44:お礼しようとしたら蟻地獄だった
(……よ、よし。まずはこの重苦しい空気をどうにかしなきゃ!)
カシムにぽつりぽつりと話しかけるけれど、彼は返事はするものの、どこか上の空で歩いていた。結局、会話らしい会話がないまま帰宅した。
玄関の扉を閉めると私は繋いでいた手を離し、リビングに向かいながら努めて明るい声を上げる。
「カシム、今日はお疲れ様! その……棚の修理とか、看板の時とか、いろいろ助けてくれてありがとう」
いつもなら帰宅するなり「ミオ、喉は渇いてない?」「座ってて、今お茶を淹れるよ」と、執事も真っ青のマメさで世話を焼いてくれるカシムだが、今日は違う。疲れた様子でソファに深く腰掛け、少し乱れた銀髪から覗く瞳には疲労の色が見えた気がした。
「あ、あのね?あの、やっぱり呆れてる……よね? 今日だって、結局助けてもらっちゃったし。だからお礼に、私にできることがあれば何でも言って!」
私がソファの横から恐る恐る提案すると、カシムは小さく吐息を漏らし、悲しげに目を伏せてみせた。
「……いいよ。お礼なんていらない。ミオは『自立』したいんだろ?」
「えっ……?」
「ミオにとって俺の助けは邪魔なんだろ? これからは控えようかな。……ミオがそこまで俺を拒絶するなら、悲しいけれど受け入れるしかないね」
カシムの声は、いつもの軽薄さが消え、ひどく寂しげに響いた。
(きょ、拒絶……!? 話が飛躍しすぎじゃない!?)
私だって自立はしたい。でも、それはカシムの負担を減らしたいからで、決して彼を否定したいわけじゃない。それなのに、私の頑なな態度のせいで、彼のフォローを「迷惑なもの」として全否定してしまったのだろうか。そういえば、昨夜も「俺を拒絶しないで」って言ってたような……え!?アレもしかして演技じゃなくて本音だったの!?
「違うの、カシム! 拒絶したいんじゃなくて、ただ本当に、申し訳なくて……! お礼したいの! 本当になんでもするから!」
焦った私が必死に食い下がると、カシムは伏せた睫毛をわずかに動かし、ちらりとこちらを見た。
その瞬間、カシムの纏う空気が一瞬だけ変わった気がした。んん??……いや、やっぱり悲しそう。
「……なんでも、ねぇ? じゃあ、……食後にでも、マッサージして。俺、今日はいろいろ頑張りすぎて、身体がバキバキなんだよね」
「……マッサージ?そんなので良いの?」
「ああ、もちろん。じゃあ、さっさと晩メシ食べて労わってもらおうかな」
カシムは、ソファから軽やかに立ち上がるとキッチンに向かっていった。その足取りはスムーズで疲労を感じさせない。あまりの切り替えの早さに私は置いてけぼりを食らった心地だが彼に世話をかけさせたのは事実だ。それに、マッサージくらいなら健全なお礼の範囲内である。
「……分かったわ。腕によりをかけて、揉みほぐしてあげるから覚悟しなさいよね!」
カシムは「楽しみにしてるよ」と、蜜のような甘い微笑を浮かべた。
夕食を終え、私はカシムをソファに座らせると、その背後に回って腕まくりをした。
「よし、覚悟しなさいよカシム。私の感謝の気持ちを、その凝り固まった筋肉に叩き込んであげるわ!」
気合十分で彼の肩に手を置き、ぐっと力を込める。……硬い。やっぱり、今日は相当無理をさせたんだろうか。
「……あはは。ミオ、そんなに力まなくてもいいよ。君に触れられるだけで、十分癒やされてるから」
カシムは心地よさそうに目を細め、私の手に自分の手を重ねた。相変わらずの甘い物言いに、「はいはい」と聞き流そうとしたけれど。
「……そういえばミオ。さっきガロンが言ってた親戚のガキ。名前、なんだっけ?」
何気ない口調で、彼が切り出した。
「もう!ガキって言わないの!やっぱり話聞いてなかったのね!?レオ君よ! それにしても、十九歳で自立なんて、本当に凄いよね。尊敬する!」
私が呆れながらも正直な感想を漏らすと、カシムの雰囲気が変わる。……まずい。何か地雷を踏んだ気がする。
「ふぅん。……十九歳の、レオ君、ねぇ?まぁ別にいいんだけどさ。……ただ、ミオは昨日教えたこと、まさか忘れてないよね?」
「昨日……?」
首を傾げた私を、カシムは座ったまま、首だけをひねって見上げてきた。その瞳の奥に、湿度の高いどろりとした熱が混ざる。対カシム警報が頭の中でガンガン鳴ってる。これ以上聞くのは危険だ。でも止めれない。
「俺、ミオが他の男に構うの耐えられないんだよね。……もし、そのレオって奴が君に触れたりしたら、自分を抑えられる自信がないなあ。ガロンの親戚がいきなり行方不明になるなんて、ミオも望んでないだろ?」
「な、……そんなのダメに決まってるでしょ! 何言ってんのよ!」
冗談……よね? いや、この男に限ってそれはない。やると言ったらやる男だ。やっぱり聞かなきゃ良かった!
