40:刷り込み
灯りを消した寝室は、静かな檻のようだった。
隣からは、意識して呼吸を整えようとしているミオの、硬い気配が伝わってくる。
枕という「壁」を奪ったせいで、彼女の緊張は極限に達しているらしい。背中を向けて丸まっているが、その肩が強張っているのが薄闇の中でも手に取るように分かった。
(……おーおー、そんなに警戒しちゃって。でも、今更遅いよ)
しばらく待ってみたが、一向に彼女の呼吸が深くならない。
俺は静かに寝返りを打ち、彼女の背中へと距離を詰めた。
「そんなに端っこにいたら、またベッドから落ちるだろ。こっちに来なよ」
「……っ、大丈夫よ。落ちないわ」
強がりな声が返ってくるが、余裕のなさは隠せていない。
俺は溜息混じりに、彼女の細い腰を後ろから柔らかく抱き寄せた。本気でミオが逃げようとすれば出られるような力加減で。
「な、……っ! あんた、寝不足なんでしょ!早く寝なさいよ!」
「俺だって寝たいよ。でも、ミオがそうやってガチガチに固まってたら、気になって眠れない。……ほら、手を出して」
言葉だけで抵抗しようとする彼女の手を取り、俺の掌の中に包み込む。
冷え切った指先。俺はそれを温めるように、ゆっくりと解し始めた。
「……何、してるの」
「マッサージ。こうして掌を刺激すると、リラックスして眠れるんだよ。暗殺者っていうのは、人を殺す方法と同じくらい、人を効率よく無力化、じゃなくて――……安眠させる方法にも詳しいもんなの」
最初は緊張して指先まで突っ張っていたミオだったが、俺が指の付け根や掌を一定のリズムで揉み解していくうちに、次第にその力が抜けていくのが分かった。
俺の熱が、彼女に浸透していく。
やがて、彼女の呼吸が穏やかになり、身体の強張りが消え、俺の腕の中に柔らかく身を委ね始めた。
――完全に、俺の熱に溶ける。ほら、やっぱりミオは甘いね。
俺は、その無防備な項を見つめながら、先ほどから燻っていた微かな苛立ちと熱を言葉に変えて流し込む。
「……ねぇミオ。こんなに無防備で力も弱いくせに、もし俺以外の男から、抑え込まれたら、君はどうするつもり?」
一瞬、彼女の身体がピクリと跳ねた。だが、弛緩しきった身体はすぐには動き出せない。
「……カシムには関係ないでしょ。それに、子供じゃないのよ。私だって警戒心くらいあるんだから。ちゃん抵抗するわよ」
うとうとした舌っ足らずで、けれど意地っ張りな反論。
俺は思わず、喉の奥で笑いを漏らした。自然と唇の端が片方だけ吊り上がる。
警戒心? どの口がそれを言う。
俺が嘘を並べて枕を退けさせたことにすら気づかず、男の腕の中でこんなに無防備に体温を預けている女が。
「……抵抗? へぇ。その言葉、信じてもいいのかな」
「っ、本当よ! カシムだから、仕方なく枕を退かしてあげてるのよ。感謝してよね、だいたい他の男だったら、今ごろベッドから叩き出して……」
「じゃあ、試してみようか。君の『抵抗』とやらが、どこまで通用するのかを」
声を低く落とし、俺は彼女の両手首を片手でまとめて頭上に掴み上げる。華奢な二つの手首は、俺の掌の中にすっぽりと収まり、ベッドに押さえ付け上から覆い被さるように覗き込んだ。
「カ、カシム……? ちょっと、何……っ」
「ほら、どうしたの? 叩き出すんでしょ? やってみなよ」
俺は彼女の耳の輪郭に唇を寄せ、軽く食んだ。
おでこへのキスのような、戯れの感触ではない。もっと深い場所を侵食する、執着の刻印。
「あ……っ、やめ、……」
首筋に、容赦なく唇を押し当てる。
柔らかい肌に吸い付き、俺の所有物であることを証明するように、痕が残るほど深く。
熱を持った首筋の痕を宥めるように舌先で擽る。
首筋から顔を離した俺は耳の奥に吐息とともにミオに囁く。
「ーーねえ?ほら、抵抗は?」
ミオの身体が、恐怖と、それとは別の熱に当てられたのか腰が妖しく揺れる。
「や、だっ……カシムっ……」
「俺が、何? 怖いの? それとも……もっと?」
「や、……カシムっ噛ま、ない……でっ」
「ミオ。俺以外の男にこんな真似をされる前に、そのお花畑な頭に叩き込んであげるよ。君の『警戒心』なんて、男の薄汚い欲の前では紙切れ一枚ほどの価値もないんだってことをね」
