49:今更、今更、今更。今更のゲシュタルト
「……うう、眠い……目がぁしょぼしょぼするぅ……」
翌朝。鏡の前に立った私は、自分の首元を見て更に落ち込んだ。
そこには、昨夜カシムによるダメ出しの度につけられた、キスマークがこれでもかと並んでいた。
せっかく消えかけていたはずの場所に、上書きどころか倍の濃さで新しい痕がばっちりと居座っている。
(いいねって、悪くないって言ってたのに……!なんなのよあいつ、そもそも『俺の欲しい答え』なんて分かるわけないじゃないっ!エスパーかっ!!)
結局、あのままカシムが満足するまで離してもらえず睡眠時間はいつもの半分以下だ。
いつもより遅い時間に家を出る事になり、朝ごはんを食べる時間もなかった。同じく寝不足のはずなのに余裕な態度のカシムに、釈然としないものを感じつつ急いで店へ向かう。
「おーう、二人ともお疲れさん! 今日もよろしく頼むな!」
『潮風の亭』の扉を開けると、ガロンさんが笑顔で出迎えてくれた。
昨日の団体客の嵐が嘘のように、午前中の店内は穏やかな空気が流れている。今日はレオ君がいないからガロンさんとカシム、そして私のいつもの三人体制だ。
「ガロンさん、おはようございます! 今日もしっかり働きますよ!」
昼時になると、店は常連客たちで賑わい始めた。
私はホールを駆け回り、カシムは厨房でガロンさんのサポートをしながら、料理を仕上げていく。
「はい、お待たせしました! エール二つと、日替わり肉煮込みです!」
「おお、ありがとよミオちゃん! いやぁ、今日も美味そうだ!」
声をかけてくれたのは、近所で小間物屋を営んでいる気のいいおじさん夫婦だった。結婚して二十年近くなるという二人は、いつも仲睦まじく、お互いを「お前」「あなた」と呼び合って笑い合っている。
「本当に、いつ見ても仲が良いですね。羨ましくなっちゃいます」
私がトレイを抱えて微笑むと、奥さんの方が優しげに目元を和ませた。
「何言ってるのよ、ミオちゃん。あなたたちのところこそ、本当にいつも仲が良くてお似合いのご夫婦よ。カシムさん、店にいる間ずーっとミオちゃんのことばっかり目で追ってるじゃない。若いっていいわねぇ」
「えっ……!?」
奥さんの言葉に、私は思わず厨房の方を振り返った。
ちょうど注文の料理を皿に盛り付けていたカシムは、奥さんの言葉が聞こえていたのか、私と視線が合うと、ふっと優しく微笑んできた。
「ほら、あんな顔されたら、私だったら毎日気絶しちゃうわよ」
奥さんが揶揄うようにクスクスと笑う。
私は「もう、やだなぁ!」と照れ隠しの笑顔で返事をして、カウンターの裏へと引っ込んだ。
お昼のピークが過ぎ去り、静まり返った店内の厨房。
食器を洗う自分の手が、ふと、奇妙な違和感に止まった。
(……ん? さっき奥さんに『仲が良い夫婦ね』って言われて、私、普通に喜んでなかった?)
じっと手元の泡を見つめる。
いやいや、ちょっと待って。落ち着こう。
そもそも私とカシムが夫婦だって話は、この街で素性を隠すための嘘で、ただの『演技』だったはずだ。
(なのに……なんで私は毎晩一緒に寝て、キスマークまで付けられてんの? おかしくない?)
今更ながら、カシムとの日常に、頭のなかの冷静な部分が騒ぎ始めた。
(そういえば、カシムとの間に壁も当たり前みたいになくなっちゃったし……え、待って!? 私、貞操観念ユルユルすぎない!? 私ってこんなにチョロかったの!?)
