48:スピード勝負の行方
「いらっしゃいませー! 奥の大テーブルへどうぞ!」
時計の針が夕方の時刻を回った頃、予約客たちが、嵐のような騒がしさで店内に押し寄せてきた。
そこからは、まさに怒濤の戦場だった。
「ミオちゃん、こっちのテーブル追加の黒ビール三つ!」
「はい、ただいま! レオ君はあっちのテーブルの空いたお皿下げちゃって!」
私は入念なイメトレの成果をフルに発揮し、メニュー表を盾にし、お盆の角度を調節しながら、レオ君との「絶対防衛ディスタンス」を死守した。絶対に、一ミクロンたりとも彼と不必要な密着をしないように。
なぜって、キッチンから「はい、お肉の追加だよ」と、料理を出すカシムの笑顔が――これまで見たことないレベルで怖かったからだ。
(あ、あの笑顔は今までのどれとも違うやつ……! 目が一切笑ってない、どころか完全に漆黒の闇が広がってる……!!)
レオ君が無邪気に話しかけるたび、キッチンやカウンターの間から、絶対零度の視線がヒュンヒュン飛んでくる。背中に突き刺さる視線に私は、宴会中終始生きた心地がしなかった。
そんな死と隣り合わせの宴会も、三時間を過ぎる頃にはどうにか無事に終了。
兵士たちが大満足で引き揚げ、嵐の去った店内に落ち着きが戻ってきた。
「ふぅ……。おーう、お前ら本当にお疲れさん! いやあ、助かった。あとは俺とレオで残りの片付けをやっとくから、二人はもう帰って休め!」
ビール樽を片付けながら、ガロンさんが汗を拭いつつ声をかけてくれた。
普通なら大喜びで飛びつく優しさだ。けれど、今の私にとっては死刑宣告に等しい。
(今、この暗黒状態のカシムと二人きりの自宅に帰されるのはいやぁぁぁぁ!!!)
危険信号が最大音量で鳴り響き、私はガタッと椅子を引いて立ち上がった。
「い、いやいやいや! まだ床の掃き掃除も残ってますし、ジョッキの洗浄だって山積みです! 私も残ってやります、っていうかやらせてくださいっ!」
必死の形相で居残りを懇願する私。しかし、その願いは、無情にも一瞬で跡形もなく砕け散った。
「ガロンさん、お気遣いありがとうございます」
カシムがすっと隣に並び、肩を優しく、けれどビクともしない力で抱き寄せた。私に向けるのは、美しい笑みだ。
「ミオったら、こうやって空元気で振舞ってますけど、本当はさっきから足元が少しフラついているんです。今日一日、慣れないことでかなり疲れてしまったみたいですから……今日はお言葉に甘えて、お先に失礼しますね」
「おう、そうかそうか! ミオちゃん、無理すんなよ。カシム、お前がしっかり労ってやれよ!」
「ええ、もちろん。たっぷり労わってあげます」
「ちょっと待ってガロ――」
私の抵抗も虚しく、ガロンさんは「頼んだぞー」と親指を立て、レオ君も「カシムさん、ミオちゃん、お疲れさま!」と笑顔で手を振っている。
カシムの笑顔の前に私の最後の砦はあっけなく崩壊。そのまま、ずるずると引き連れられるようにして、自宅へと強制連行されたのだった。
ガチャリと背後で鍵が閉まる冷たい音が静かな空間に響いた。
(ヤバイ、カウントダウンはもう始まってる……! こうなったら、カシムに主導権を握らせないスピード勝負よ!!)
私は荷物を置くなり、「お、お先にお風呂いただきますっ!」と叫んでダッシュで脱衣所へ駆け込んだ。
急いでお湯を浴び、湯船に浸かりながら、必死に頭をフル回転させる。
(寝ちゃえばこっちのものよ、ね!? カシムに『今日のこと』を詰められる前に、就寝に持ち込めば勝機はある……!)
お風呂から上がった私は、髪をタオルでガシガシと拭きながら、リビングにいたカシムに、先手を打つため超早口でまくしたてた。
「いやぁー! 今日も本当によく働いたね! お疲れ様、カシム! カシムもすっごく疲れたよね? 急な団体客なんて本当に大変だったもんね! だからもう、早く寝よ! うん、疲労回復には睡眠が一番! さあ寝室へ行こう、そうしよう!!」
カシムに一切の反論も与えないマシンガントーク。
私はカシムの顔を見ることもせず、そのまま寝室へ文字通りダイブする勢いで飛び込み、ベッドの中へと潜り込んだ。よし、ここまで計画通り! 私の勝ち――。
パタ、と寝室の扉が静かに開いた。
「そうだね。ミオの言う通り、今日はお互いによく働いた」
カシムの声は、とても穏やかだった。怒る風でもなく、いつもの意地悪な調子でもない。
彼はそのまま、私の「早く寝よう」という提案をあっさりと受け入れるように、ごく自然な動作でベッドの反対側から毛布の中へと入ってきた。
(えっ……? あ、あれ? 怒ってない……?)