何度も耳を食み、首筋に吸い付く。その度に、跳ねる腰を宥めるように、服の上からゆっくりとその輪郭をなぞった。
腕の中で、ミオはすぐに限界を迎えた。
彼女の抵抗は、もはや拒絶の体を成していない。俺を押し返すはずの手は、手首の拘束は解いているというのに暴れることもなく、俺のシャツを縋るようにきつく握りしめている。
(……なんだよ、その手。本気で逃げたいなら、もっと必死に抗えばいいのに)
あまりの抵抗のなさに、胸の奥で焼けるような苛立ち。こんなに簡単に、男の言いなりになって。
「……ミオ。そんな力でどうやって抵抗するの?爪を立てて、暴れないと。それとも何、……俺を誘ってるの?」
「っ、ちが、……やだ、……っ」
「嫌ならちゃんと拒絶しないとやめないよ」
否定する言葉をあざ笑うように、俺はさらに深く彼女の熱を吸い上げた。
心配で、腹立たしくて、けれどたまらなく可愛い。
「いい? 俺だけがミオに触れられる。……覚えておいて。君が今感じてるこの熱も、体の震えも、全部俺だけのものだ。……返事は?」
「……っ、ん……あ、……わかった、か、ら。……っ、カシム、だけ……」
熱に溶けた瞳で、彼女は掠れた声で肯定を零した。
震える呼吸、目尻に涙をためて潤んだ瞳、そして俺の腕の中から逃げ出すことさえ忘れて、ただ熱に浮かされているその姿。
これ以上は、止められなくなる。
「……はい、おしまい」
俺はふっと身体の奥に籠った熱情を吐き出し、彼女に跨った身体を起こす。
急に解放されたミオは、シーツに沈み込んだまま、呆然と俺を見上げている。
「これに懲りたら、俺以外の男にはちゃんと距離を考えるんだよ? 分かった?」
わざと茶化すような口調で言うと、数秒遅れてミオの顔に正気が戻ってきた。
「……っ、あんた! また揶揄ったわね!? 最悪!性格悪すぎよ!」
「そんなことないよ。ミオが危なっかしいから、わざわざ身をもって教えてあげたんでしょ? 感謝してほしいくらいだね」
俺はいつものヘラヘラした笑みを顔に貼り付けた。
心臓が、耳元でうるさいくらいに脈打っているのを隠しながら。
「さ、そろそろちゃんと寝ないと明日起きられないよ? ……それとも、続きしてほしいの?」
「しないわよ! もう、ほんっとサイテー!馬っ鹿じゃないの!?」
ミオは叫ぶように言い捨てると、毛布を頭まで被り、俺に背を向けた。
俺はそんな彼女の頭を、毛布越しにポンと一度だけ撫で、ゆっくりとベッドから立ち上がった。
「俺は喉が渇いたから、水でも飲んでくるよ。……いい? 俺が戻るまでに寝てないと、続き、本当にするからね?」
返事の代わりに毛布がモゾモゾと動くのを確認して、俺は寝室を後にした。
リビングに辿り着いた瞬間、俺は壁に背を預け、大きく息を吐き出した。
暗い室内で、自分の手が微かに震えているのが分かる。
(……危なかったな、本当に)
余裕たっぷりに「お仕置き」をしていたつもりだったのに、いつの間にか追い詰められていたのは俺の方だ。
俺の腕の中で身を委ね熱に浮かされる彼女の匂い、微かな鳴き声、その柔らかな感触。
あのままあと数秒、彼女が俺を見つめていたら――俺は間違いなく、彼女が泣いて縋っても止まれなくなっていただろう。
「……教えるどころか、俺の方が余裕なくしてどうするんだよ」
冷たい水を一気に飲み干し、熱を持った身体を静める。
彼女を俺専用に作り替えようとしたつもりが、俺の方が、彼女という熱に深く侵されている。
一時間ほど時間をかけ、理性を繋ぎ直してから、俺は再び寝室の扉を開けた。
ベッドの上では、小さな塊が規則正しい呼吸を刻んでいた。
俺の警告を忠実に守ったのか、あるいは緊張の反動で力尽きたのか。
俺はベッドに潜り込み、境界線のない隣で眠る彼女の寝顔を覗き込む。
月光に照らされたその首筋には、俺が刻んだ紅い痕が、鮮明に残っていた。
続きを望む衝動を必死に抑え、俺は彼女の耳元に、届かないほど小さな声で囁いた。
「……おやすみ、俺の可愛い重荷」
明日の朝、鏡を見た彼女がどんな悲鳴を上げるか。
それに対する「言い訳」をいくつも並べながら、俺は心地よい敗北感と共に、彼女の隣で目を閉じた。




