39:壁の崩壊
家へと続く石畳を歩きながら、俺は繋いだ手に感じるミオの温度を確かめる。先程まであった彼女の指先の震えも、今はもう治まっていた。
最近では無意識なのか彼女も時折、俺の手を握り返してくるようになった。
先ほど、夜道で彼女が吐き出した言葉――「私は重荷なんじゃないか」というあの問い。
俺がいないと彼女は傷つき、まともに歩くことさえできない。その現実を、彼女は「自分の至らなさ」として受け取ったらしい。
(……ははっ、面白いな、ミオは。本当に善良で世間知らずで、甘い)
想定外だったが、その事実を彼女が正しく認識し始めたからこそ、次の段階へ進む絶好の機会だと思い直すことにした。
玄関の鍵を開け、家の中に入る。
まだ新生活の匂いが残る、俺とミオだけの空間。
ミオはどこか落ち着かない様子で、ガロンから貰った包みをテーブルに広げた。
「……お腹、空いたわね。冷めないうちに食べちゃいましょう」
努めて明るく振る舞う彼女の声が、僅かに上擦る。
俺は「そうだね」と短く応じ、彼女の向かいに腰を下ろした。
ガロンが渡したのは、まだ温かさを保った厚切りのカンパーニュと、ハーブを効かせた鶏肉の煮込み、それに旬の果物だ。
ミオは、さっきまでの気まずさを仕切り直すように時折俺に話し掛けながら食事を進める。
小さな口で一生懸命にパンを齧り、頬を膨らませるその姿は、手懐けたばかりの小動物のようで、見ていて飽きることがない。
(……可愛いねえ、本当に)
俺は自分の食事にはほとんど手を付けず、頬杖をついて彼女を眺めていた。
ミオの意識が食事に向いている今、彼女の警戒心は最大級に緩んでいる。
俺はゆっくりと椅子を引き、彼女の隣へと距離を詰めた。
ミオの体が、びくりと小さく跳ねる。
「……な、何よ。そっちで食べればいいじゃない」
「ミオがあまりに美味しそうに食べるからね。分けてもらおうと思って」
俺は至近距離まで顔を寄せた。
驚きで大きく見開かれた彼女の瞳に、月光とランプの火が混ざり合って反射している。
「じっとしてて。……ついてるよ、ソース」
俺は彼女が拒む隙を与えず、指先を彼女の唇の端へと伸ばした。
柔らかく、温かな唇の感触。
俺が触れると、ミオは息を呑んだまま固まった。以前なら反射的に身を引いていたはずだが、最近の彼女は、俺の接触に対して拒絶よりも受け入れるようになり始めている。良い傾向だ。
俺は指先で拭い取ったソースを、彼女の目の前でゆっくりと、自分の舌先で舐めとった。
「っ……!? な、何してんのよ! 行儀悪いわよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ彼女の腰を、俺は逃がさないように片手で抱き寄せる。
「行儀が悪いのは、ミオの方だろ? ……それにしても、ミオが食べてるものって、なんでこんなに美味しく感じるんだろうね。君の味が移ってるからかな?」
「な、……っ! あんた、本当に、そういうことを平気で……!」
耳まで赤く染め、そこでやっと俺の胸元を押し返すミオ。
だが、彼女の手は俺を本気で突き飛ばそうとはしていない。
俺に抱き寄せられることに、彼女の体はもう慣れてしまっている。
俺は彼女の困惑と羞恥を十分に堪能してから、名残惜しさを隠して腕の力を緩めた。
「ほら、早く食べて。明日も仕事行くんだろ? 精をつけないと」
「……言われなくても食べるわよ!」
ミオはまだ赤い顔を背け、残りの食事を猛烈な勢いで片付け始めた。
その背中を見つめながら、俺は脳内で今夜はどこまで許されるか、引き際を考えていた。
食後の片付けを終え、寝支度を済ませた俺が寝室へ向かうと、そこには案の定、「壁」が築かれていた。
ベッドのど真ん中に、予備の枕とブランケットが積み上げられている。
ミオなりの、無駄で可愛らしいささやかな抵抗。
「よし。これで……」
「ミオ。何してるの?」
満足げに頷くミオの背後に、俺は音もなく忍び寄った。
「……ひゃっ!? びっくりした……。何って、国境よ。枕だけだと朝になったらどこかに飛んでるけどこれなら大丈夫でしょ」
彼女は自分に言い聞かせるように、強く枕を叩いた。
俺はわざと溜息を吐いて、弱々しく彼女の背後に密着する。
首筋にかかる俺の吐息に、彼女の肩が大きく震えた。
「ミオ。ついさっき、俺に『苦労掛けたくない』って言ったよね? 俺を気遣って、自分の不運とも向き合うって。……あれは嘘だったの?」
俺は彼女の肩越しに覗き込み、低く、傷ついた声を出す。
ミオは動揺したように視線を泳がせた。
「う、嘘じゃないわよ。本気でそう思ってるわ」
「だったら、俺を拒絶しないで。ミオがそうやって俺との間に壁を作るたびに、俺がどれだけ傷ついてるか分かる? ……これって、十分な『苦労』だと思わない?」
「それは……えっと、でも……」
「それに、実務的な問題もある」
俺は彼女の手首を優しく掴み、枕の山から引き剥がした。
「君、寝相が悪い自覚ある? 毎晩ベッドから落ちそうになって、その度に俺が抱き戻してるんだよ。……おかげで俺は寝不足だ。ミオが俺を気遣ってくれるなら、今日は安眠をくれない? 君をこの腕の中に固定させてくれれば、俺も安心して眠れるんだけど」
「えっ……私、そんなに寝相が悪いの……?」
(――まぁ、真っ赤な嘘だけど。枕を投げ飛ばす作業にも、いい加減飽きてきたんだよね)
「ああ。昨夜だって、もう少しで床に頭を打ち付けるところだった。……俺にこれ以上、夜中の『救出作業』をさせないでほしいな。それとも、俺が過労で倒れてもいいと思ってる?」
俺の言葉に、ミオは葛藤するように俯いた。
真面目な彼女のことだ。自分のせいで俺が睡眠不足になっていると聞けば、罪悪感で身動きが取れなくなる。
「……わ、分かったわよ。じゃあ、今夜は……その、枕はなしでいいわ。でも!今日だけね!」
観念したように枕を退けるミオ。
俺の言葉を一つ残らず信じ、容易く防衛線を差し出した彼女に、暗い達成感と――微かな苛立ち。
……こんなに簡単に俺を信じて、懐に潜り込ませるなんて。俺以外の男がこんな理屈を並べたら、ミオはどうするつもりだったんだ?
自分の手で彼女の「防衛線」を奪っておきながら、彼女のその警戒心のなさが災いして他の誰かにつけ込まれ、ましてや掠め取られる可能性が、万に一つでもあると思うと耐え難い。
俺だからいい。
だが、ミオはその致命的な甘さが飢えた男をどれ程煽り、狂わせるかを自覚するべきだ。
(まぁいい。その無防備さが招く代償を身をもって教えてあげようか)
「……よし。じゃあ、横になろうか。今日は疲れただろ」
俺は彼女を促し、灯りを消した。




