43:たかが一歳、されど一歳。
「……さて。釘が浮いてるね。ミオ、そこに置いてある金槌を取ってくれる?」
カシムの声は、いたって冷静だった。先ほどまで私を宥めていた男と同一人物とは思えないほど、今は淡々と作業に徹している。気まずい。私の周りだけ空気が澱んでる気がする。
「あ、…うん…はい。どうぞ」
渡す際、カシムの指先がわずかに私の掌に触れる。その一瞬の接触にさえ、また何かやらかしそうな自分が怖くて、差し出した手を硬直させた。
カシムはそんな私の不審な挙動を気にする様子もなく、手際よく棚の接合部に釘を打ち込んでいく。
(……何やってるのよ、私。情けない。何も変わってないじゃない)
金槌の小気味よい音が室内に響く中、私は自分の不甲斐なさに小さくなるしかなかった。
今朝の私は、あんなに気合いをいれて「自立」を誓ったはずなのに。カシムの手を借りず、不運を予測し、完璧に立ち回って彼を驚かせたかった。
それなのに、結果はどうだ。
段差を避ければ看板が落ちてきて、皿を守れば棚が倒れてくる。
結局、彼がいなければ私は今ごろ、看板の下敷きか、食器棚の下敷きになっていたに違いない。どちらにしても下敷きなんて嫌だ。
(致命的に空回ってる……。俺がいて良かったね、なんて言われて、否定すらできなかった……)
俯く私の視界の端で、カシムの作業が続く。彼は一切の無駄なく、最初からこうなることを知っていたかのように、壊れた箇所をどんどん直していく。
「よし、これでいいでしょ。ミオ、そこを持ってて。最後の一本を打つから」
「……分かったわ」
私は指示されるまま、棚の端を必死に押さえた。カシムの力が加わるたび、棚がカチリと正しい位置に収まっていく感触が伝わる。
共同作業、と言えば聞こえはいいけれど実際は、彼が描いた正解の上を、私が必死に追いかけているだけだ。
やがて、修理が一段落したところで、店の奥からガロンさんが顔を出した。
「おお! 終わったか。悪いなカシム、ミオちゃん。助かったよ!」
ガロンさんはいつもの快活な笑い声を上げながら、私たちの元へ歩み寄ってきた。カシムはスッと金槌を置き、何事もなかったかのように穏やかな笑顔を浮かべる。その表情がどことなく呆れを含んでいるように見えたのは私の被害妄想なんだろうか。……ネガティブ思考が止まらない。このまま地面に埋まりそう。
「いえ、棚が壊れたままじゃ困りますから。それに、ミオが怪我をしなくて本当に良かったです」
「ハッハッハ! 全くだ。カシムがいてくれて助かったぜ。……あ、そうだ。二人とも、明日は店を休みにするから、ゆっくり休んでくれ」
「え、お休みですか?」
私が顔を上げると、ガロンさんは後頭部を掻きながら続けた。
「ああ。急なんだが、甥っ子がこっちに引っ越してくることになってな。明日は朝からその手伝いに行かなきゃならんのだ」
「へぇ!そうなんですね。甥っ子さんは幾つなんですか?」
「ん?確か十九になったはずだ。名前はレオっていうんだ。『やりたいことがある』ってきかなくてな、一人暮らしを始めるんだとさ。たまに店も手伝いに来る予定だから、ミオちゃんもよろしくな」
(じゅ、十九歳!? マジか……。私とたったの一歳しか違わないのに……!?)
