5:空腹と理性
スマホという名の文明の灯火が、一筋の黒い煙と共に永眠してから一時間。
私は、部屋の隅で膝を抱え、ただ呆然と「かつてスマホだった黒い板」を見つめていた。
この世界で唯一、私が「私」であることを証明してくれた記憶の断片。それが、カシムの指先から放たれた魔力によって、ただの焦げたガラクタへと変わり果てた。
あー、もうダメだ。心折れそう。
異世界転移なんて、もっとこう、聖女として崇められたり、チート能力で無双したりするもんじゃないの? 実際は、服はボロボロ、スマホは爆死。おまけに目の前にいるのは、私の命を助けた恩人でありながら、同時にいつ私の首を飛ばしてもおかしくない、銀色の瞳を持った死神だ。
不運。あまりにも不運。私の不運は、異世界に来てなおアクセル全開で加速しているらしい。
胃のあたりが、またキュウと情けなく鳴った。絶望していても、腹は減る。人間とは実に現金な生き物だ。
「……ねぇ、いつまでそうやって丸まってるの。腹が減って動けなくなれば、また死人同然へ逆戻りだよ」
キッチンの方から、カシムの低く、どこか楽しげな声が響いた。
かつては組織を壊滅させるほどの暗殺者だったという彼の指先は、今は手慣れた様子でナイフを操り、切った具材を次々煮込んでいる。
「……お腹空いた。でも動きたくない。全部夢だったことにして、日本で目覚めたい……」
「はは、本能に忠実だね。でも、残念ながらここが現実だよ。ほら、とっておきのやつ。極上の栄養を叩き込んでやる」
カシムが自信満々にテーブルに置いたのは、琥珀色の透き通ったスープだった。
立ち上る湯気と共に、芳醇で濃厚な香りが鼻腔をくすぐる。それは、じっくりと時間をかけて素材の旨味を引き出したような、手間が掛かった香りだった。
私は、空腹に促されてゆっくりと口へと運んだ。
「……っ、美味しい! なにこれ、コクがすごくて、お肉もトロットロ……!」
一口含んだ瞬間、脳内に幸福物質が溢れ出した。スマホの死で憔悴しきった心に、温かいスープが染み渡っていく。
すっごく美味しい!空腹を訴える身体に野菜の甘みと、口の中でホロリと解ける肉の食感がたまらない。
カシムの性格は最悪で、デリカシーなんて言葉は彼の辞書には存在しないだろうけれど、この料理の腕だけは、認めざるを得ない。
「だろ? 栄養価も最高なんだよね。君みたいな、生きてるだけで精一杯のガキには、これくらいが丁度いい」
カシムが椅子に深く腰掛け、満足そうに私を見下ろしている。その銀色の瞳には、自分の所有物が元気に餌を食べているのを眺めるような、歪んだ愉悦が宿っていた。
「……美味しいけど、ガキって言わないで。これ、何の肉? すごい柔らかいけど、鶏肉にしては弾力があるし……。こっちの世界の珍しいお肉かな」
私が無邪気に問いかけると、カシムは「ああ」と、さも当然のように、地獄への扉を開いた。
「それ、パラライズ・スネーク(麻痺蛇)の喉元の肉だよ。そこだけは毒が回らないし、神経系を活性化させる成分が豊富なんだ。あ、その浮いてる黒いのは墓場茸。死体に生えるやつだけど、出汁は最高だろ?」
「………………」
私の動きが、石像のように固まった。
……いま、なんて言った?
死体に生える、キノコ?
麻痺する、ヘビ?
「……は、はかば……?」
「そう。墓場。腐肉の養分を吸って育つから、旨味が凝縮されてるんだ。掃除屋の間じゃ、最高のご馳走なんだよね」
私は、口の中に残っていた「最高のご馳走」を、気合だけで飲み込んだ。
……吐き出したい。でも、美味しいと感じてしまった自分の舌が憎い。
口の中にはまだ、あの芳醇な余韻が残っている。
「…………デリカシー死んでるの!? なんで食べる前に言わないのよ! 呪われる! 絶対呪われるわよ、そんな不吉なキノコ!!」
私は全力で皿を突き放し、テーブルを叩いて立ち上がった。
椅子がガタンと大きな音を立てて倒れる。
「は? 味がいいなら文句ないだろ。拾った子供を飢えさせないための、俺なりの配慮なんだけど?」
「ありがたいけどっ!配慮が斜め上すぎるわよ! ! せめて、その……もっと精神衛生的にまともなものを食べさせてよ! そのキノコ、全部ポイして! いま!すぐ!」
「贅沢言うねぇ。これ一株で、平民がひと月遊べるくらいの金が飛ぶんだよ?」
「いらない! 一億積まれても無理! せめて、もっとこう……普通の、スーパーで売ってるようなまともなものにしてよ!!」
私が全力で抗議すると、カシムの表情から軽薄な笑みが消えた。
銀色の瞳が鋭く細められ、部屋の空気が一気に凍りつく。それは、冗談でも比喩でもなく、彼が数多の命を奪ってきた「掃除屋」であることを感じさせる、鳥肌が立つほどの静寂だった。
(……あ、やばい。言い過ぎた……殺される……)
背中を冷たい汗が伝う。彼にとって、私は退屈しのぎでしかないはずだ。機嫌を損ねれば、この場で私の首と胴体がおさらばしても不思議ではない。
私のバカ!!いくらカシムがヘラヘラしてるからってやばい奴って事を忘れるなんて!!