拍子抜けして、ホッと胸をなでおろしかけたその時、カシムの長くてしなやかな腕が伸びてきた。
そして、私の腰を、逃がさないとばかりに後ろから抱きすくめたのだ。
「ひゃいっ!?」
びくともしない腕の力。背中にぴったりと張り付く、カシムの男らしい胸板の熱。
(っ!!完全に大失敗した!『寝ちゃえば勝ち』どころか、一番逃げ場のない場所に来ちゃった!私のバカーーー!)
カシムは焦る私をゴロリと自分の方へ仰向けにさせると、上から覆いかぶさるようにして、その美しくも冷たい銀色の瞳で、顔をじっと見つめてきた。
至近距離で交わる視線。
いつもなら、私が慌てるとカシムは楽しそうに口角を上げて揶揄ってくる。
なのに、今はただ無言で、冷たい熱を孕んだ視線で見つめ続けている。
「……カ、カシムさん? あの、お疲れだから早く寝るんじゃ……」
「ミオ。ずいぶんと急いで寝ようとするんだね」
鼓膜を直接揺らすような、低く、甘く、そして逃げ場のない声。
「まるで、俺と何か話すのが怖くて、慌てて逃げ込んだみたいだ」
「そ、そんなことない!全然、全く、少しも!本っ当に疲れてるだけだってば!」
なんとか押し返そうとするけれど、カシムの身体は微動だにしない。それどころか、彼は私の両手首を片手で優しく、けれど絶対に解けない力でベッドに縫い付けた。
空いたもう片方の手の指先が、むき出しになった私の首元――数日前の教育の痕が残る場所を、ゆっくりとなぞる。
「本当に? ……じゃあ、眠くなるまで昼間の『答え合わせ』をしようか」
ヒリつくようなカシムの声と指先に肌が粟立つ。恐怖に寄るものか。それともーーー。
「あのガキの腕の中、そんなに居心地が良かった?」
「ち、違っ! 不可抗力っていうか、レオ君が咄嗟に助けてくれただけで……!」
「はい、ダメ。不正解。やり直し」
「ひゃうっ!?」
カシムはフッと目を細めて微笑んだかと思うと、私の話を遮るように、容赦なく私の耳たぶをガブリと強めに噛んだ。
ツンとした痛熱い刺激が脳天を突き抜け、私の口から情けない悲鳴が飛び出す。
「俺が欲しい答えじゃない。ほら、ちゃんと考えて」
(ええええクイズ形式!? っていうか耳噛むのは反則でしょ!? 頭が働かないってば!!)
拘束された手を解くこともできず、カシムの熱い吐息が耳元を掠めるたびに背筋がゾクゾクして思考が散らばる。カシムの質問の意図……欲しい答えって何!?
パニックを起こしかける脳みそをフル回転させるけれど、正解が分からない。私の沈黙を「時間切れ」とみなしたのか、銀色の瞳の奥にある闇が、一段と深く濁った。
「……目の前で、俺のミオが他の男に抱きすくめられて、見つめ合っているのを見せつけられた俺の気持ちは? ……少しは考えてくれた?」
「単純に凄いなって思って! 見つめ合ってなんか――んやぁっ」
「それも違う。やり直し」
叩き切るように宣告され、弁明の言葉は首筋によせられた唇によってすべて溶かされた。
「……っ、ふ、あ……カシム……っ」
強く吸い上げられ、熱く濡らされていく皮膚の感覚に、背筋から腰のあたりがぞくぞくと甘く戦慄く。何度も繰り返される深い執着に、頭がじんわりと痺れていく。
ようやく唇が離れたときには、私はすっかり呼吸を乱し、涙目でカシムを見上げることしかできなくなっていた。そんな私を見下ろすカシムの視線は、どこまでも昏いのに酷く艶っぽく歪んでいる。
「目を離すとすぐこれだ。ミオは自分がどれだけ隙だらけで、俺を狂わせるか、本当に分かっていない……あーあ、ここ、ちょうど消えかけていたのにね」
銀色の瞳が、私の首筋を捉えていた。数日前の痕――薄くなりかけていたキスマークを、彼は自分の縄張りを確かめるように指先でなぞる。
(ヤバイヤバイッ!もうこれ、変にごまかしたり言い訳したりしたら、本当に一晩中離してもらえないやつだ……!!)
心臓がバクバクと壊れそうなほど鐘を鳴らす中、私は涙目のまま、消え入りそうな声で白旗をあげた。正解は分からないけれど正直に謝ったら許してくれないかな。
「……ごめんなさい。カシムとの、約束……破っちゃって」
「……」
「怒らないで…… 私は、カシムのだってちゃんとわかってるから……もう許して……」
あまりの恥ずかしさに顔を隠したいけれど、カシムの手がそれを許さない。
正解が分からず嫌われないか怯える私に対して、カシムの端正な顔が、これ以上ないほど甘く蕩けていく。
「いいね。悪くない。……その潤んだ瞳も、素直すぎる可愛い反応も……全部俺のものだ」
そう囁かれた直後、先ほどよりも強い力で同じ場所を噛むように吸い上げられた。
(いやあああああ、謝ったのに!てか、これもうお仕置きっていうか、ただの猛獣のマーキングじゃん!!)




