かなって!」とか、そんなアホ丸出しの言い訳でその場をどうにか切り抜けた気がする。
――それから、約二ヶ月が過ぎた。
季節はすっかり移り変わり、照り付ける日差しと夏の風が街を吹き抜けるようになっていた。
自分の気持ちを自覚してからの二ヶ月間、私の頭の中は一瞬たりとも休まる暇がなかった。
なぜなら、私の「貞操観念」と、膨らみ続ける「乙女心」が、毎日頭の中で激しい大喧嘩を繰り広げていたからだ。
『よく考えて!私たち、夫婦のフリをしてるだけでしょ。 そんな関係なのに、毎晩カシムとくっついて眠るのが定番化してるなんて、おかしいでしょ!?』
そうやって理性が訴えてくる。
なのに、私は、カシムの腕の中に収まっている時のあのどうしようもない温かさや、彼に触れられている甘い時間を、どうしても『やめたくない』と願ってしまうのだ。
(駄目だって分かってるのに、離れたくないなんて……あー、もう、私どうしちゃったのよ……)
そんな矛盾したことを抱え込んでいるせいで、この二ヶ月、私はカシムの前で分かりやすく挙動不審を連発していた。
『最近どうした? 俺に言いたいことあるの?』
仕事中や家でのふとした瞬間に、銀色の瞳で見つめられ、そうやって核心を突かれることが度々あった。
『え!? いや何にもないよ!? 気にしすぎじゃない? ほら、最近暑いから、ちょっとバテてきたのかも!? あ、さっき使った布巾片付けてなかった!!』
その度に私は心臓をバクバクさせながら、何とか誤魔化し、文字通り脱兎のごとくその場から逃げ出していた。
カシムを前にすると以前より緊張して、どんどん会話も避けるようになってしまい、私の脳内はいよいよ煮詰まってキャパオーバーを起こしていた。近頃では、自分の気持ちを自覚する前の私ってカシムにどんな風に接してたかも分からなくなってきた……。
「――はい、ミオちゃん。これ、三番テーブルへ追加のコーヒーね」
「あ、はーい! ありがとう、レオ君!」
トレイを差し出してくれた彼に、私は慌てて笑顔を貼り付けた。
今日は、レオ君の出勤日だ。
ここ一、二ヶ月の間、一緒に店の忙しい修羅場を何度も乗り切ってきたことや、レオ君の人懐っこさもあって距離はすっかり縮まっていた。今では気楽に何でも話せる、気の良い友人という、私にとって貴重なポジションになってくれている。屈託のない笑顔に癒される日々だ。
お昼のピークタイムが一段落して、昼営業の休憩タイム。
ガロンさんは買い出しに出ており、カシムが「倉庫に、夕方用の酒樽を取りに行ってくる」と席を外した。
厨房とホールの間に、珍しく二人の時間が訪れる。私はテーブル拭きを、レオ君はキッチン奥でグラスを磨いていたが、不意に声を掛けてきた。
「ねえ、ミオちゃん。……最近元気ないけど、どうかした?」
「えっ? ううん、そんなことないよ? 元気元気!」
「嘘だぁ。いつもより返事のキレが悪いし、なんか、ずーっと遠い目をしてるもん」
レオ君はふんわりとした優しい笑みを浮かべ、手をとめてカウンターへ身を乗り出してきた。
「もしかして……カシムさんと喧嘩でもした? 大丈夫?もし何かあったらさ!愚痴とか何でも聞くからさ!」
その真っ直ぐで優しい気遣いが、ひとりで悩み続けて限界を迎えていた私の胸に、じんわりと染み込んでいく。
本当の理由――「演技の夫婦なのに本気で好きになっちゃった」とか「ペット扱いなのか、ワンチャンあるのか分からない」なんてことは、絶対に言えない。
けれど、誰かにこの苦しさを少しでも聞いてほしくて、私は本当の理由はぼかしたまま、ぽつりと小さな弱音をこぼしてしまった。
「……喧嘩、っていうわけじゃないんだけどね。その、カシムが私のことを、本当はどう思ってるのかなって……ちょっと不安になっちゃって」
「カシムさんが?」
「うん。……大事にしてくれてるのは凄くよく分かるんだけど、それがどういう意味なのか、全然分からなくて。いつも私ばっかり必死になって、振り回されてる気がして…」