私が焦って声を上げると、カシムは目を細め、手首を掴んで自分の首へと誘導した。
「じゃあ、安心させてよ」
「……安心?」
「ミオは俺だけのもので、よそ見したりしないって。その確かな証拠を。……そしたら俺も、そいつが目の前をチョロついてても我慢できると思う。……まぁ?嫌なら、いいんだけど。その時は何があっても、俺を責めないでね?」
(う、……なにそれ!?)
「どうする?」
「え、あ、えっと……」
ここで私が拒めば、カシムはまた暗殺者時代の荒んだ心に戻ってしまうかもしれない。せっかくガロンさんのお店で(私を除いて)比較的平和に過ごせてるのに、私のせいで血の雨が降るなんて絶対ダメだ。
平和を守るため。まだ見ぬ師匠(仮)を救うため。そして、カシムの不安(?)を取り除くため。
私は、大いなる使命感を背負い、覚悟を決めた。
「ーーっ分かったわよ!何すればいいの!?」
「ミオ。いい子だね。……じゃあ俺の首にもミオとお揃いの痕を付けて?」
「ぇ!?……はぁ!?なんでよ!出来るわけないでしょ!」
思いもよらない要求に顔が火を吹く。脊髄反射で全力拒否するとカシムは一見すると落ち込んだ表情で、私の手を離した。
「そっかぁ。あ、そういえば……さっきなんでもするって『ミオが』言ったよね?ミオは俺に嘘ついたの?」
「うっ……」
悲しげに、けれど逃げ道を完全に断つような言い草。
(ううっ、この性格の悪い誘導……!)
カシムは傷ついたふりをして視線を伏せているけれど、その口角がわずかに上がっている。確信犯だ。ここで引いたらあの手この手で「レオ君に会うためにカシムを拒絶した」みたいになりかねない。そんな誤解、それこそ命に関わる(主にレオ君の)
「……っ、わ、わかったわよ! つければいいんでしょ、つければ!」
私は半ばヤケクソになって叫んだ。なるようになれ!!
「……期待してるよ、ミオ」
カシムは満足げに目を細め、ソファに深く背を預けた。
こちらを見上げる彼の顔は、嫌になるほど整っている。スッと通った鼻筋から、鋭く、けれどどこか優美な曲線を描く顎のライン。そこから繋がる首筋には、彼が呼吸するたびに喉仏が小さく上下し、男の人特有の硬さを伝えてくる。彼の薄い唇の柔らかさと熱を私はもう知っている。その記憶が不意に呼び起こされ、私の心臓はいっそう激しく跳ねた。
(……なによこれ。色気がやばい。……カシムのくせに)
私は腰を屈め、心臓が口から飛び出しそうなのを抑えながら、彼の首筋に顔を寄せた。
ふわ、とカシムの香りが鼻腔をくすぐる。
(ええい、ままよ! 思い知りなさい、私の『平和への決意』を!)
「――んっ……」
昨夜、彼が私にしたことを必死に思い出しながら、その肌に唇を押し当てる。
こうなったら絶対にカシムを照れさせてやる。あわよくば、あまりの気恥ずかしさに「もうミオをからかうのはやめよう」とか思わせたい!
――けれど。
「あはは、ミオ、くすぐったいよ。もっと『しっかり』してくれないと、証拠にならないなぁ」
カシムは私の後頭部にそっと手を添えると、指先で髪を弄びながら、どこまでも余裕たっぷりに笑った。
私が必死になればなるほど、彼は楽しそうに、甘く、低い声で私を煽ってくる。
(な、なんで……っ!? どうして私だけがこんなに顔が熱くて、心臓がバクバクしてるのよ!)
ようやく顔を離すと、彼の肌には、私の努力の結晶(?)である紅い痕が、薄っすら浮かび上がっていた。
肩で息をしながら、真っ赤な顔で彼を睨みつけた。
「……ど、どうよ! これで文句ないでしょ!」
「まぁ、いいかな。これで、ミオは『俺のものだ』って安心できる」
カシムは、痕を指でなぞり、獲物を捕らえた獣のような、最高に意地の悪い笑みを浮かべた。こんのドS死神め!!
「いい子だ、ミオ。これで明日からも、みんな平和でいられるよ。……君が約束を守る限り、ね?」
「……ううっ、思ってた反応と違う……!」
私はその場にへたり込み、悔しさで顔を覆った。
結局、一本取るどころか、彼の手のひらで踊らされただけ。
お礼したかっただけなのに!!




