38:噛み合わない苦労の定義
私は覚悟を決め、正面からカシムと向き合う。
店で感じたカシムの行動。彼が私の不運の芽を「摘み取っている」という事実。
それは、単なる演技を超えた、行き過ぎた行為だ。
月光に透ける銀髪。影を落とす長い睫毛。その涼しげな顔は、今日一日の「異常事態」をすべて無かったことしようといている。静かな佇まいからは私がこのまま何も言わなければ、また明日からも同じ日常が繰り返されると確信させる。
隠れ家で私が『不運を卒業した』と能天気に喜んでいた時、彼はどんな目で私を見ていたのか。
それを考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。
でも、このまま「何もありませんでした」という顔で、彼の腕の中に収まっているわけにはいかないのだ。
「……なんで、わざわざ隠したの? そんなの、余計な手間でしょう。出会った頃はそんなことしなかったじゃない」
カシムは私の問いを、静かに受け止めている。その静かな銀色の光に見られると、ついさっきまでの気合いが、針を刺した風船みたいに萎んでいく。弱気な私が顔を覗かせる。
これ以上踏み込んじゃダメだ。
もし、私に受け止めきれない言葉を投げられたら?
もし、「飽きたからもういらない」なんて言われて、カシムが私の前から消えてしまったら?
この境界線を越えたら、今までの「保護者兼同居人」という関係には戻れないかもしれない。
そう考えただけで、足元が、急に頼りなく揺らいだ気がした。
このまま見たくないものから目を逸らし、聞きたくないものから耳を塞いで、カシムの腕の中で夢を見ていられたら、どんなに楽だろう。
でも、それじゃ何も変わらない。自分に降りかかる不運に振り回され、誰かに守られるのをただ待つだけの、無力な「私」のまま。
そんなのは、もう嫌だ。
私は、私の意思でカシムの隣を歩きたい。彼の隣に、ただ守られるだけの「荷物」じゃなく、ちゃんと「自立したひとりの人間」として立ちたいのだ。
私は指先をぎゅっと握り込み、逃げ出そうとする心を無理やり押し込んだ。
「私が『不運が治った』って、バカみたいにはしゃいでた時……何を考えてたの? 『こいつ、俺が裏で苦労してるのも知らないで』って、憐れんでた?それとも、私が攫われたからその埋め合わせ?」
彼はその罪悪感から、必死に埋め合わせをしようとしているだけじゃないのか。もしそうなら、そんな「義務」の守護なんて、いらない。
「本当は、私の天人なんていう立場のせいで、あんたの自由を縛ってるだけなんじゃないの?」
一度口にすると、止まらなかった。次々に溢れ出す私の中の引け目。不運も天人という足枷も私が望んだわけじゃないけど、巻き込まれる立場からすればいい迷惑のはずだ。
「……はっきり言ってよ。私はあんたにとって、ただの足手まといで、面倒な『重荷』にしかなってないんでしょ?」
ーーー重荷。その言葉が夜の空気に溶けた瞬間、カシムの瞳から光が消えた。
月光に照らされた彼の表情が、剥き出しの何かに変わる。
(――重荷?)
俺は内心で、その言葉を冷静に咀嚼した。
ミオは何も分かっていない。
俺が彼女の周囲で起きる些末な「不運」を事前に処理しているのは、憐れんでいるからじゃない。
……許せないだけだ。
彼女の意識が、たかだか折れた箒や、転んだ痛みなんかに割かれることが、我慢ならない。
ミオを驚かせ、傷つけ、その心を支配するのは、この世で俺一人だけでいい。
彼女を守る手間? そんなものは存在しない。
彼女を煩わせるすべてを排除し、その平穏を俺一人が支えているという自負。
ミオが不運を撒き散らし、それを俺だけが処理する。それは俺が俺自身にミオの隣にいる価値があると証明するための行為だ。
ありのまま彼女に伝える?ーーーいや、ありえない。ミオが怯えないように、もどかしい程のペースで俺の存在を刷り込んできたのに台無しにするわけにはいかない。
まだまだミオには俺のところまで堕ちて貰わないと。俺から離れ自立しようとする無駄な試みを諦めるその日まで。
「……心外だなぁ。隠しているつもりもなかったんだけど?それに…いい?ミオ。俺は自分の好きなことしかしない主義なんだ。縛られてるどうかは俺が決める。」
俺はいつものように、ヘラヘラした軽薄な仮面を被り直した。一歩踏み出し、怯えるミオの肩を抱き寄せる。
「面倒なことなんてひとつもないよ。俺にとっては、ミオを守るのは息をするのと同じくらい当たり前で、日常の延長なんだ。ただ、俺にはそれができるからやってる。それだけのことでしょ?」
「……できるからって、普通はそこまでやらないわよ」
「俺は普通じゃないんだ。知ってるだろ?」
俺は彼女の耳元に唇を寄せ、意識して低く甘い声を注ぎ込む。途端、彼女の瞳が怯えつつも熱を帯びた。あぁ、なんて美しい瞳だろう。俺だけを意識して俺だけを映すミオの瞳は例えようのない高揚感を齎す。
「わざわざミオを危険に晒して、泣きつかれるのを待てばよかった?今日だって、倒れてくる箒をわざと当てさせてから、『痛かったね?』なんて白々しく駆け寄るべきだった? ……そんなのありえないでしょ」
そう、ミオの肌が傷付くのも、俺以外が触れるのも。
俺の言葉に、ミオは釈然としない顔をしながらも、それ以上の追求を止めた。
「……分かったわよ。でも、次は隠さないで。私がもっとしっかりすれば余計な不運だって回避出来るはず。ちゃんと不運と向き合うから。あんたにばかり苦労掛けたくない」
君に「苦労掛けたくない」なんて言われる日が来るなんてね。
苦労? とんでもない。
俺の独占欲を「苦労」と呼ぶのなら、俺は一生、その苦労の中で溺れていたい。
俺は「善処するよ」と、月の光に紛れて嘘をついた。
彼女が自分の「不運」に向き合う必要なんてない。
君が歩く道に転がる石も、君を濡らす雨も、すべて俺が選別してやる。
ミオはただ、その偽りの平穏の中で、俺だけを見て笑っていればいいんだ。
「……ねえ、俺の手際に惚れ直したって言えば済む話じゃない?」
こうして茶化していれば、ミオは「また揶揄って!」と顔を真っ赤にして、俺の胸元を弱々しく押し返した。
ああ、これだ。この反応。
俺の言葉に振り回され、頬を染め、結局は俺の手を離せない。
彼女がどんなに自立しようとしても、この手を離す選択肢なんて、選ばない。自由なんて、ミオがいないなら退屈なだけだ。
俺はミオの手を強く握り、再び歩き出した。
(ーーーそれにしても意外だな。ミオはたまに俺の予測を鮮やかに裏切っていく)
何も気付かないまま守られていると思っていたのに。けれど、彼女が見せた瞳には俺の隠し事を容赦なく暴こうとする強い光が宿っていた。
能天気に不運が治ったとはしゃいでいたはずのミオが、いつの間にか俺の不自然な手際にここまで注目していたなんて。……ちょっと舐めすぎてたかな?




