41:スタンプラリー
ふっと意識が浮上したとき、隣にいるはずの熱はなかった。
手を伸ばしても、触れるのは冷えかけたシーツだけ。昨夜、あんなに私を縛り付けていたカシムの腕も、耳を焦がした熱い吐息も、今はどこにもない。
(……なんなのよ。安眠したいからって枕まで退けさせたのはどこの誰よ)
少しの物足りなさと、胸の中に残る正体不明の悶々とした感情を抱え、私は無理やり上体を起こした。いつまでもベッドに閉じこもっているわけにはいかない。今日も仕事はあるし、ガロンさんだって待っている。
「……よし、準備しなきゃ」
自分に気合を入れるために頬をパチンと叩くと、ベッドから抜け出し洗面台の鏡の前に立つ。顔を洗おうと髪を束ね、ふと鏡に映った自分の姿を見る――。
「……っ、な、……な、なな、……え、はぁあああああ!!?」
絶叫が、狭い洗面所にこだました。
鏡の中の私は、束ねた髪の下、首筋から鎖骨にかけて鮮やかな紅いスタンプを幾つも押されたみたいになっていた。
あまりにも主張の激しい痕跡。一つ一つの紅が昨夜の行為が現実だと訴えてくる。
「な、……なによこれ! あいつ、あいつ……!!」
昨夜の光景が、鮮明に甦える。
『嫌ならちゃんと拒絶しないとやめないよ』
耳元で囁かれたあの声。あんなの、反則だ。
怖かったし、恥ずかしかった。でも……嫌じゃなかった。
抵抗しようとする意志とは裏腹に、身体はカシムの熱に溶かされて、言うことを聞かなかった。あの時、カシムがあそこで止めなかったら、私の方から続きを求めていたかもしれない。
そんな自分がたまらなく悔しくて、鏡の中の情けない顔に再び気合を入れる。
あんな風に、私を揶揄って遊ぶカシムを絶対見返してやる!
「おはよ、ミオ。朝から元気だねえ」
背後から、のんきな声が降ってきた。
ひょい、とドアの影から顔を出したカシムは、既に身支度を終え、涼しい顔でマグカップを手にしていた。けれど、その視線は執拗に、私の首筋に刻まれた自らの嫌がらせの痕をじっと眺めている。
「カシム……!! あんた、よくも……! これ、どうすんのよ! 虫刺されなんてレベルじゃないわよ!?」
食ってかかる私を、カシムはいつものヘラヘラした軽薄な笑みで見下ろした。
「ひどいな。ミオが『重荷になりたくない』って言うから、君を尊重して、自分の身を守れるように実地訓練してあげただけだろ? 感謝されることはあっても、怒られる筋合いはないと思うんだけど」
「訓練!? どこがよ! ただの嫌がらせじゃない!!」
「嫌がらせ? まさか。ほら、思い出してごらん。俺はちゃんと途中でやめたし、服だって少しも脱がせてないだろ? 俺は君の意思を最大限に尊重した、至極紳士的な教育者だよ。……今夜も訓練の続きする?」
「……っ!!」
続き、という言葉に、昨夜の「嫌じゃなかった」という自分の本音が脳裏をよぎる。図星を突かれたような羞恥が一気に広がり、私は言葉に詰まった。
いつだってこの男は、もっともらしい言葉を並べて私を揺さぶってくる。こちらの焦りを楽しんでいるのが見え見えなところが、本当に底意地が悪い。
「……っ、バカ! 最低!! 紳士はね、女の子の首にこんな痕、残さないの!」
「いいじゃない。君が『一人で大丈夫』なんて無茶をしようとするたびに、思い出せばいい。……ミオがどれほど無力で、誰の腕の中にいるのが一番安全かってことをさ」
カシムの手が、痕の一つに触れようと伸びてくる。私はそれを何とか避けると、逃げるようにクローゼットへ向かった。捕まったら最後だ。
結局、暖かな陽気だというのに、私はクローゼットの奥から引っ張り出した襟の高いブラウスを着込み、いつもは結んでいる髪を下ろして首回りを徹底的に隠した。いつものチョーカーだけじゃ隠しきれないほどの範囲に散らばった痕に顔が熱くなるわ、愕然とするわで、朝から情緒が行方不明になった。私も痕が消えるまで行方不明になりたい。……いや、ダメだ。カシムに秒で見つけられる……しかもその後の展開が怖すぎる。やっぱり却下で。
何とか気持ちを奮い立たせ鏡を見れば、どこからどう見ても季節外れで、不自然極まりない自分がいた。こうなったらマインドコントロールしかない。自己暗示万歳。
(髪で隠れてるし、普通にしてればバレない。大丈夫。イケる。)
そう自分に言い聞かせて外へ踏み出したものの、照りつける太陽は容赦なく私の首元を炙った。道行く人々が軽やかな半袖姿の中、私一人だけが秋を先取りしすぎたような重苦しい出で立ち。
「暑くない? 無理しなくていいんだよ、髪結べば?」