沈黙が永遠のように感じられた、その時。
「……チッ。わかったよ、下げりゃいいんだろ。……注文の多いお嬢さんだ」
カシムは乱暴に椅子を蹴って立ち上がると、私の皿を奪うようにしてキッチンへ戻った。
彼は、ぶつぶつと何かを吐き捨てながら、鍋の中から「墓場茸」を一本一本、取り除く。そして代わりに、棚から干した普通の野菜を、投げ込むようにして加え始めた。
(……え? 文句言いながらも、やり直してくれてる……?)
調理を再開する彼の、広くて逞しい背中。
ホンモノの暗殺者が、たかだか気まぐれで拾っただけの他人の「キノコが嫌だ」というわがまま一つで、料理を修正している。
その光景は、あまりにも不条理で、どこか滑稽だった。
……でも、このキノコはやっぱり嫌だ!
正直、自分でも理解不能だ。
隠居したとはいえ、掃除屋として生きてきた俺にとって、衣食住のすべては「目的」のための「手段」でしかない。食うのは動くため、寝るのは回復するため。そこに「情緒」なんて不確かなものが入り込む余地はなかったはずだ。
だが、この数日はどうだ。
あの板切れを直すために、俺は人生で一度もやったことのないような「魔力の無駄遣い」に明け暮れた。
本来、俺の魔法は対象を内側から焼き切るか、あるいは周囲を物理的に押し潰すためのものだ。それなのに、あの「コンセント」とかいう小さな穴に、俺は髪の毛よりも細く、かつ極限まで弱めた雷を流し込み続けた。
気まぐれ、暇つぶし、そんな理由で始めたそれは、蓋を開けてみれば、心臓に触れずに、その裏側の血管だけを断つような精密作業。少しでも集中が切れれば、あの板は一瞬で爆発していただろう。
何の意味がある。あいつは泣きそうな顔で「これが私を証明してくれる唯一のものだ」なんて言っていたが、馬鹿げている。そんな板切れがあろうとなかろうと、あいつがここにいて、こうして俺に飼われてる事実は変わらない。
なのに、あの板切れが『ピポッ』という情けない音が響き、ミオが最高の笑顔で「あんた最高よ!」と俺に飛びついてきた瞬間。
俺の心臓は、毒を盛られた時より激しく脈打っていた。
結局、板切れは煙をあげて死んだ。
絶望しきった顔を見て「いい気味だ」とすら思ったはずなのに、なぜ俺は今、わざわざ手間を増やして料理を作り直している?
「……おかしい。この俺が、子供の言葉ひとつで面倒な手間を増やすなんて」
呟きは、煮え立つ鍋の音にかき消された。
最高級食材をどぶに捨て、ただの干し野菜を刻む。俺の理性が「そんな無駄な真似はよせ」と警告している。それなのに、指先は勝手に、彼女の好みに合わせようと動き続けている。
まったく、冗談にしてもやりすぎだ。自分の感覚が、今まで一度も感じたことのない妙な熱で、バラバラに狂わされていく。
「……ほら、これで文句ないだろ。普通の野菜スープだよ」
皿を戻すと、ミオは恐る恐るスプーンを運び、一口飲むと「……ありがとう」と小さく呟いた。
その声を聞いた瞬間、喉の奥が妙に渇いた。
俺は再び椅子に座り、リンゴの皮を剥き始めた。手に馴染んだナイフの柄の感触だけが、今の俺を唯一、冷静にしてくれる気がした。
「……ねぇ、お嬢さん。自分がどれだけ厄介な火種か自覚してる?」
リンゴの欠片を口に放り込み、努めて軽薄な声を出す。
「君を国に売れば、一生遊んで暮らせる褒美が出る。外に出た瞬間、強欲な野良犬どもが君の指一本にすら値を付けて群がるよ。……捕まりたくないなら、せいぜい俺の視界から消えないことだね」
この世界の天人の扱いをわざわざ残酷な言葉を選んで再び伝える。あえて脅すように告げたのは、ミオに他を頼る選択肢を捨てさせるためだ。
理由なんて分からないが、彼女が他人の手に渡るのは、どうしようもなく癪に障る。
「君が俺を退屈させない限りは、その不運、俺がまとめて引き受けてやってもいい。……ま、俺が飽きるまでだけどね」
肉食獣のような笑みを作ったつもりだった。だが、握っているナイフの先が、わずかに震えていることに、彼女は気づいただろうか。
「……性格の悪い保護者ね。でも、野良犬に追いかけ回されるよりはマシかな」
ミオが精一杯の強がりを返し、俺は思わず声を上げて笑った。
あーあ、最悪だ。でも、不思議と悪くない。
退屈しのぎに拾ったはずのおもちゃに、俺の理屈も、矜持も、生き方も、全部バラバラに塗り替えられていく。