十九歳。私と変わらない年齢の彼は独り立ちという人生のスタートラインに立とうとしている。
それに引き換え、自分はどうだ。カシムという巨大な甘やかしマシーンに全依存してなんとか生き延びている始末である。
一歳差。けれど数字以上の絶望的なまでの「人間力の差」を見せつけられた気がして、私は羨ましさと尊敬の眼差しを(まだ見ぬ)レオ君へと向けた。凄い。もう師匠と呼ばせてほしいレベルで眩しい。
「楽しみですね、ガロンさん。……私も、彼に負けないように気合入れ直さないと!」
私は、自分の中に溜まったドロドロの劣等感を無理やりポジティブ変換して、自分自身に喝を入れるように明るい声を上げた。さっきまで感じていた気まずさを吹き飛ばすように少し離れたところで工具箱を整理していたカシムの背中に向かって、声を掛ける。
「ねぇカシム! レオ君って凄いね! 私と変わらないのに、もう一人でやっていく決めたんだって」
カシムの方から聞こえていたガチャリ、と工具を箱に収める金属音が止まった。
カシムは中腰の姿勢のまま反応がない。
「……カシム?」
返事がないことを不思議に思って覗き込むと、彼はゆっくりと、こちらを振り返った。
「……そっか。楽しみだね、ミオ」
その顔には、相変わらず愛想の良い微笑みが浮かんでいた。
けれど、私には分かる。その「一歩遅れて出てきた、あまりに綺麗な笑顔」の正体を。
(……さては、話聞いてなかったわね?)
カシムは再び手に持っていた金槌を工具箱の隅へ丁寧に戻すと、パチンと蓋を閉めて立ち上がる。
ガロンさんの話を右から左へ受け流して、適当なタイミングでそれっぽい相槌を打って誤魔化したに違いない。レオ君に対しても、興味の欠片すら抱いていないとみた。彼にとっての「レオ君」は、そこらへんの道端に転がっている石ころと同じカテゴリーなのかもしれない。
そんな私の呆れ顔にも気づかず、カシムは片付けを終えて工具箱に手を伸ばす。
「カシムも、しっかり羽を伸ばしてくれよ。ミオちゃんを連れて、どこか遊びにでも行ってきたらどうだ?」
「そうですね。ミオも元気そうだし、出掛けようと思います」
カシムは工具箱の取っ手を握り、私の方をゆっくりと見た。
「さあ、これ片付けてそろそろ帰ろうか。お腹も空いたしね」
その手のひらが、私の背中に添えられる。
いつもの、少し強引な誘導。けれど、そこから伝わってくる体温は、やっぱり私に馴染んでる気がした。
店を出ると、空はオレンジ色の夕焼けが群青に溶けこんでいく。
いつも通り、カシムと手を繋いで歩く帰り道。私は今日一日を振り返って燃えていた。
(……一歳差。たったの一歳差よ、ミオ!)
脳裏には、まだ見ぬレオ君(19)の輝かしい「自立」の二文字が、デコレーション文字のごとく点滅している。私の目指すべき頂きが見えた気がした。
(レオ君が師匠(仮)としてこの街に来るまでに、私もせめて『おんぶにだっこ』状態から『肩貸して』くらいにはレベルアップしなきゃ!)
むくむくと「やる気」という名のエネルギーが全身を巡っている。一度や二度や三度、四度の挫折くらいで折れてちゃ不運を背負って生きていけない。やるしかないんだ。
でも、その前に。
いつも助けてくれる彼に、たまには私の方から「ありがとう」以上の何か、こう……彼が驚いて、泣いて喜ぶような(?)お礼をしたい。
(よし、決めたわ。今夜はカシムへの『お礼祭り』よ! 私が彼をこれ以上ないくらいに労わって、至れり尽くせりの極楽に招待してやるんだから!)
拳を握り決意を固めたところで、ふと隣の沈黙に気づいた。
カシムは店を出てから一言も発していない。
(……カシム、やっぱり呆れてるのかな。私の『自立宣言』があまりにも幸先悪すぎて、かける言葉も見つからない、とか?)
横目でカシムの横顔を盗み見る。
夕日に照らされた彼の銀髪は美しく輝いているけれど、その瞳は何を見ているのか分からない。いつもの軽薄な空気はどこへやら、今の彼は、なんだか近寄りがたい。
(怒ってる……というより、私が頼りなさすぎて疲れてるのかも。……なら、なおさら今夜はお礼を頑張らなきゃ!)
私は繋いだ手にキュッと力を込めた。
ーーー家まで、あと少し。