布巾をぎゅっと握り俯く私を見て、レオ君は一瞬だけきょとんとした顔をした。けれど、すぐに「なーんだ」と言いたげに、真っ直ぐで爽やかな笑顔を咲かせた。
「えー! ミオちゃん、そんなの考えすぎだって!だって二人は、駆け落ちしてまでここに来たんでしょ?」
「え?」
「カシムさんはミオちゃんのこと、すっごく好きだと思うな。あんなに四六時中、誰かを視線で追ってる男の人、俺初めて見たもん」
「そ、それはただの観察っていうか、暇つぶしっていうか……」
「またまたー。てか、なんで今更そんなこと疑問に思うの?」
「え!?あっ……!!なんて言うか、こう……私、カシムに迷惑掛けてばっかりだし、だから私に対しても、愛情っていうよりは、別の何かなのかなーって!ほら、珍しいペットを拾って、義務感で世話してるだけ、みたいな!?」
両手を振って誤魔化そうとする私に、レオ君は「ありえないでしょー」と呆れたように笑いながら、さらに言葉を続ける。
「ペット相手にあんな目になるわけないじゃん。んー……じゃあさ!」
レオ君は、良いことを思いついたと言わんばかりにパッと顔を輝かせる。その様子は、まるで褒めてほしくて飼い主にじゃれつくワンコのようだ。
「男って、結構単純なところあるからさ。ミオちゃんみたいな可愛い人が、ちょっと素直に甘えてみたら、すぐに機嫌が良くなって本音を言ってくれるよ。例えば、こう……袖をきゅっと掴んで『私のこと好き?』とか聞いてみるとか!」
「そ、袖!? 私がカシムに!?」
「そう! 絶対効くって! 俺だったらそんなことされたら一発でノックアウトだし、何でも答えちゃうな」
「うぅ……本当にそんなのでいいの?」
「もちろん!やっぱりド直球で『私のことどう思ってる?』って聞くのが一番手っ取り早くて確実だよ。ミオちゃんが恥ずかしいなら、俺がそれとなくカシムさんに聞こうか? 『ミオちゃんが寂しがってますよー』って!」
(ひぃぃっ、絶対にやめて!!!)
もしレオ君がそんなことをカシムに問い詰めたら、次の瞬間にはカシムの氷のような笑顔と共に、レオ君が行方不明にされてしまう。
「う、ううん! 大丈夫、気持ちだけで十分嬉しい! レオ君の命がいくつあっても足りなくなっちゃうから!!」
「あはは、大袈裟だなぁ。でもさ――」
レオ君は楽しそうに笑うと、「あっ!」と、顔を輝かせた。
「こうやってずっと店の中で悩んでるから煮詰まっちゃうんだよ。次の休み、気分転換にどっか息抜きにでも行こうよ! 隣町の市場に、すげー美味いケーキの店があるんだ。俺案内するし、美味しいもの食べてパーッと忘れちゃいなよ!」
友人としての温かな優しいお誘い。
以前の私なら、「わあ、行く行く!」と喜んで飛びついていたかもしれない。
けれど。
私はつい、自分の首元へと手を伸ばしていた。
指先に触れるのは、しっとりとしたベルベットの感触。夏真っ盛りのこの季節には正直ちょっと暑苦しいこの黒いリボンは、あの光祭の夜、カシムが私の首にこれを巻きつけながら、『絶対に外さないで』と囁いた、あの日からの約束だ。
私は首元から手を離し、レオ君に向かって、心の底からの感謝を込めて、けれどはっきりと首を横に振った。
「レオ君、話を聞いてくれて本当にありがとう。誘ってくれたのも、凄く嬉しい。……でも、今回は遠慮しとくね」
「そっか……。無理にとは言わないけど、大丈夫?」
「うん! レオ君のおかげで、なんかちょっとスッキリした。……逃げてちゃダメだよね。ちゃんと、本人に伝えないと!」
いつまでも一人でぐるぐると悩んでいないで、ちゃんとカシムの正面に立って、彼の本当の気持ちを確かめよう。
レオ君の真っ直ぐな優しさに背中を押され、私はようやく前を向いて、明るい笑顔を取り戻すことができた。
「へえ……。俺に、何を伝えてくれんの?」