隣でカシムが、犯人のくせに聖者のような慈悲深い声で囁いてくる。
「出来るわけないでしょ! 誰のせいで!このバカシム!」
全力で拒否して、足早に歩き出す。けれど、距離を取ろうとした瞬間、カシムの大きな手が私の右手をひょいと捕まえた。
「っ、ちょっと! 何よ、離して!」
反射的に振り払おうとしたけれど、カシムはそれを許さない。指を一本ずつ絡めるようにして、隙間なく手のひらを重ねてくる。
「何って、約束。ほら、また攫われたいの?……それとも、手を繋ぐのも『教育』が必要?」
「!!ーー いらないわよ!もう、わかったからっ!」
低い声で「教育」なんて単語を出され、私は言葉に詰まった。暴れれば暴れるほど、下ろした髪が揺れて首筋の「スタンプ」が露わになりそうで、それ以上強く抵抗できない。
結局、なし崩し的に彼と手を繋ぎ、うつむいて歩くしかなかった。
繋がれた手から伝わってくる彼の体温。それが昨夜、私の全身を支配していた熱と同じものだと意識した途端、首筋の痕までドクドクと脈打ち始める。
(……なんで、私ばっかりこんなに振り回されてるのよ)
カシムの横顔を盗み見れば、彼は相変わらず鼻歌でも歌い出しそうなほど余裕たっぷりで。私は悔しさを誤魔化すように、繋がれた手をぎゅっと握り返すことで、精一杯の「ささやかな反抗」を示した。
その後もカシムに絡まれたが何とか店に着く。
私は必死にいつも通りを装ってガロンさんに声を掛けた。
「ガロンさん!おはようございます!」
「お、ミオちゃん、カシム。今日もよろしくな……って、おい。妙に気合の入った格好だな。そんな厚着で暑くないか?」
案の定、カウンターの奥からガロンさんが怪訝そうな顔で声をかけてきた。
「あ、いえ、今日はちょっと肌寒く感じて……それに、このブラウス、お気に入りなんです!」
「肌寒い? そりゃおめぇ、風邪でも引いたか。顔も赤いぞ。……ん? 首のところ、なんだそれ」
ガロンさんが身を乗り出し、私の首元を覗き込もうとする。私は反射的に肩をすくめ、下ろした髪をかき寄せたけれど、動いた拍子に襟元がわずかに横に流れた。
「真っ赤じゃねえか。ひどい虫刺されか? それとも……」
「っ!! え、あ、これは……!!」
ガロンさんの視線が、単なる虫刺されではないことに気づき始めたのを感じて、私は必死に言い訳をひねり出した。
「ああああの! 夕べ、タチの悪い虫が部屋に入っちゃって! それで隠して!真っ赤になっちゃって!だから!その、えーっと、恥ずかしくて隠してるんです!」
「虫だぁ? そりゃ災難だったな。だが、それにしては……」
「――ああ、それ。虫刺されじゃないですよ」
背後から、焦る私とは正反対の穏やかな声が響いた。
カシムが食器を棚に並べながら、振り返りもせずに淡々と告げる。
「カ、カシム!! あんた、黙って……っ」
「嘘はよくないよ、ミオ。……ガロンさん、それ、昨夜ミオがどうしても俺を離してくれなくて。俺も困ったんだけど、あんなに縋られたら……ねぇ?」
カシムはここでようやく振り返り、わざとらしく困ったような、それでいて深い満足感を隠しきれていない笑みを浮かべた。
「は、はな、離してくれなかった……!? ち、違うわよ! そんな意味じゃ……!!」
「違わないだろ? 俺のシャツをあんなに強く握りしめて、俺の名前を何度も呼んで。……ミオが情熱的だったおかげで、俺も少し『頑張りすぎちゃった』かな」
「っっっ~~~!!!」
カシムの言葉が紡がれるたび、ガロンさんの目が点になり、やがてニヤニヤとした、すべてを察したような顔に変わっていく。デリカシーどこいったの!?
確かに私はシャツを掴んだし、名前も呼んだ。でも、それはあんたが、あんな風に私を追い詰めたからで!前後を全部カットしてそこだけ抽出するなんて、あんたの方こそ嘘つき同然じゃない! なんてこと言ってくれてんのよ、この詐欺師!!
「……おー、そうかそうか。若けぇのは元気でいいなぁ。野暮なこと言ったな、ミオちゃん。……しっかり隠しておけよ。チラチラ見えてる方が、なんだか……その、目に毒だ」
「ガロンさん! 違うんです、信じて!!そういう不純な、……じゃなくて、これはもっと……なんていうか、一方的なやつで!!」
必死に弁明しようとするけれど、言葉にすればするほど墓穴を掘ってる気がする。私の叫びも虚しく、ガロンさんは「分かってる、分かってるよ」と、これ以上ないほど温かい、それでいて絶対分かってない笑みで頷いた。そのまま裏の倉庫へ荷物を取りに行ってしまった……。