恋人でも夫婦でもないのに、近すぎる距離にいつの間にか慣れてしまっていた。自分のあまりの警戒心のなさとチョロさに、漠然とした焦りが押し寄せる。
この街に着いてから、現在の状況まで改めて振り返ろう。ひとつひとつの出来事は、その都度カシムの屁理屈に丸め込まれたり、自分でも納得してきたはずだ。
だけど、一歩引いて客観的に見てみれば、ただの『保護者兼同居人』にしては、明らかに一線も二線も踏み越えて行き過ぎている。
……もう、自分を誤魔化すのも限界かもしれない。
彼にされることを『嫌だ』と思ったことは、出会ってから一度だってないのだ。
昨日の夜だって、カシムの手を本気で拒んでいたわけじゃなかった。嫌われるのが怖くて、必死になって彼の欲しい答えを探そうとしていた。
それは、なぜかーーー。
(――あ、私、いつの間にかカシムのこと、好きになってたんだ……)
その瞬間、ストン、と胸に何かが綺麗に落ちた。
吊り橋効果でも、異常事態の気の迷いでもない。私は言い訳できないくらい、カシムのことが大好きなのだ。今頃自分の恋心を自覚する。
けれど。
自分の気持ちに気付いた途端、次に大きな疑問が頭をもたげた。
じゃあ――カシムは?
確かに、彼は私に異常なまでの執着を見せる。
「俺のものだ」と、言われたことだって、一度や二度ではない。
指先に残る泡を見つめながら、私の思考が急速に冷えていく。
(……カシムから、『好き』とか『愛してる』とか、そういう言葉って、一度も聞いたことがない)
カシムが私を独占しようとするのはなんで?そもそも彼はーーー最初なんと言っていた?
『退屈しのぎ』
『子どもには興味ない』
『俺が飽きるまで』
………。
今までちゃんと考えてこなかった自分に愕然とする。
彼は言ってたじゃないか、掃除屋を引退してやることがない、と。
カシムの態度はいつも余裕そうで飄々としていて、私の反応を見て楽しんでいるだけだ。私ばかりが彼を特別に思って、カシムの言葉一つに必死になって、振り回されて。
やっぱり、あの男にとって私は、ただの退屈しのぎの『子ども』枠なのだろうか。それとも『ペット』枠?
(……ん?何か引っ掛かる)
布巾で皿を拭きながら、私は自分の首元のチョーカーにそっと触れた。
その下にあるのは、昨夜執拗に付けられた独占の痕だ。
(いくらなんでも……子どもやペット相手に、こんなことするわけなくない? じゃあ、私、別に子どもやペット扱いはされてない……ってこと?)
思考の迷路で、ぐるぐると頭がパニックを起こし始めた。
思考が二転三転、あっちこっちへ取り留めがない。
(以前、私が『面倒な重荷じゃないか』って問い詰めた時、カシムは面倒なんかじゃない、って。……ってことは、これ、もしかして、もしかすると、ワンチャンある……!?)
都合のいいポジティブ思考が一瞬よぎり、テンションが上がりかける。
けれど、決定的な言葉が何もない現状を思い出し、すぐに「いやいやいや!」と首を振った。
ワンチャンあるのかないのか。
そういえば――と、過去の記憶の引き出しが次々とひっくり返る。
(カシムって、いつから私のこと『お嬢さん』って呼ばなくなったんだっけ……?)
出会ったばかりの頃、彼は確かに私のことを、度々『お嬢さん』と呼んでいたはずだ。それがいつの間にか、当たり前のように『ミオ』と名前を呼ぶようになっていて、今ではその響きに何の違和感も持っていなかった。
その呼び名の変化の意味を、あれこれと必死に考える。
「……ミオ?」
突如、思考を占領していた張本人から名前を呼ばれ、タイミングの悪さに私は肩を揺らした。
慌てて振り返ると、いつの間にか背後に立っていたカシムが、怪訝そうに私の顔を覗き込んでいて――。




